玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

戦争映画としては、見れない

2015-03-04 09:49:39 | 雑感

『永遠のゼロ』は、太平洋戦争を時代背景とした数奇な人間の繋がりと、超能力的現象を描いた映画であった。まったく映画の良さを理解しない、身も蓋もない言い方だが、煎じ詰めるとそうなる。妻と子供のもとに生きて帰るために、出撃はするが、戦わずして上空で時間をかせぎ、無傷で帰還する。しかも、それを公言している兵士は、戦前の絶対天皇制の戦時下では一瞬たりとも生存できなかった筈である。まあ、映画は、所詮、絵空事、作り話の世界であるから、眉を吊り上げて言うのも変だが、言っておかねばなるまい。あれは有り得ない空想のお話である。私はあの映画を戦争映画として見ることはできない。

鹿児島に行った時、知人に「知覧特攻平和会館」に案内された。友人と二人で入場料を払って、館内に入ってはみたものの、二人とも途中から庭に出て溜息をついてしまい、二度と入ろうとはしなかった。国家の馬鹿どもが先導した余りのバカバカしい戦争の犠牲としての展示の哀しさ、おぞましさ、空しさに、見る気力さえ失ったのを思い出す。そして、それを観光資源とする地方の貪欲さにも辟易した。 知覧には武家屋敷群の観光資源がある。

 

戦後70年間、一切戦争行為を行っていない日本人には、確かに戦争体験・知識はないのだろうが、一国の首相ですら、イスラム国に対して、極悪非道な個人に対するように、法の裁きを受けさせると公言して憚らない。アメリカ大統領も悪辣卑劣な黒覆面の男を殺すとも言っている。だからだろうか、川崎の中学生刺殺事件の犯人に対しての個人的な憎悪がネットで氾濫しているという。

日本のマスコミは、今のところ川崎の中学生刺殺事件を執拗に報道していて、他にも当然にあるニュースが疎かになったり、本来するべき報道を避けているようにしか見えない。とにかく最近のマスコミ報道はイスラム国人質事件以来、血生臭い事件が延々と続く。もしかして、それを好む人間が増えたのだろうか、それが何よりも一番恐ろしいことだが。


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1 コメント

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活字の原作 (VANジャケット)
2015-03-04 20:43:43
映画は見ていない。TVで7.5時間の大作を全部見た。原作と違うところは一部だけだった。
 原作は、それなりに読みごたえがあった。他にも特攻を描いた小説や、それを比較的忠実に描いた映画もあった。私はそれが自分なりに理解できた。この作品で「社会」を仮託して描かれていたのは大新聞の記者で「テロと特攻」を同じと断定する思考回路だった。
 自分は、当時の軍人の基準からは「丙種合格=最低」と、中学時代に看護婦さんから言われたことがある。骨折後の左手の機能が著しく低かったためだ。しかし、もしこの国に住む人々が攻撃されたら、愛する人たちの生存可能性を信じて戦いたいと高齢者の分際でも思っている。戦争とは国家意思と国家意思の衝突であり、その共同幻想は、個人幻想と逆立するとした吉本隆明の『共同幻想論』を未熟な頭脳で読み耽ったことを思い出す。通信手段も含めメデァとすると、現代のIT化したメデァは国家を擬制する『共同幻想』となっているのかもしれない。そう考えることで、現前の不条理に自分なりの解釈をすることができる。たとえ、それが如何に過酷であったとしても、だ。
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