水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

リハーサル前々日

2015年09月20日 | 日々のあれこれ

 

 リハーサルの前々日。
 本校演奏曲をはじめて本番どおりに通したり、「アルメニアンダンス」、「手紙」の練習をしたりする。
 合唱でどうしても入りにくいところがあるので、ハモりを少し変えることにし各校にメールをまわす。
 松山高校さんが出場できなくなったとの連絡があり、急遽スケジュールの調整をして各校に連絡する。
 和光国際の榊原先生から、サンアゼリアは複雑なので、女子部員が誘導係をしてくれると連絡がある。
 慶應志木の小池先生から、バンドジャーナルが去年ほどではないけど取材をしてくれると連絡がある。
 合同の演奏会とは、直前でみんな忙しいそうに練習してるんだろうなと思いながら、まったくよその様子がわからないのが、不思議な感覚だ。

 

 神宮では東大が法政をやぶり、イングランドでは日本が南アフリカをやぶった。うちだって … 。

 

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容れ物

2015年09月19日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「容れ物」

 合格体験談を語ってくれたどの先輩にも言えることだが、自分のやってきた受験勉強を「客観化」できていると感じる。「対象化」といってもいい。
 自分のやってきた受験勉強とはどういうものだったのか、どういう意味があるものだったのかを、客観的に語ることができているのだ。
 受験の渦中にあった時期においても、自分を客観的にとらえることができたからこそ、必要な対策をとることができ、その結果として目標達成という事実を手に入れることができたのだ。


 ~ 「学校の授業を大事にしよう。たしかに参考書を読んでも同じ内容は書いてある。でも授業には、文字情報だけではなく、空気感がある。先生の話の方がわかりやすいとかではなく、内容が五感にうったえくるから、自分で文字を読むよりはるかに効率がいい。」
「受験勉強をしていると辛いことはある。自分もそういう時期があった。ただ辛い時期というのは、理想を追いすぎて、その理想像とかけ離れた自分が辛かったんだと思う。理想を追ってもしょうがない。自分のできる範囲での最大限を目指そう。」by長倉和也先輩 ~


 受験勉強で学んだ内容そのものを、将来の仕事内容に直接反映できる人はほとんどいない。
 今やっている勉強、たとえば数学や古典が、日常生活に直接関係ないから意味がないという意見を、たまに見かける。なるほどと思うときもある。
 しかし受験を通して成長していく高校生を目の当たりにし、しかも上記のような先輩の言葉をきくと、やはり受験の有用性を感じざるを得ない。


 ~ 「仕事ができる人」というのは「たっぷりと手持ちの知識や技能がある人」のことではなく、「自分が知らないことを学び、自分に出来ないことが出来るようになる能力がある人」のことなのである。 (Web「内田樹の研究室」より) ~


 「仕事ができる力」を「学力」におきかえても同じことが言えるだろう。
 学ぶことができる力を「学力」という。
 自分に何が足りないかを把握し、貪欲にそれを補っていこうとする力。
 自分には何かが足りない、それを埋めていかねばならない、という強い思いだ。
 そう考えると、今やるべきことが見えてくるのではないか。
 今の手持ちの能力や容量に基づいて、将来やりたいことを考えるのではなく、自分という容れ物を先に大きくすべきなのだ。
 容れ物自体が大きくなっていれば、新しいことに取り組もうとしたときに、そのために必要な知識や技術を短時間で身につけることができる。
 何かをやろうとするとき、それを最後までやりきる力を生むのも、その人の容れ物の大きさだ。

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「 「間」の感覚 」の授業 1  全体像を意識する

2015年09月18日 | 国語のお勉強(評論)

