ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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産める妃に産ませなかった皇室

2019-11-30 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

コメントの中に「伝統は現代と融合すべき。側室や女官がいない今の皇室で妃に男子を産むプレッシャーを与えるのはよくない。ゆえに女性宮家と女性天皇を認めよ」

というのがありました。

荒らしだからほっておくことも出来るんですが、私は、意外とこんな風に思っている人は多いのではと思います。

こう思っている人っていわゆる「雅子さまおかわいそう」派なんですよね。

「好きでもない人と無理に結婚させられた雅子様は世継ぎのプレッシャーで適応障害になった。なのに秋篠宮家には男子が誕生した。愛子さまは天皇になれない。お可哀想」って。

でも、皇統は「男系の男子が継承する」と決まっています。

なぜならそれは2000年の伝統があるので。

伊勢神宮がなぜ今も毎朝「火起こし」から仕事を始めていると思いますか?

なぜ20年に一度式年遷宮があるのでしょう?

それはまさに「伝統」と神道という考え方から来ているから。

天皇は神社の長ですから、自ら伝統を破壊してはいけないのです。

今回の皇后の「扇の持ち方」にしても、こんな簡単な間違いも皇后たる人が堂々とやっていったらいつかそれが「正しい」ことになる。それはいけないことなのです。

世界中の王室がこの問題を抱え、譲るべきところ、守るべきところきちんとわきまえているのです。

まず天皇皇后に正したいことは「プレッシャー」と言う程、努力をしたのか。

昭和天皇もまた男子が生まれず悩んだ人です。

昭和天皇と香淳皇后の縁はお二人が小さい頃に決められました。久邇宮家が多産系であった事も大きな要因でしょうし、戊辰戦争の折に賊軍になった事に対する贖罪の気持ちもあっただろうと言われています。

確かに香淳皇后は多産系できっちり2年ごとにお子様をお産みになられ、昭和天皇もそれに応えられた。その結果2人の親王に恵まれたのです。

当時は側室を持ってもよかった時代。でも昭和天皇はそうはしなかった。ということは、心の中で必ずや香淳皇后との間に男子を・・・と言う思いがあったと感じていますし、もしダメだったとしても秩父・高松・三笠の3親王がいましたから、それほどの危機感は持っていなかったかもしれません。

「皇后は女腹だ」と悪口を言ったのは政府関係者で、これこそマタハラですよね。

戦前、皇室は親王が子をもうけることが出来る体かどうか、性的思考がどこにあるかなどわりと把握してお妃選びをしていたのではないでしょうか。

秩父宮殿下が病気で早く亡くなるというのは予定外だったかもしれませんが、秩父・高松の両妃に子供がいないからといって肩身の狭い思いをしたり、精神的におかしくなったという事例はありません。

皇室の中では「子に恵まれる宮家がそれを担う」という通常の考え方があったと思います。

上皇のお妃に正田美智子が選ばれたのも、上皇の好みだったということではなく、生物学的にみて子供が産める身体であること、兄弟に男子がいる事も加味されたことでしょう。

徳仁親王は上皇の結婚の翌年に生まれています。

不妊であったり避妊もしなければこれは自然な流れで、ダイアナ妃もキャサリン妃もメーガン妃も同じように1年ないし2年以内にお子が産まれている。秋篠宮夫妻も1年目には眞子内親王が生まれています。

つまり、「皇族の結婚」に必要なのは本人の好みではなく「男子誕生の確率」がどの程度あるかどうかでした。

小和田雅子さんは、そういう大切な検査を自ら拒否しました。

そして上皇も徳仁親王もそれを許してしまいました。

伝統云々以前に、この時点で皇族としての自覚がないと思いませんか?

しかも、雅子妃は「3年間は子供はいらない」と言ったのです。

当時29歳。今でこそ普通ですけど当時は高齢出産間近の年齢で、欲しいなら早くした方がいいと言われたものです。

なのにご本人は「3年は子供はいらない」と言ったのです。

その間、紀子妃は佳子様を懐妊。

すると、「子供を産まない」と言った筈の雅子妃は泣き顔で公の前に出てきてしまった。自分が産まないんだから誰も産んじゃいけない・・・そういう考え方ですよね。

以後、秋篠宮家は壮絶な産児制限を課され、出産可能年齢が限界に近づいたところでお許しが出て大変な思いで悠仁親王を出産されたのです。

佳子様と悠仁親王の年齢差は12歳。

産児制限をかけたのは上皇后です。「佳子ちゃんが生まれた時のようになったら可哀想」と言った・・・つまり紀子妃は佳子内親王を出産した時、相当な意地悪をされたわけです。

