水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

転調

2011年06月06日 | 日々のあれこれ

 今練習している「虹」という曲は、冒頭がハ長調(Cdur)でスタートし、主題が繰りかえされるところで変ホ長調(E♭dur)に転調する。
 基本的な転調のしかたではないので、はじめのころみんな歌ってみると、少し音がとりづらそうだった。
 それでナック5から流れてくる「エブリデイカチューシャ」の、サビに入る時にカツンと転調する彼女たちの歌を聴きながら、よく練習しているなあと思っていたのだが、もしやと思い久しぶりに『ゲッカヨ』を買ってみたら、案の定CdurスタートでE♭durに転調しているではないか。
 絶対音感があればゲッカヨ買わなくてもわかるのだが。
 こういう3度の転調は、ポップスではよく使われると読んだ記憶がある。
 田中久美子さんの「虹」は、吹奏楽の基本的な作り方に従ってできている曲だが、昔ながらの吹奏楽曲と比べてちょっとおしゃれに感じるのは、こんなところにもあるのだろう。
 うれしくなってCDも買ったから、総選挙にも投票してみようと思う。
 やっぱ、こじはるさんかなぁ。

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6月5日

2011年06月05日 | 日々のあれこれ

三学年だより№3「男を磨く」

 先月、駿台予備校主催の「入試問題研究会」という研修会に参加した。
 入試問題の解説に入る前に、国語担当の霜栄先生が「今年の浪人生は何か例年よりしっかりしている気がする」と話し始められた。
 みんなも知ってるとおり、東日本大震災がおこったのは3月11日、つまり国立後期日程試験の前日だった。
 ちなみにその日私は河合塾新宿校で一晩過ごさせてもらったのだが、「明日の試験どうなるのかな」と話している受験生の声が聞こえた。
 後期試験はとりやめになった大学も多く、その場合にはセンターのみの結果で後期の合否が判断された例が多い。
 センターで思うような点がとれずに後期入試にかけていた受験生は、そのまま不本意な結果に終わることになる。
 結果として浪人生となった子たちは、自分自身の受験と震災とが結びついた経験となっているせいか、受験生でいられることに感謝の念をいだいているのではないかと、霜先生は話された。
 受験生でいられること。
 自分たちは震災も関係して思うような入試結果が得られなかったとは言えるが、震災のために受験生であることも、この世における生すら奪われてしまった子もたくさんいる。
 そのような感覚を人ごとでなく持ったなら、自分たちに与えられた時間がいかにかけがえのないものであるかを、無意識のうちにも感じるのではないか。
 霜先生はおっしゃった。
 勉強して力をつけなければならないのは当然のことだ。
 でも、受験生としてどんな一年を過ごすことができるか、どういう結果になるのか、それを決めるのは、「自分に与えられた時間がどれだけかけがえのないものかを自覚すること」ではないかとおっしゃられたのだ。
 受験勉強の出来が人間の価値を決めるものではない。
 どの大学に入ったかが、または卒業したかが人間の価値を決めるものではまったくない。
 でも、受験勉強にどのように取り組むか、取り組んだかという姿勢は、まさしくその人の物事への取り組み方だ。
 学校生活に対する取り組みといって方がいいかもしれないし、大きく言えばその人の生き方とも言える。
 人として、男として、やるべきことにどう立ち向かうか。
 ヤル気がないからとか、今一歩ノってないから、などと言ってはいられないことが、人生には多々あるものだ。
 身の危険があってさえ、やらなければならないこともある。
 今の時点で自分にやりたいことが見つかってなくても、健康な心身を賜った日本男児なら、この先世のため人のためにできることは山ほどあるから、今は懸命に自分を磨いていってほしい。
 とんでもない事態にでくわした時、逃げるのか、立ち向かうのか。
 物事に逃げずに立ち向かっていく力は、今年一年の過ごし方で十分に養うことができると思う。