「 「間」の感覚 」の授業 1  全体像を意識する


Q1 全体を通読し、大きく四つに分け、それぞれのパーツのキーワードを抜き出しなさい。

A1  一  1~5  自然感情
    二  6~9  中間領域
    三  10~14  内外の区別
    四  15~17  「間」の感覚

 キーワード … 大事そうなことば。話題の中心として繰り返し用いられ、抽象度の高い言葉のこと。


 教科書、模試、入試などで読む評論文は、一冊の本ではなく、短いコラムでもありません。
 それなりの文字数があって、みなさんがさらっと目を通すにはストレスフルな分量でしょう。
 漠然と読んでいると、途中で最初に何が書いてあったか忘れてしまうこともありませんか?
 どの文章も、一つの言いたいことが述べられているのですが、あらく言って三つか四つのパーツに分かれて論が進んでいくのがふつうです。
 このまとまりを、意味段落といいます。複数の形式段落がまとまって形成されます。
 このまとまり感がないと、読む側も退屈することになり、筆者の言いたいことが伝わりにくい。
 人間の思考自体が、三つとか四つまでは把握できるけど、五つになると少し難しくなるという構造も関係しています。
 ちなみに、口頭で伝える場合は、一気に三つ伝えようとしても、まず無理ですね。
 このへんで少し話がかわったなと思ったら、そこの線をひいておきましょう。
 どこまでわかったか、どこからわからなくなったかも、後で気づきやすいです。

 評論文の筆者は、自分の言いたいことを伝えたいのです。
 自分が読み手だったら、どう書いてほしいだろうかという意識は、当然はたらきます。
 つかみはどうしようか、どういう風に展開しようか、と考えます。
 かなり難しい主張をしようと思ったら、わかりやすい具体例から書き始めようと考えます。
 誰もが知っていることをひっくり返してやろうと思う時は、意表をつく内容から書きます。
 言いたいことがAだとすれば、いきなりAから書くのではなく、Bから書いたりもします。
 評論文を読むときは、三つか四つのパーツに分けられるにちがいない、と決めてかかって、無理矢理分けて読むようにしましょう。
 その分け方がまちがっていても、誰も叱らないので大丈夫です。
 分けようとしたとき、この形式段落は、前のパーツにしようか、後ろにしようかと悩むこともあります。
 そういう時は、どちらに入れてもかまいません。そういう段落もあります。

 そして、ざっくりとでいいので、一つ目の意味段落は○○について書いてあるな、二つ目は○○だなと意識して、欄外にメモなどしておきましょう。そのメモは誰も見ないから、遠慮せず書いちゃってください。
 繰り返し登場する少し難しめの単語は、そのパーツのキーワードです。

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品詞分解

2015年09月17日 | 教育に関すること

 

 国語科の研究授業があった(私立でもあるのです)。
 本校国語科で一番若手教員の授業でもあり、諸先輩方はけっこう歯に衣着せずいろいろ言い、自分も厳しく語ってしまったが、「自分が新任のときには、もっともっとヘタクソだったなあ」と内心思っていた。
 会議が終わってしばらくして、ほぼ同期の同僚と顔をみあわせたとき「みんなエラくなったよね」とささやきあったのだった。
 そこまでエラそうに語れるほど、ふだんすごい授業をしているかというと、そうでもないし。
 厳しい意見を言いながらも愛にはあふれていたので、みなそれなりに自覚はあるのだろう。
 自分もたいしたことはやれてない、という。

 どの学校でも、とくに県立さん、なかでも小学校、中学校では、研究課題が毎年設けられて、研究授業が行われ、その結果を紀要にまとめたりすることもあるだろう。
 その研究紀要が、その後の教育活動に役立てられる例は、ほぼないと言ってよい。
 私立校の教員も参加できる研究会に参加したことはあるが、その中身は「おさむい」ものだった。
 向山洋一先生の法則化セミナーや、堀裕嗣先生の国語研究会にも参加していた時期だったのでなおさら、官製の研究会ではそのゆるさにおどろくことが多かった。
 教員の研究活動が、費やされた時間ほどには実を結ばないことが多いのには理由がある。
 成長ステップがマニュアル化されてない点だ。
 昨今は、初任者研修、年次研修といった形で、現場における教員養成システムが存在するようにはなったが、きちんと生かされているとは言いがたい面がある。
 システムよりも指導者個人の力量に左右される面が大きいからだろう。
 それに教員の世界は、ひとたび職についてしまえば、いくら授業がへたくそでも、一人前扱いされ「先生」とよんでもらえる。
 技量がなくても、技量が身についてないという自覚がなくても、それなりにやっていけてしまうのだ。
 「あの授業じゃ生徒かわいそうだろ、同じ授業料払ってるんだぜ!」ときびしく言える同僚のいる職場は、そういう意味では、恵まれてるのかもしれない。