皇室は産める女性に産ませないという究極のマタハタをやってのけました。

何の為に?小和田雅子さんが悲しまない様にする為です。

これって、よく不妊治療をしている女性が、子供が生まれましたという年賀状を受け取って「私に配慮してない。許せない」と怒る心境と同じですね。

なぜ上皇后がそんな思想を受け入れて雅子妃を庇ったのか。

一言でいうと、紀子妃は「出来すぎお妃」だったから。

虐めても怒っても切り返してくるし、絶対に折れない。いつの間にか妃としての威厳も美しさもアップしている。「皇室の顔」「皇室で一番美しい私」を自任している上皇后にとって、自分の地位を脅かす存在だったから。

どんなにプレッシャーをかけても切り抜けて出産する女性。白雪姫紀子妃と、「鏡よ鏡」のまま母の対比ですね。

結婚5年目についにしびれをきらした上皇が「国民みなが待っているからね」と言ったら「私の友達にそんな事をいう人は一人もいません」と言い返した皇太子妃。

本当に泣きたくなかったら、最初に子供が産めるかどうか調べて無理だったら諦めるのが筋。でも、彼女は「ありのままの自分を受け入れてくれない皇室が悪い」と思ったのです。

当然皇統の危機が叫ばれ、不妊治療を行うことに。

やっと懐妊したと思ったのにそれを隠してベルギーへ行き、寒いのに外に出てワインをがぶ飲み。スクープした新聞に「流産」の責任を押し付けるというありさま。

8年目にやっと生まれた娘は障碍者だったけど、それを隠し通して「ご優秀」伝説を広め「だから天皇になれる」と言っている。

一方の紀子妃は「お許し」が出てから懐妊。マスコミの犯罪的なマタハラをも、前置胎盤をも乗り越え無事にご出産。

ネット内では「前置胎盤」と発表された途端「生まれるのは絶対に親王」という話が広がりました。そういう科学的根拠があるみたいですよね。

私自身も39歳で妊娠しましたけど、初産が39歳と違って辛さが3倍くらいあります。色々体調にあれこれ出てくる・・・でも我慢の一筋。1人目2人目の時はあんなに楽だったのになんで?といつも思ってましたが、紀子妃も同じだったようです。

前置胎盤の為に入院後、人知らず泣かれた事もあったとか。

おかげ様で42年ぶりに直系男子が生まれたわけです。

今、「女性天皇」「女性宮家」を検討する本当の理由は「悠仁親王に子供が出来ない可能性がある」「悠仁親王が早死にするかも」といった根拠のない理由なんです。

わずか13歳の皇族に諦観して「だから伝統を現代に融合させる為に女性天皇・女性宮家」というのはおかしい話です。

「天皇」という地位は不可侵のもので職業ではない。

職業ではないけど21世紀の今、賢さや気遣いや思慮深さが求められます。

今上は即位したけど、これらのものが全く備わってない為に言い間違えが多いし、おかしな宗教に取り込まれる結果になっています。

皇后も立ち居振る舞いや表情の一つ一つに皇族としての使命感がなく、まさに「ありのまま」で即位しました。

今は宗教団体がくっついているから人気でしょうけど、そのうち国民はその存在をわすれることでしょう。

「女性宮家」というのは民主党は発案した言葉です。

皇室では女性が当主になることはあり得ません。

それは平等意識がないからではなく、皇統はあくまで男系で繋いでいかなくてはならないものだからです。

伝統を破壊すれば、アイデンティティが失われます。国が消えるのと同じです。

 

ところで・・・

こんな動画があります。

本当かどうかわかりませんけどね。

 

 

 

 

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え?令和の壬申の乱?

2019-10-27 18:28:50 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 えーーっと。

仮に旧宮家男子と眞子内親王・佳子内親王が結婚して宮家を作ると、どうして悠仁殿下系と間に壬申の乱がおきてしまうのでしょうか?

