3学年だより「人のために(2)」
日本で初めて起きたハイジャック事件が「よど号事件」だった。
外国では、乗客全員が命を失ったり、犯人の亡命先から帰れなくなったりした例もある。よど号に乗り合わせ、死を覚悟せざるを得なかった日野原氏は、四日間拘束され解放されたときに、それまで感じたことのない生への実感を抱いたという。
~ それまで、わたしは生きて日本に帰れないかもしれないと覚悟していました。しかしソウルの空港の土を踏んだとき、わたしは足の裏にふつうではないインスピレーションを感じました。
そのインスピレーションは、わたしにこう伝えていました。「これまでの人生は、自分のために生きてきた。これからは、世話になった人への恩返しでなく、出会ったどんな人にも自分のいのちを捧げよう」と。それ以来、わたしは自分のいのちを人のために使おうと決意し、毎日を生きています。 (日野原重明『明日をつくる十歳のきみへ―103歳のわたしから』冨山房) ~
自分の命は与えられたものにすぎない。たまたま生きながらえた命を、自分の地位や名声のために使おうとするなどもってのほかだと決意する。
~ ……2013年(平成25年)の日本人の平均寿命は83歳となり、100歳以上の人は5万人を越えました。50年の間に、日本人は13年も長生きするようになったわけです。逆の言い方をすると、「13年分、いのちがのびた」ということになります。
長くなったいのちは、どんなふうに使うのがよいでしょうか。一日中ねころんで、テレビを見て時間を使うこともできますが、それだとだれも幸せにできません。
わたしは、寿命がのびて手に入ったいのちの時間は、できるだけ人のために使うべきだと思っています。「人のために自分の時間を使ったら、そんをする」と考える人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。人のために時間を使っても、多くの人から喜んでもらうことができれば、幸せな気持ちになることができます。それは、まわりまわって自分のためにもなることです。 ~
受験は誰のためにするのだろう。
「自分のために決まっているじゃないか」とみなさんは言うかもしれない。
しかし、自分で自分の人生の方向性を決め、それに向けての努力できる身体と環境をもっている「有り難さ」を、純粋に自分のために用いるのは贅沢すぎる。傲慢と言っていいかもしれない。
それに人は、自分のためだけにすることは、逆に簡単にサボりやすいという面もある。
さぼっても、楽をしても、それをとがめられたときに「どうせ自分の人生だから」と開き直れるからだ。ちょっとつらくなった、具合がわるくなった程度で、やるべきことから逃げるのは、恵まれた状況に対する感謝の念が足りない。
残された時間と現状を考えたとき、切羽詰まってくる人もでてくるだろう。
そこでふんばらないと。自分のためではなく、家族、仲間、まだ見ぬ自分が支えるべき人のためにこそ今の自分はあると思い、乗り越えていこう。