 で、昨日思ったのは、古文の授業でよく行われる「品詞分解」は、もうやめるべきではないかということだ。
 なぜか。楽だから。
 誰が? 教員が。もちろん生徒も。
 「楽」というのは、そんなに頭を使わずにやれてしまうという意味でだ。
 古文読解の力をつけるにはまず品詞分解が第一、それをどれだけ徹底してやれるかが大事、という意見はある。
 一面は真理かも知れない。
 でもはっきり言うと、時代遅れでしょう。
 もっと効率よく教えられる方法はある。
 効率がすべてではないが、「品詞分解さえやってれば力がつく」と言って何十年も同じ授業をくりかえし、他の方法を考えようとしない体質になってしまうことが問題だ。
 品詞分解は、作業としては大変だけど、それなりにやりがいはある。
 答えもある。やることがはっきりしている。やったことが形で見える。
 国語の中ではめずらしく何をやるか悩まずにすむ分野だ。
 その結果、品詞分解が目的化してしまい、解釈の「ため」にやっていることを忘れてしまう。
 ちゃんとやるには時間がかかるので、量を読めなくなる。
 細かい文法問題は解けるようになっても、全体の意味を把握する力をつける作業ではないのだ。

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将来とは(4)

2015年09月16日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「将来とは(4)」

 合格体験談を話してくれた五人の先輩の言葉は、文系理系の選択についても示唆に富んでいた。


 ~ 「安易な選択はいけないとよく言われる。友だちが行くからとか理系にするとか、数学がきらいだから文系とか。でも、それはそれでいいんじゃないかな。将来こういう仕事したいとか決まってないのがふつうだよね。やりたいことって、変わるしね。理由はなんでもいいと思う。ただ、決めたらその決断については、ないがしろにしないようにしよう。どっちに進んでも、選んだ方で成功すればいいだけのことだと思う」by高橋航喜先輩。 ~


 決めることに悩む時間を、決めたことを成功に導くことにまわす方が、人生の時間は有効だ。
 どんなことがらも、必ずどこかで決断して行動にうつさないといけない。
 人生は本質的に「見切り発車」の積み重ねだといえる。
 だからこそ、自分が決めたことについては、「ないがしろにせず」に、それを成功に導くための努力をするのだ。
 人間の無意識は、実は結論を知っている。
 文系理系にしても、どこ大学の何学部を受けるにしても、どこに就職したいのかも、誰と人生をともにしたいのかも。
 そこに意識レベルの情報が入ってくると、判断が迷わされる。
 どっちを選んだ方が儲かるだろうか、有利だろうか、お得だろうか、いい思いができるだろうか、コスパがいいだろうか、他人に認められるだろうか、といった「邪念」だ。
 純粋に自分が選びたい方、無意識の声をきいてみるといい。
 それが他人の選ばない方であればなおさら将来は有望である場合も、この先の時代は多い。


 ~ 「今なんの資格をとれば稼げますか?」という質問は、稼げない人の発想です。
 稼ぐためにしているわけではないことが、結果として稼ぎにつながるのです。
「これ、みんながしていないから稼げるんじゃないかな」という考えは、抜け道が混む現象と同じです。
「なんでみんな抜け道に来るんだ」と言いますが、よく考えれば自分もみんなと同じ思考回路になっているのです。
 究極は、自分がしていることについて、「これって面白いよね。みんながわからないのが逆にうれしい」「みんなに理解されたらつまらないな」と思える感性を持つことです。
 みんなの賛同を得ることでは稼げません。
 勧められたり、ましてや補助金をもらってするようでは、決して稼げないのです。
「なんのためにそんなことをしているのか」「そんなことをしてもムダだからやめなさい」と反対されることのほうが長期的に見れば稼げるようになるのです。 (中谷彰宏『「学び」を「お金」にかえる勉強』水王舎) ~