全然わからないので、誰か教えて下さい。

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皇室における和服の位置

2019-08-21 08:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

こざとさま

その疑問、わかりますよーーー 何で悠仁殿下は羽織袴を履いていたの?ですよね。

 ちょっと聞いたこんな話

結構昔の話です。森光子さんが勲章を貰う時、皇居まで車を出したのはジャニーズ事務所でした。そして東宝関係者がお付き添いで行ったのですが、その時「袴ははかず洋装で」と言われたそうです。よくわからないけど、武家の装束である羽織袴を履いて皇居に入ってはいけないとか・・・当時、小泉首相でしたけど確かに洋装だったかな。

 装束の変化

公家の衣装 → 男子は束帯

        女子は女房装束

ですよね。でも現実問題、現代の日本でこの格好で外、歩けると思いますか?

こういうのは即位の礼とか大葬の礼などで見ることが出来ます。私達は10月にテレビで見ることが出来るでしょう。

時代劇などで見る公家といえば

こんな格好。これは直衣姿といいます。多分、女性の場合は和宮に代表されるような「おすべらかし」唐衣という画像が思い浮かぶのではありませんか?

 

 明治時代 → 正式衣装は洋装

明治になっても暫くの間、宮中の女官たちは

 こういう姿でお仕えしていました。

男性はざんぎり頭になり、軍服や制服の着用になり明治天皇は直衣をやめて軍服で過ごすようになります。けれど女性に対する規定はなかったので、庶民までも相変わらずの髪型と着物姿。

宮中においては

これが外出着です。昭憲皇太后の行啓の図ですが、面白いのはハイヒールを履いていること。とにかく洋装になれなくちゃということで、袴にブーツならぬ袿にハイヒールをはいてみたんです。日傘もさしたとか。

でも、やがて「洋装令」が出ます。

 皇族の最上級の装束は大礼服

 日々は洋装

という風に決められたのです。ここから男性皇族は軍服が正式の服装となり、女性はバッスルスタイルの洋装が通常になります。

香淳皇后は女学校時代は

こういうお姿でした。

けれど、外交儀礼としては洋装が最も格上になったのです。

 

 昭和天皇も召された羽織袴

 お小さい頃の昭和天皇。羽織袴です。

お写真を撮影するのに何を着てもいいというわけにはいかず、かといって直衣などは着用が大変、軍服はまだ早い。学習院の制服?みたいな色々な考えが渦巻いたと思うのですが、とりあえず日本人だし・・・だったのかなと思います。

ただし、皇太子時代、天皇になってからは一度もこういうお姿はありません。

数少ない外国訪問の時も洋装で通されました。

 

 皇室に大々的に着物を持ち込んだ上皇后

とにかく美智子妃というかたは着道楽でいらっしゃる。他の皇族が全員洋装でも自分だけは着物を着たりする。雅子妃は回りが着物でも洋服ですが。

戦没者追悼式も洋装で行くべきですが、皇后になってから着物になりました。

それも「陛下に何かあった時、支えるのに着物の方が動きやすいから」という理由です。

幼い浩宮も着用。大きくなっても

着用。一方の紀宮には大学卒業の時も袴を履かせなかったわけで、ここらへんどういうおつもりなのか全然わかりませんよね。

上皇が皇太子時代、タイのワチュラロンコン皇太子が来日した時には皇太子と3人の子供達がみな着物なのに美智子妃だけが洋装です。多分、美智子妃の服はタイの女性の正装を模したものじゃないでしょうか。

 

 21世紀の皇室では着物が女性の正装

眞子さまも佳子様も皇室外交の時によく振袖を着用されていますね。眞子さまはどこへ行くにも正式の場では着物です。

個人的にはローブ・デコルテにティアラ姿を外国でも見たいです。晩さん会とお正月の制服みたいな洋装じゃなくて、ダンスが出来るような。それこそわっかのドレスをお召し頂きたいです。

しかし・・・・眞子さまが着物を外国で着用されるのは、それが海外の人からみて「もっとも日本人らしい民族衣装姿」に見えるから。それと経費節減かなと。

ドレス姿だとすぐに「あの時も着てた」と海外の人にもわかりますが、着物ならかなり使いまわしが出来ます。眞子さまのペルーとボリビアでの着物は以前着用になられたものばかりでした。

予算の少ない宮家にとって着物なら親子で使えるし(眞子さまの場合は洋服も紀子様のおさがりを着ていますが)長く着用できるというメリットがあるのでしょう。

佳子様がオーストリアやハンガリーでもずーーっと着物なのかなと。本当はエリザベートのようなドレスを着て頂きたいところなんですが。

 

