水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

エルトゥールル号の奇蹟(4)

2015年12月15日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「エルトゥールル号の奇蹟(4)」


 エルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣を決定された。一行を神戸に運び、そこで治療したのち、日本の軍艦「比叡」「金剛」でトルコ本国へ送る手はずとなった。
  事件から三日を経て、およそ50名が神戸に移された。その後も、大島の人たちは、何百体もの遺体を引き上げて、丁重に埋葬を続けた。
 事件が日本全国に広がると、各地から弔慰金が寄せられ、遭難者家族にまで届けられたという。
 島にとどまって残存者捜索や遺留品の対処をしたメンバーも島を離れる日が訪れた。
 海軍少佐ウシュクが、伝造に右手を差し出す。「おおきに、デンゾーさん」。
「なんや、あほたれ」笑い飛ばそうとする伝造の目から涙が溢れてくる。
 ウシュクから渡された手紙を、伝造は懐に入れた。14年後、日露戦争で戦死するまで、伝造はこの手紙を肌身離さず持ち歩いていたという。


 ~ 「あなたたちが、あの猛烈な嵐の中、身の危険も顧みずにわたしたちを助けてくれたことを、わたしは生涯、忘れることはないでしょう。わたしたちのために命を懸け、なけなしの食料を与えてくれた、あなたたちの美しい心映えを、わたしたちは決して忘れはしません。
 わたしたちは、トルコへ帰ってから一生を終えるまで、このたびの救出劇について語り続けます。そして、この先、もしも日本人が危機に陥ることがあれば、そのときはかならず、恩返しをいたします。
 わたしが恩返しをできなければ、わたしの息子が、息子ができなければ孫が、かならず恩返しをいたします。トルコの民であるかぎり、恩返しをいたします。
 そのためにも、わたしは語り続けます。エルトウールル号の生存者たちは、ひとり残らず、語り続けます。子から孫へ。孫から曾孫へ。水兵から家族へ。家族から知人へ。教師から生徒へ。政治家から民衆へ。トルコのすべての民へ。
 日本人との友情を、日本人との絆を、忘れることなく語り続けます。語り続けることが、わたしたちトルコ人のできるただひとつの感謝の証だからです。
 ありがとう、美しい心をもった日本人よ。アジアの兄弟よ。」  

                         (秋月達郎『海の翼 エルトウールル号の奇蹟』PHP文芸文庫) ~


 イラン、テヘラン空港、1986年。
「なぜ、トルコの飛行機に日本人を乗せるんだ!」
 騒然とする何百人ものトルコ人たちの前に、ビルセル大使が立つ。
「みんな、聞いてほしい。われわれは、オスマンの民だ。ひとたびは大帝国を築き上げた、オスマ ンの民だ。誇り高きオスマン帝国の末裔が、恩を忘れるはずがない。みんなも、知っているだろ う。物心がつくかつかないかの頃より、親から、教師から、幾度となく聞かされてきただろう。 エルトゥールル号の事件を。それを知らないトルコ人はいないはずだ」
 話を聞いていたトルコ人たちは、はっと顔を見合わせた。

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エルトゥールル号の奇蹟(3)

2015年12月15日 | 学年だよりなど

 

   学年だより「エルトゥールル号の奇蹟(3)」


 神戸港に寄港しようと紀伊水道を目指した艦は、熊(くま)野(の)灘(なだ)にさしかかった。そのとき天候が急変した。熱帯低気圧が勢力を増しながら和歌山県南端の潮(しおの)岬(みさき)方向にすすんでいたのだ。
 9月16日夕刻。想像を絶する嵐の中に突入したエルトゥールル号は、乗組員達の必死の対応も効を為さず、制御不能となる。艦は岬の方にどんどん流されると、岩礁に激突した。ついで高波によって大量の海水がエンジンに浸入し、大爆発を引き起こしたのである。

「乗組員たちを救うには、とにかく人手が要る」「村の人たちに知らせよう」
 伝造たちは、雨風のなか、真っ暗の道を村に走った。当時、樫(かし)野(の)村には五十戸ほどの家があった。
 船が遭難したとの知らせを聞いた男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
 だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見える。目をそむけたくなる光景であった。海に生きる男達たちには特に、海で亡くなった人たちの気持ちが伝わってくる。
「一人でも多く救ってあげたい」
 少しでも息をしている者を見つけると、一人、また一人と、村の小学校や寺に運んだ。
 隣の須江村、大島村からもたくさんの人がかけつけて救助に加わった。男達がひきあげてきたトルコ人を、女達が懸命に介抱する。しかし、運び込まれた寺や小学校でも、息をひきとっていく乗組員たちが増える。問題は火の気が足りないことだった。
 一人の村人が、服を脱ぐ。「こうやって、人肌で暖めるしかない」
 すると他の者も服を脱ぐとトルコ人たちの傍らに横になり、人肌で暖めだした。
「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」
 もう男も女もなかった。ただただ助かってほしいとの願いで、村人は肌を擦りつけた。

 近代国家へと歩みをはじめた日本だったが、一般庶民の暮らしぶりは江戸時代とさして変わらない。もちろん電気や水道、ガスといったインフラが整備されている時代ではないし、周囲26㎞の紀伊大島には、井戸さえもなく、雨水を生活水にしている。
 わずかな耕地で育てたサツマイモと蜜柑を本土に持って行って米と交換し、あとは漁業で暮らしを立てる。魚介は保存がきかないため、村に食糧のたくわえはほとんど無い。
 この極貧の村が、生きながらえた69人のトルコ人たちに十分な食糧を与えるのは困難だった。
「もう食べさせてあげるものがない」「どうしよう!」
 一人の婦人が言う。「にわとりが残っている」
 鶏は島の命綱だ。時(し)化(け)が続き漁に出られない日々が続いたとき最後に手を付ける非常用だった。
 しかし、村人達は鶏も持ち寄った。洋食の心得のある者が、スープをつくり、煮物を煮る。
 箸が使えず食べにくそうにしている様子を見て、なけなしの米を炊いたごはんはおにぎりにした。
 それを不思議そうな顔で口に運ぶトルコ人を、村人は不安げに見つめる。食べものを口にして、はじめて笑顔をみせた彼らを見て、村人も笑った。
 村中から古着も集められた。ぼろぼろになった衣服を脱がせ、古着を着せると、大柄なトルコ人たちは、大人が子どもの浴衣を着ているようだった。それを村人が笑い、トルコ人も笑った。
 彼らの衣服は、村の女たちが洗い乾かして、丁寧に縫い直した。
 こうして一命をとりとめた人たちは徐々に回復に向かう。

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