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恋しくて

2015年09月15日 | 日々のあれこれ

 「表参道高校合唱部第8話」を録画で見ながら、BEGIN「恋しくて」を初めてきいたときに、松田聖子「SweetMemories」と似てるなあと思ったことを思い出した。でも、当時誰もパクリとは言わなかった。
 わりと最近、ORIGINAL LOVEの「接吻」と出だしがそっくりの曲があって、そのときはパクりって騒いでた人がいたな。
 「恋しくて」と「接吻」に似たなんとかとの違いは、思ったことをすぐネット上に書き散らす人が存在する状況下であったか、どうかだ。
 「恋しくて」も今発表されたなら、パクリとか言い出す人がいるかもしれない。
 でも「ドレファソラ」と「ドドドソラ」とでは、似てても違うモチーフなんだけどね、おれら音楽のプロに言わせると(な~んて)。

 吹奏楽連盟のホームページを見ると、来年の課題曲に決定していた曲が、「旋律の一部が他曲に似ている」との申し出があり、課題曲からはずされたとある。
 旋律の一部が他曲と似ている例なんて、これまでもいろいろあった。
 どの程度の似方だったのだろう。
 なんでもかんでもパクリとさわぐ素人さんの存在する今でなかったら、こういうこともないかもしれない。
 せっかく課題曲に入選したのにかわいそうだ。
 パクリなのか、パロディなのか、オマージュなのか、本歌取りなのか、批判する人も作り手もわからなくなっている時代なのかもしれない。
 一つ言えるのは、この世に純粋にオリジナルなものなどないということだ。
 そんなものがもしあったら、誰も理解できない。
 そんなものを生み出せる人がいるとしたら、その人は神とよばれる。
 
 「表参道高校」の芳根京子ちゃん、ビジュアルもお芝居も実にいいですね。

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音楽祭打ち合わせ

2015年09月14日 | 日々のあれこれ

 

 西部地区高校音楽祭、通称「バッハザール」の打ち合わせにでかける。
 何十年も「バッハザール」と呼び慣わしてきた催しだが、大学側の日程のご都合もあり、ここ何年かは所沢ミューズ会場と半々で実施され、本校は今年ミューズの方に出場する。
 パイプオルガンの演奏と、その伴奏による全員合唱という最後の企画が、ピアノによる合唱になるのは残念だ。
 武蔵野音大さんの施設であるバッハザールは、もともと商業施設ではないこともあるせいか、純粋に音楽を発表できる造りになっている。
 PAを使ったライブや、講演会などは最初から想定されていない。音楽の生演奏のみを想定し、豊かな残響といい静謐な環境といい、すばらしいホールだ。
 はじめてこの会に出向いた何十年か前、このホールであるがゆえに、演奏者も聴いている方も集中して発表会ができるのだと感じた。
 6月の西部地区の大会で会場係になったりすると、携帯をいじっている人の注意やら、客席の私語の注意やらで、落ち着いて演奏を聴けなかったりした経験は幾度もしてきたが、ことバッハザールについては、そんなのはなかった。
 四日間開催のうち、今年二日はお借りできたものの、来年度はさらに日程がきびしいという話もあるらしい。
 まあ代替案がミューズというのは、なんともぜいたくな埼玉県西部地区だけど。
 三年前はじめて全体合唱の指揮をさせていただいた思い出もあるし、またバッハザールで演奏してみたいなあ。

 「男祭り」関係の先生方に連絡事項をわたしたり、その際「西関東大会は、中学高校ともに金賞は埼玉県が独占した」ときいておどろいたり。
 西関東に出場している先生も、自分より若い先生が多い。本校のOBも一人いる。いつのまに … 。
 思えば男祭りも、城北の加藤先生をのぞいて年下の方ばかりではないか(ビジュアルはともかく)。
 音楽祭の、本校が出演する日の指導講評にあたっている先生が、日頃から親しくさせていただいてる方だった。

 「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」
 そんな気持ちにもなる。
 今やれるだけの演奏をがんばってやって、しっかり聴いていただこうと思う。

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星華祭

2015年09月13日 | 演奏会・映画など

 

9月13日(日)

 星華祭 星野ウインドさんとの合同演奏

 曲目:「宝島」「君の瞳に恋してる」「マンボメドレー」
    「セプテンバー」「星華祭スペシャルメドレー」

 

             みなさん、ありがとうございました!!

