goo

仇討ち 池波正太郎

「仇討ち」をテーマにした時代小説は、1つの大きなジャンルを形成するほど数多く書かれており、その中には傑作や名作も数多いのだそうだ。本書はずばり「仇討ち」という題名で、著者も時代小説の正統派、非常に時代小説らしい時代小説ということになるだろう。本書に収められた様々な「仇討ち」を巡る人間模様は、ハッピーエンドあり、悲劇あり、勧善懲悪あり、理不尽な結末ありで、実にバラエティに富んでいて面白いが、どちらかといえば、悲劇や理不尽な結末の方が多いようだ。前にも書いたように、日本の時代小説は、現代と小説の時代の違いは制度的な違いだけで、人間の心情には違いがないという前提で書かれていることが多い。しかし本書のように、現代にはない「仇討ち」というテーマを中心に据えると、そこに描かれるのは、現代では想像できない時代の閉塞性と制度自体の理不尽さである。本書では、登場人物の所業が比較的あっさりと軽妙に描かれているが、それでもそうした閉塞感がひしひしと伝わってくる。本書が刊行されたのが昭和40年前後。時代小説の読者を中高年サラリーマンと仮定すると、本書などはまさに戦後の高度成長を支えたサラリーマンの愛読書だったということになる。我々の親の世代、企業戦士と呼ばれた世代の人々が、こうした理不尽な話をどのような気持ちで愛読していたのか、大変気になるところである。(「仇討ち」池波正太郎、角川文庫)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

純粋理性批判殺人事件(上・下) マイケル・グレゴリオ

これもミャンマー出張中に読んだ本。1804年厳冬、ナポレオンの侵攻におびえるプロイセンの町ケーニヒスベルクで起こった連続殺人事件。哲学者イマヌエル・カントの助力を得ながら事件を追う判事の周りで起こる不思議な出来事。事件は、町の混乱を狙うフランスの政治的な陰謀なのか、あるいはサイコキラーによる犯行なのか? 当時の時代背景を踏まえた政治論議あり、近代精神や道徳律といったペダンチックな哲学論議ありで、興味は尽きないが、そのどちらにもあまり深入りしていないところが読者にはむしろ有難い。欧米の本を読むと、キリスト教の素養のなさに歯がゆい思いをすることがあるが、欧米人との教養基盤の違いは、キリスト教だけではないのだなぁと思ったりした。
 それにしても本書で描かれたケーニヒスベルクの街、人々の暮らしは、高々200年前の話なのだが、何故かとても遠い過去のようだ。自然の厳しさもさることながら、描かれている人々の反道徳的な行為の数々には驚かされる。登場人物の中で最も誠実な人物として描かれている主人公でさえ、ほとんど何の根拠もなく無実の人を死刑に処して、ほとんど良心の痛みを感じるところがない。理性が支配する前の前近代というのはこういう世界だったのだろうか。そう考えると、日本の時代小説において、人々の心情が現代と連続しているように描かれていることとの違いはどういうことなのだろうか? もしかすると、西洋人の精神の中には、今でも反道徳的なものが根底にあるということなのだろうか? 厳しい自然や人命が軽んじられる社会の方が哲学的な思考や宗教的な倫理観が育まれるという気がするが、西洋哲学の根源は、意外とこうしたところにあるのかもしれない。なお、中島義道がカントについて人間的には問題の多い人物だったというようなことを書いていたが、本書を読むとそのあたりは西洋人には一般的に知られたことなのかもしれないと感じた。(「純粋理性批判殺人事件(上・下)」マイケル・グレゴリオ、角川文庫)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )