学年だより「エルトゥールル号の奇蹟(4)」
エルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣を決定された。一行を神戸に運び、そこで治療したのち、日本の軍艦「比叡」「金剛」でトルコ本国へ送る手はずとなった。
事件から三日を経て、およそ50名が神戸に移された。その後も、大島の人たちは、何百体もの遺体を引き上げて、丁重に埋葬を続けた。
事件が日本全国に広がると、各地から弔慰金が寄せられ、遭難者家族にまで届けられたという。
島にとどまって残存者捜索や遺留品の対処をしたメンバーも島を離れる日が訪れた。
海軍少佐ウシュクが、伝造に右手を差し出す。「おおきに、デンゾーさん」。
「なんや、あほたれ」笑い飛ばそうとする伝造の目から涙が溢れてくる。
ウシュクから渡された手紙を、伝造は懐に入れた。14年後、日露戦争で戦死するまで、伝造はこの手紙を肌身離さず持ち歩いていたという。
~ 「あなたたちが、あの猛烈な嵐の中、身の危険も顧みずにわたしたちを助けてくれたことを、わたしは生涯、忘れることはないでしょう。わたしたちのために命を懸け、なけなしの食料を与えてくれた、あなたたちの美しい心映えを、わたしたちは決して忘れはしません。
わたしたちは、トルコへ帰ってから一生を終えるまで、このたびの救出劇について語り続けます。そして、この先、もしも日本人が危機に陥ることがあれば、そのときはかならず、恩返しをいたします。
わたしが恩返しをできなければ、わたしの息子が、息子ができなければ孫が、かならず恩返しをいたします。トルコの民であるかぎり、恩返しをいたします。
そのためにも、わたしは語り続けます。エルトウールル号の生存者たちは、ひとり残らず、語り続けます。子から孫へ。孫から曾孫へ。水兵から家族へ。家族から知人へ。教師から生徒へ。政治家から民衆へ。トルコのすべての民へ。
日本人との友情を、日本人との絆を、忘れることなく語り続けます。語り続けることが、わたしたちトルコ人のできるただひとつの感謝の証だからです。
ありがとう、美しい心をもった日本人よ。アジアの兄弟よ。」
(秋月達郎『海の翼 エルトウールル号の奇蹟』PHP文芸文庫) ~
イラン、テヘラン空港、1986年。
「なぜ、トルコの飛行機に日本人を乗せるんだ!」
騒然とする何百人ものトルコ人たちの前に、ビルセル大使が立つ。
「みんな、聞いてほしい。われわれは、オスマンの民だ。ひとたびは大帝国を築き上げた、オスマ ンの民だ。誇り高きオスマン帝国の末裔が、恩を忘れるはずがない。みんなも、知っているだろ う。物心がつくかつかないかの頃より、親から、教師から、幾度となく聞かされてきただろう。 エルトゥールル号の事件を。それを知らないトルコ人はいないはずだ」
話を聞いていたトルコ人たちは、はっと顔を見合わせた。