―日米開戦どう捉えたらよいのか―
いま生存している歴史家としては保坂正康がいる。彼は日米開戦を「この戦争は遅かれ、早かれ軍の爆発が起こっていた筈だ。…今で云う”逆ギレ”のようなものだろう」と述べている。斯く言う保坂は1939年生まれで、開戦時は2歳、終戦時で6歳であるから、どのようにして日米戦争の開戦の宿命を知ったのだろうか。
既に鬼籍に入った渡部昇一は日米開戦を知って「これで長年のモヤモヤが晴れた」という感情が国民にあったと例示している。彼は1930年生まれ、開戦時は11歳である。この「モヤモヤ」という言葉は大政翼賛会文化部長を勤めた岸田国士(1890~1954)が「やっぱりもやもやが取れて、すっきりした思いがする。」と述べている。
所詮、実体験でモノを言うのと、後に文献等で共感して、言われた言葉を引用するということの歴史の「あやうさ」「あいまい」を常に座右に置くことをせねばなるまい。
当時、陸軍士官学校生だった三根生久大(1926生まれ)は、「堪忍袋の緒が切れて斬り込んでいった…」と振り返っている。
当時、実際に戦艦比叡に乗っていた山岡貞次郎(1917年生まれ)は「大東亜戦争は引くに引けなかった、逃れようとして逃れられない戦争だった」と述懐している。
この辺り人たちの言葉から、保坂の「逆切れ」「遅かれ早かれ」という表現が出てきたのではないだろうか。
所詮、実体験のない戦後世代にとっては、今に残った文献からその当時の歴史の事実への糸口を掴むしか事実に近い歴史を知る道はない。
保坂正康『あの戦争は何だったのか』より
【引用文献:保坂正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、三根生久大『日本の敗北』徳間書店、山岡貞次郎『大東亜戦争』育誠社、勝田龍夫『重臣たちの昭和史(下)』文春文庫】