 

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辛味噌ラーメン

2015年09月12日 | 日々のあれこれ

 

 夕べ遅くなったし、土曜だし、7時前くらいに起きればいいぐらいの感覚でいたが、地震で目覚めた。
 P波的なものを感じなかったから、かなり近い震源地でのこの揺れは東京直下かな、という予想はあたった。
 雨につかった土地にがつんときたのでなくて、よかった。
 起きてニュースをみて、準備して登校、漢文1、現代文1、ロングホームルームは卒業生の合格体験談を聞く会。
 先日卒業していった5人が来校し、いい話をしてくれる。
 同じ話でも、われわれが話すよりよほど効果があるにちがいない。
 彼らの成績の伸びにやきもきしながら、添削に励んでいた去年の今頃が、随分遠い昔に感じる。
 鶏マヨ丼のパックを食べて、午後は合奏中心の練習。
 「男祭り」で演奏する「ヘアスプレーメドレー」をはじめてきちっと合奏した。
 そして明日の星華祭演奏曲の練習。
 なんといっても、昨日の段階でさらに譜面が追加されたスペシャルメドレーの完成度をあげないといけない。
 アレンジャーも話してらしたが、たしかにこの譜面をきっちりさらうことで、スキルは相当向上する。
 できれば秋の「にじの家」演奏で、本校単独でも演奏してみたい。
 学校を戸締まりし、今日は営業しているような予感がして、南古谷駅前をまわると、久しぶりにオレンジの電気がともっている。GO!
 ほぼ満席。辛味噌ラーメンの券を買って端の席に座り、『金魚姫』を読みながら待つ。
 隣の若者が替え玉を注文している。
 自分の知っているかぎり、夜の営業は最近してない日の方が多かったくらいではないか。
 途切れることなくお客さんが戸を開けるのは、待っていた人がこんなにいるということか。
 久しぶりですよ、とおかみさんに声をかけることもできない状態だ。
 きた。なつかしいビジュアルだ。濃さを増したようにも見える。一口すする。うん? 
 キャベモヤシのお皿をもってきてくれたご主人が、「少し味かえたんですけど」と言う。
 「ですよね。なんだろ、これ」「赤味噌ブレンドしてみたんです」
 くうっ。ますます濃厚になっているではないか。たまらないです。
 スープを堪能していると、なかなか麺に入れない。
 カロリーも塩分もあきらかに過剰摂取になるけれど、かまわない。今日は全部飲む。
 濃厚な味噌味に野菜をからめながら麺をすする。
 スープのとびちりさえ今日は愛おしい。
 コンクール後、「久しぶりにみかみ行こう!」と思って何回も足を運び、タイミングがあわなかった。
 このまま二度と食べられなかったらどうしようと思った日がある。
 人間関係ではよくある。まさかあの日が最後になるとは思ってはいなかった。それならそれでちゃんとさよならしておけばよかったと後悔したようなことが。
 なぜこんな近くにお店を出してくれたのだろう。都内にあるお店なら、行けなくてもこれほどつらい思いはしないはずだ。すぐに触れられるところにいながら、いざ手を伸ばすとするりと逃げられてしまうような感覚。
 この先、いくどこの味を楽しめるのだろう、そう思うと目頭が熱くなった。でも、これでまたしばらく頑張れる。

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リテラシー

2015年09月10日 | 教育に関すること

 

 ~ 来年の参院選から選挙権の年齢が「18歳以上」になるため、政治参加への意識を高める教育の重要性が高まっている。教えるにあたって教員は「中立性」にどの程度、配慮したらよいのか。国は高校生向けの副教材をつくって配る方針だが、授業が議会で問題とされたケースもあるため、現場の悩みは深まっている。(「偏ってる?悩む教員 政治参加の教育、議会が問題視」朝日新聞9月8日) ~


 そうかあ、悩んでなかった。
 当事者なんだから、悩まないといけないのだろうか。じゃ、どんな教育をすれば … 。
 われわれが仮に偏向した教育を行ったとして、彼らはそんなに影響を受けてくれるだろうか。
 むしろ、それぐらいちゃんと話をきいてくれれば、逆にありがたい。
 国語の研修会でも、この先テーマとして扱われるだろうか。
 国語科の教員は、たとえば現代社会の授業をもつ先生に比べると、直接政治に関わる言葉を発することは少ない。
 でも「主体的な政治参加を目指す国語力の育成」とか「主権者教育としての現代文読解」みたいな、よくわかんない研究会が今後企画される可能性がないとはいえない。そういう場にでかけて行き、ばっかじゃないの? って行ってみたい気持ちがわくのは、まだ枯れてない証拠か。