 悠仁殿下が羽織りを召された理由を考える

ブータンは今でこそ旅行者は普通の格好でもいいですが、以前というか昔は外国人でもブータンの民族衣装を着なくてはいけなかったと思います。

ワンチュク国王は新婚旅行で日本にいらした時も、インドでもどこでもあの民族衣装をお召しです。前国王は昭和天皇の大葬の儀の時にもあの民族衣装を召されて、私などは「寒いのに・・・」とびっくりしました。雪が降る中でのあの装束だったので。

だから眞子さまも紀子様もブータンに入られると「キラ」を履いてますよね。出来るだけあちらの服装に近づけるという意味合いがあるのでしょう。

悠仁殿下も同じだと思いますよ。スーツの時はネクタイまでお父様とお揃い。今回はあちらの皇子さまと会う予定もあったことだし、子供同士で民族衣装を着ましょうということだったんじゃないかなと思います。

とってもエキゾチックに見えますよね。

秋篠宮殿下が袴を履かなかった理由ですか?持っていなかったのでは?

あくまで皇嗣の礼装は洋装ですしね。

 

 愛子内親王や眞子内親王・佳子内親王の服装について考えてみる

愛子内親王の場合、とても自分で服を選んでいるわけではないと思います。

でも小さい時から本当に衣装持ちで、静養に行く度に服が違ってしかも海外ブランドを着せていたようです。好みは多分母君なんでしょうね。

何であんなに子供っぽいのか・・・それは以外と両親が娘と同世代を知らないからじゃないですか?むしろ「うちは皇女なんだから高級品を着せればいい」と思っているかも。

一方、眞子さまも佳子様も小さいころは紀子様手作りのワンピースなどをお召しでした。

ファッションセンスが最もあるのは佳子様で、本当におしゃれなスタイルを貫いてますが、ちょっと肩を出しただけで大バッシングになります。

つまり、現在の秋篠宮家はそれこそフェイクニュースで叩かれる程なので、たとえ服1着といえども簡単に「これが着たい」とはいえないのです。

特に美智子皇后の時代には、ご自分は若いころ散々おしゃれして最先端を気取っていたくせに、孫娘たちにはそれを許さないという変な圧力をかける人ですので。

 

愛子内親王が健常で自分の好きな服装でおしゃれを楽しむような姫だったら、回りの宮家ももっと自由に服を着ることが出来るのでしょうけど、愛子内親王がああですから・・・目立たないようにしないといけません。だから海外では素晴らしい服装をされる眞子さまも国内では地味な色のスーツばかり選ばれるのです。

 

何にせよ今回の袴の話も嫌がらせですから気にしないで下さい。

公家装束では外を歩けませんから。

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どうして女系天皇がいけないのか 7

2019-07-27 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 タナボタ天皇 孝徳天皇の悲劇 

皇 極:私の目の前で蘇我入鹿を討つなんて信じられない!頭、どうかしてるわ

中大兄:も母上、入鹿は上宮王家を滅ぼした大罪人ですよ。皇族にとってこんな驚異はないでしょう。

皇 極:こんな権力争いはまっぴら。私は何も見てないわ。勝手にしたらいい。天皇なんてやめる。

中大兄:え・・・

皇 極:あなたが天皇になればいいじゃないの。

中大兄:じゃあ、叔父上。天皇になって下さい。

孝 徳:いや、私なんかより古人大兄皇子の方がいいと思います。

中大兄:古人は入鹿の婿ですよ。とんでもない。ここは叔父上に。

孝 徳:でもやっぱり古人大兄皇子が皇位につくのが筋だと思うので。

中大兄:蘇我氏じゃダメなんですって。叔父上。

孝 徳:でも私も歳だし・・・(下手に天皇になんかなったら殺されるかも)

中大兄:うちの大事な妹、間人を皇后に立てて下されば何の文句もいいませんから。

孝 徳:あんなに若くて綺麗な子をいいの?じゃあ、天皇になる。(まさか妹の夫を殺したりはすまい)

と言ったかどうかわかりませんけど、母の皇極天皇が退位したので、弟の孝徳天皇が即位しました。史上初めての「譲位」が行われたわけですが、理由は結構感情的。

ここで中大兄皇子は皇太子になりました。

中大兄皇子がこの時、即位しなかった理由は色々説があります。もっともポピュラーな理由は「皇太子という身分でいた方が自由に政治が出来るから」というものです。

でも最近では彼と間人皇女の同母なのに愛し合っちゃった件や、どうみても滅びそうな百済に肩入れしすぎる件、そして乙巳の変などで人望がなかったんじゃないの?という見方もあります。