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プリンセストヨトミ

2011年06月04日 | 演奏会・映画など

 「週刊文春」の「堀井のずんずん調査」によれば、エスカレーターで左側をあけるのは(右側に立つ)のは大阪近辺だけだそうだ。
 知らなかった。大阪に行って、立ち位置が逆なことにとまどった経験のある人は多いと思うけど、うどんの出汁のように、てっきり関西より西は全部そうだと思ってた。
 さらに西や九州にいくと、こっちと同じで左側に立って右をあけるそうだ。
 大阪というのはかくも独自の文化をもつのかと思うと、映画「プリンセストヨトミ」が描いたような世界がほんとにあって、闇の独立国家が存在しててもおかしくないのかと思えてしまう。
 影の大阪国総理が日常ではお好み焼き屋のおやじさんだったり、いざ出陣の命がくだったことを知らせるのが千成瓢箪だったり、地元の人が見たら楽しめるだろうなという場面がたくさんある。
 ただ、ご当地映画的なレベルのそれであることもたしかで、映ってない部分もちゃんとフィクションしてるかというと、そこまで深い画にも見えなかったのは事実だ。
 たとえば大阪城のまわりに男達があつまってきたとき、そこにいない大阪の高校生は今何やってるんだろと思うと、今一つイメージがわいてこない。
 でも、そんな物足りなさを凌駕するのは、われらが堤真一さまのかっこよさ、そして中井貴一っちゃんのしぶさだ。両巨頭の前では岡田将生くんもかげがうすい。同学年として負けてられないなと思う。

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6月3日

2011年06月03日 | 日々のあれこれ

 ある貧賤高潔な知識人のエピソードを漢文の問題演習で読む。
 読解し、問題も解き終わり、「で、何が言いたいの?」と問うと、しーんとしている。
 答え合わせもしてしまったのに、まだ何か話があるのかという顔に見えた。
 書いてあることを読み取ったら、書いてないことを読み取らないと。
 「元さんは大変欲のない学者でした」と書いてあるということはどういうこと?
 「元は欲がない」ということを言いたいのではないよ。
 他の人は欲から離れられないということを言いたいがために、わざわざこんなエピソードを紹介してるのだよ、と説明する。
 漢文の書き手はすべて古代中国の知識人。
 為政者たちもそう。
 同時代に人の上に立つ人々が私利私欲から離れられない現状を憂いているのです。
 どんな文章も、「なぜその文章が書かれなければならなかったのか」に思いがおよばなければ、読んだことにはならないよ、と予備校トップの先生レベルの深イイ話をした。

 放課後は今年度最初の営業活動。
 川越市内の中学校さんにポスターなどをとどける。
 吹奏楽つながりでお顔を存じている先生にお会いするとほっとして、四方山話をする。
 思いのほか早く予定校をまわれたので、ロヂャースで買い物をした後、ウニクスのタリーズで予習をしてから学校にもどり、放課後事件がなかったことを確認して、「虹」の譜読みを少しした。

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6月2日

2011年06月02日 | 日々のあれこれ

 快楽亭ブラック師匠の最近のブログに、上方の桂文我師匠へのライバル心が綿々とつづられていて、プロの噺家さん同士とはそんなに対抗意識を持つものなのかなと思う。 
 CDでしか知らないけど、文我師匠は達者な噺家さんだ。
 あえて言えば上手なだけとも言えるので、人生そのものが業のかたまりであるようなブラック師匠の方が、個人的にはよほど魅力的だ。
 立川流で言えば、今一番チケットがとれないのが談春師匠だが、ものすごく上手な方であることは認めるが、で何? と思ってしまうのだ。
 上手な落語だったら、もっと名人のCDでも聞けばいいし的な感覚で。
 わざわざライブで聞くとしたら、たんに上手なだけではなく志らく師匠のような狂気がかいま見える高座に触れたい。
 家元の言う「業の肯定」が落語の神髄なら、理屈ではわりきれない人間の欲を笑いとともに示してくれるブラック師匠の高座は、いったんはまればやみつきになる人が多いのはなるほどと思う。
 ただし、ブラック師匠の噺は紹介できない。その題名さえここに記すのがはばかられるものもある。
 でも、今を生きる噺家さんなら、ただ古典を上手にやるのではなく、ここまでやったらどうだとも思う。
 一般人にできない世界をみせてくれるのが、芸人さんの仕事だ。
 ただし世間的には文我師匠の方がはるかに受け入れられている。