 代休の日、「向日葵の丘・1983年夏」という映画を品川まで観に行った。
 常盤貴子主演で、80年代の一地方高校を舞台にしたものという情報が入れば、多少遠くても観に行きたいと思ってしまう。しかも上映館を調べたYAHOO映画情報欄には、異常とも思えるくらいの高得点レビューがあふれていた。
 話は現代からはじまる。シナリオライターとして生計を立てる多佳子(常盤貴子)のもとに、高校時代の親友みどり(田中美里)から余命いくばもなくなったので久しぶりに会いたいと連絡が入る。
 卒業以来30年間、故郷にはかえっていない。高校時代からの友人のエリカ(藤田朋子)に相談すると、会ってあげなよと言う。「ボクは明日からロスに行くから、いっしょには行けないけどね」と。
 常盤貴子と藤田朋子が同級生という設定は、ちょっときびしかった。
 30年も田舎に帰らず、連絡もとっていないという設定も、極端じゃないかなと思った。
 高校時代の彼女に起こった事件が、それほど熾烈なものだったのだろう。
 その事件にいたるまでの過程が、回想シーンとして描かれ、高校時代の多佳子、エリカ、みどりを若い女優さんが演じていく。
 このノスタルジックな青春期のドラマが、年配客の涙をさそう一つの要因だろう。
 ただ、この少し前の時期に高校生をやってた者として言わせてもらうと、ちょっと考証が甘いのではないだろうかと思われるシーンもあった。
 たとえば、1983年の高校二年生が「ヒデキ、感激!」とは言わない。70年代前半なら話はわかるけど。
 「聖子と明菜とどっちが好き?」と聞いて回ったりもしないんじゃないかな。
 聖子さんがデビューしたころのライバルは河合奈保子や三原じゅんこであり、明菜さんが登場するころには、押しも押されぬ大スターになっていた。明菜さんはむしろポスト聖子として急激にその地位を高めていく。テレビから流れる番組もおそらく時代的に少しずれている。

 30年ぶりに家族と和解し、けんか別れしたみどりとも仲直りし、三人が文化祭用に制作した映画作品が上映される運びになる。
 何年も前に閉館して放置されていた映画館をみんなで大掃除し、いざ上映となったとき、街の人々が何百人も集まってくるのだ。これもリアリティにかける。
 高校時代にエリカに、帰国子女キャラということで「ボク」という一人称を使わせているのだが、50歳近くなった藤田朋子さんも「ボク」のままだと、少女の用いる「ボク」の意味が生きない。
 それら細かいことが気になり出すと、全体としてはつめの甘い脚本に見えたこの作品が、メジャーな劇場で公開可能になるのは、一体どういう力が働いているのだろうか、また豪華なキャスティングが可能なのはなぜなのかと気になった。
 とはいえ、常盤貴子さんの見事なお芝居には救われたし、津川雅彦さんの存在感もさすがだった。
 高校時代を演じた芳根京子さんは、大和っぽくてよかったな。

 あらためてyahooのユーザーレビューを見直してみると、極端に評価の高いものがたくさん、ほどほどのものは少なく、辛辣な意見がいくつかという構成のように見える。
 極端に高い評価をつけているものは、もしかすると関係者の方や、そのお知り合いの方という可能性もあるのではないだろうか。

 っていうように、与えられた情報を、どこまで信憑性があるのか、という見方ができる力は、「国語」で養う。
 ある問題についてたとえば新聞二紙の主張の違いを取り上げ、それだけを資料に「どっちが正しい?」と議論させるのは表面的な勉強だ。
 高校教員は、とりたてて「中立な」教育をしようなどと考えず、自分の教科の中身をよりレベルアップすることが、そのまま適切な主権者教育になるはずだ。
 「総合学習」ができたからといってカレー作りをしてみたり、PISAの点が悪いからあわてて資料読解やってみたり、「目先の」「小手先の」「表面的」教材に手を出すという癖が、教員にはある。
 どんと腰を落ち着けて、自分の科目をしっかり教えればいいのさ。そのために、もっと勉強しないといけないけどね(自分に言い聞かせる)。

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