 孝徳天皇って結構影が薄いですよね。女帝の弟なのに皇位継承権はほとんど期待できない地位にいました。その理由は

 父の出自がイマイチ

 蘇我氏の血を引いてない

ですけど、お姉さんは舒明天皇の皇后になってしかも女帝にスライドしちゃったわけですから「天皇の大后」という地位は何にも代えがたい大きな地位ですね。

舒明天皇・皇極天皇の流れで直系相続は頭の中に入っていたと思います。皇極天皇だって出来れば中大兄皇子に継がせたいと思っていた筈。でも、彼女からすれば次々にライバルを先手を打って殺していく中大兄皇子は「不肖の息子」だったかもしれません。

以後、彼女の生きがいは中大兄皇子と越智娘との間に出来た可愛い孫息子の建皇子になっていきます。

譲位した皇極天皇は弟から「皇祖母尊」(すめおみやのみこと)という称号が贈られました。

影が薄い孝徳天皇の時代ですがかなり大きなことが多々怒っています。

 645年 元号を「大化」とする

       中大兄皇子を皇太子にする

       阿倍内麻呂を左大臣に蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任命

       大化の改新

       戸籍の作成・新羅・百済・高句麗から使者

       僧旻などを呼び寄せ、仏教の発展に貢献する

       古人大兄皇子が中大兄皇子に殺される

 649年 蘇我倉山田石川麻呂が謀反の罪で自殺させられる

 650年 白雉と改元

 653年 難波宮から中大兄皇子らが引き揚げ、天皇は一人ぼっちに

 654年 中臣鎌足に紫冠を与える

       崩御

孝徳天皇は仏教を深く信仰し、性格的にも優しかったようで、政治や外交にも意欲的に取り組んでいきますが、それがまた中大兄皇子からすると面白くないわけです。

そもそも「天皇になって」と言ったのは中大兄皇子なのに、なって頑張ったらそれが気に食わないなんてあまりにも意地悪じゃないですか?

さて、蘇我氏は入鹿と蝦夷の死で滅んだのかというとそうではありません。中大兄皇子の妻である越智娘の父である蘇我倉山田石川麻呂の一族が残っていましたし、以前として蘇我氏というのは朝廷でかなりの権力を持っていたし、相変わらず「后を出す家柄」として名門でもあったわけです。

だから孝徳天皇の右大臣にもなったわけで、これは決して中大兄皇子にとっても悪い話ではなかったんですよね。

中大兄皇子の正妃は倭姫で彼女は古人大兄皇子の娘。つまり蘇我系のお姫様。そして夫人は越智娘。こちらも蘇我系です。家柄としてはピカ一のお后達でもし建皇子が長生きしていたら当然「皇位継承権1位」になった筈です。

孝徳天皇としては今までの政治の流れをそのまま引き継いで、うまくやって行きたいなと思ってて、小足媛の父である阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にして中大兄皇子の顔を立てたつもりだったでしょう。

でも、真面目になるほど中大兄皇子からは嫌われるというか、この中大兄皇子という人は心が猜疑心で一杯なんじゃないか?どこかで自分が実力不足であることを思い知らされて、地位を奪われると怖がっていたんじゃないかと思うんですね。

まず、自分の正妻である倭姫の父親を殺し、次に皇位継承順位に最も近い男子を産んだ越智娘の父を殺す。これでほとんど妻達からは信頼の「し」の字もなくなりますよね。

越智はこの件で気が狂ったとも言われ、結果的に早死にするし。

そうまでしても蘇我氏を滅ぼさないと自分の身が危ういと思っていたんでしょう。

 

孝徳天皇が自分のただ一人の息子である有間皇子を皇太子にしたかったかどうか、わかりません。自分の即位もタナボタなら息子もタナボタいける?と、そこまでおバカだったとは思わないんですけど、中大兄皇子はそう思ってしまった。