 予備校で有名な先生の講義を聴かせてもらったとき、期待したほどではなかったという経験が皆無ではないが、やはり各校のトップにいらっしゃる先生のお力は圧倒的だった。
 関谷先生しかり、土屋先生しかり。先日お話を聞いた霜先生もそうだが、一つ一つのお話の背後にある学識がなみたいていではない。
 それがわかってしまうからか、このレベルの先生方に対する対抗意識はわいてこない。
 世の中には優れた先生がいらっしゃるものだと思う。
 自分の職場では歯が立たない人は皆無と思っているが、教育実習生が誰も見学に来ないところを見ると、そうでもないのが現実なのかもしれない。
 授業中かなり気合いを入れて話していて、気がつくと、なんかおれって一人? と感じる瞬間が多々ある。
 孤独。孤独とはたった一人でいることではなく、目の前にたくさん人がいるのに、心が通じ合わないことだ。
 実習生が見に来ないので、こっちから見にいって指導教官でもないのに、指導しまくろうかな。
 と本部OBのさかもと君の授業をのぞきにいってみたりした。
 彼はぜんぜん大丈夫だった。

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6月1日

2011年06月01日 | 日々のあれこれ

 お弁当にバリエーションがほしいと考え、いなり寿司を作りたいなあといったん思ったら、どうしても食べたいという「恋愛症候群」(さだまさし)の一症例的感情になり、その気分でスーパーを歩いてたら、いなり寿司用の味のついたお揚げさんが売っているのを、先日見つけた。
 すし飯はちらし寿司の素でつくればいいから、じゅうぶん朝の時間で作れる。
 昔は、ちらし寿司って、手間のかかるハレの日のごはんだった。
 便利な世の中になったものだ。
 それがいいか悪いかを言えば、いい方にふれるのは間違いなく、いったん手に入れた便利さを手放すのはなかなか難しい。
 原発を廃止して電力が不足するなら、30年前の日本にもどればいいだけだ、と言ってた評論家先生がいたけど、無理でしょ。
 いなり寿司を最初から作るとすれば、寿司めしに入れるためにかんぴょうを煮たり、ほし椎茸をもどしたり、にんじんを刻んだり、揚げを甘く煮たり、トータルで相当の電気やガスをつかうことになる。
 できあいの製品は、製造元で電気を使ってはいるが、大量生産だから一個あたりにかかるエネルギーは効率がいいし、何よりそこに仕事がうまれているのがいい。
 手作りではなくできあいのものを使うのは、今の日本のためにもなるのだ。
 いなり寿司用の揚げは10枚入り。
 子どもたち用につめると自分の分が微妙なので、今日の自分の弁当はすし飯プラスおかずになった。
 おいしく食べていると、具合が悪くなった生徒がいて、早退用の車も出てしまったあとなので駅まで送る。
 せっかくなので、ウニクスでお金をおろして、ついでにTSUTAYAでJUJUの新しいCDを買おうとしたら売り切れだった。
 残念。少女時代「Mr.TAXI」をリピートしてたら元気がわいてきたので、気合いの入った6時間目の授業をして、部活。
 追試や補習の関係で練習場所が限られてたので、大講堂ステージでの合奏。
 まったく響かない場所なので、吹けてないのがもろにわかるいい練習場所だ。
 歌って練習しないといけない箇所、リズムを確認しないといけない箇所など見えてきたのでよかった。

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