だから自分の方がいかに天皇より権力があるかを見せつける為に、遷都を促し、断られると母親も妹も弟も引き連れてさっさと去る。

有間皇子と取り残された天皇は、寂しくて悲しくて、でも追い打ちをかけるがごとく

中臣鎌足に紫冠を与えて下さい」と中大兄皇子に命令されてしまう。

正直、中臣鎌足?それって入鹿を討ったヤツじゃない?くらいしか思ってなかったかも。

蘇我氏というのはこの時代になっても名門なのに、いきなりどこの馬の骨ともしれない中臣氏に紫冠って・・・でも断れず。孝徳天皇はその直後に亡くなるのです。

 

 斉明天皇重祚 

斉 明:今度こそあなたが天皇になりなさいよ。私はあなたに代わって建皇子を育てる仕事があるから。

中大兄:・・母上、もう一度天皇になって下さい。

斉 明:はあ?自分が天皇になりたいから古人大兄皇子を殺したんじゃないの?越智の父親に謀反の罪を着せて殺したのもお前よ。ああ、恐ろしい。自分の妻達の父親を次から次へと殺すなんて。

中大兄:仕方ありません。そんな罪深い私が天皇になるより母上になって頂いた方が国の為でしょう。

斉 明:私はもう本当に歳なのよ。

中大兄:いえいえ母上はまだお若い。まさに国の母として君臨して下さい。

とまあ、ほぼ強引に再び天皇にされてしまった斉明天皇。

要するに中大兄皇子にはそれだけの抵抗勢力がいたということなんです。

 658年 有間皇子 処刑

       建皇子 死去

 660年 百済が滅び、豊章が亡命してくる

 

まず、重祚して斉明天皇は何かタガが外れたというか・・・どういうわけか公共事業に没頭し始めます。それには税金が必要で、じゃぶじゃぶ使いだすし、労役もどんどん負担させるし、だんだん民の不満は溜まっていきます。

きっと天皇にしてみたら「いいこと」をしているつもりだったろうし、中大兄皇子にしてみれば「母上が好きなことをやってくれてたら自分は外交に費やせる」と思っていたんでしょう。

蘇我赤兄:有間皇子さま。大王は間違った政治をしています。いまこそあなたが大王になるべきかたです。

こそっと孝徳天皇の息子である有間皇子に耳打ちした蘇我赤兄。蘇我氏はここでもちゃんと生きていて、中大兄皇子に忖度して有間皇子に謀反を起こさせ、結果的に処刑してしまいます。

有間皇子:天知る、赤兄知る、吾知らず

と言い残した有間の辞世の句、「家にあれば笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 」(家にいれば茶碗に盛るご飯を旅先の今は椎の葉に盛る)

は哀しすぎますよね。政争から逃れたいが為に気が狂った振りもしたけど、ごまかしはきかなかったというわけです。

この出来事も斉明天皇にとってはショックな事でしたでしょうけど、一番はあれほど可愛がっていた建皇子を失ったことです。

建皇子が瀕死の時は氷室を開けさせ、貴重な氷を削って食べさせようとするほど愛していたし、「皇孫」の称号も与えたし。

口をきかない建皇子は斉明天皇にとって「安心」そのものだったんですよね。

なのに、僅か8歳でこの世を去ってしまう。


傷ついた斉明天皇。けれど息子の中大兄は「百済を救おう!」運動を始めるわけです。

救うったってもう滅んでいるのに、回りだって「今は百済の時代じゃないでしょう」って言ってるのに、何だか一人で空回りして船を出し・・・斉明天皇は旅の途中で亡くなってしまいます。

次から次へと自分のライバルになりそうな人を殺して、母親を失って、これで晴れて天皇に?と思ったらそうでもない。

中大兄皇子の孤独な戦いはまだ続くのです。

 

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どうして女系天皇がいけないのか  6

2019-06-20 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 まずは山形・新潟の方々にお見舞い申し上げます。

今も避難生活を送っている方も多いでしょう。令和になってから毎日のように残酷な事件が起きるんですけど、最初の大地震が来てしまいました。

何でこんなに暗い幕開けなんだろうなあ。また令和が始まって2か月も経たないのに。

平成の最初は紀子ちゃんフィーバーで楽しませてもらったけどね。

さて、「どうして女系天皇がいけないのか」自分で書いてて全然答えになってないよねというのはわかっているんです・・・

系図を書くのが結構面白くて、でもこれに時間を使っていると結論より疑問の方が大きくなっていって、あれれ?何で〇〇と〇〇は結婚したのかなとか頭の中で妄想が。

だから「うん。だから?」って言われても仕方ないですよね。

学者じゃないから自分の説を披露するというわけにはいかないし。教科書に毛がはえた程度の事しか書けない自分が情けないと思います。

 舒明天皇・宝皇女同母説について

これはネットで見つけたんです。数年前に。多分どこかの教授さんの論文だと思います。要は宝皇女の出自が怪しいとか。でもそもそも天皇の大后になる女性の出自が様々に取りざたされたり、結婚経験があったりということ自体が異常じゃないかと思うんですよね。

再婚・・・でいえば聖徳太子の母、間人皇后も用明天皇の死後に田目皇子と再婚していますし、大らかな時代というか。役割を終えたらあとは自由みたいな?

でも、宝皇女の場合は、一度高向王と結婚して男子を得て、それから天皇の后ですからね。謎の多い女帝です。

 

 大海人皇子が漢皇子説について

これも知ってますが、そうなると完璧に大海人皇子が皇位を簒奪したことになってしまうわけです。しかも渡来人の血を引いている人ということ。

そういえば天智も天武も額田も新羅や百済系の王族だと主張する本を買っちゃった事もありました。数ページで読むのをやめましたけど。

 

「女帝」という言葉のせいで、とても大きな存在のように感じるんですけど、推古天皇にしても皇極天皇にしても、男達のしりぬぐいをさせられているというか、ほぼ仕方なく「天皇」になりました・・・という悲哀の方が強いような気がします。

もともと皇女として生まれているし天皇の大后として未亡人として、夫の血統を守らなくてはいけないという使命に燃えているのはわかるんです。じゃあ「蘇我」と「夫である天皇」とどちらの比重が高いのかというと、私は夫の方かなと思います。

平安時代の女御たちのような「お父様のいいなり」系ではないけど、自分で国を牛耳るまでの野心は持たない。

古代における女性天皇は孝謙天皇が即位するまでは「男系を守る為」の天皇であったと思います。

 

そういう歴史を見ると、愛子内親王が天皇になる意義は全くありません。

なにせ男系男子皇位継承者は愛子内親王と同世代でいえば悠仁親王一人。競争したり蹴落としたりする相手などいないからです。

では天皇の娘として愛子内親王の役目は何かというと、「悠仁親王にきちんと皇位を継承させること」に他なりません。

本当の内親王であれば、従兄弟であり正当な皇位継承者が政治に利用されたり、皇位を簒奪されないように守り、導き、敵対する人をなだめる、あるいは蹴散らす。それが仕事なんです。

なのに、その内親王自体が皇位を要求するということは、裏で「傀儡の天皇」を欲しがっている人がいるということに他ならないのです。

まして2000年以上「男系」を続けて来た天皇家の血筋を変える、それが内親王だなんて言語道断、皇族の風上にもおけないということになります。

 

今上は「娘の将来の安泰」の為に皇位が欲しいのだと思います。

天皇として祀り上げられればすべてを隠して安穏な生活を送ることが出来ると本気で思っていそうです。

皇后はまさに「天皇の母」になれば今以上に称賛されると思っているんですよね。

二人とも本当に「天皇」とは何のために存在しているのかさっぱりわかっていません。

英語が出来なくても、留学経験なくても天皇になるべき人はなりますし、その価値は日本の為にこそあるもので、外国の為にあるものではありません。

女系天皇=自分の好き勝手にお金を使うことが出来る地位

に天皇が成り下がることです。

 

 

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どうして女系天皇がいけないのか  5

2019-06-19 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 山背大兄王VS田村皇子 

  上宮王家の華麗なる血筋

 推古天皇の末期に蘇我氏に小さな波風が吹き始めます。

それは政治に対する考え方の違いとか、馬子の強引な手法に対する反対勢力とか。

厩戸皇子は元々蘇我の血を濃く受けている人で、後継ぎを産んだのも蘇我氏。

思えば最も蘇我氏に推されていい、庇護されていい一族だった筈なんです。

ところが、厩戸皇子は段々馬子の政治に嫌気がさしてきたというか、理想と現実の違いに悩むようになり、斑鳩に引きこもります。

当然妻達も一緒に斑鳩へ行くのです。

その後、厩戸皇子は亡くなり、長男である山背大兄王が当主となるのですが、彼が娶ったのは異母妹の舂米女王。

父と同じ気持ちだったからなのか自分の中の蘇我の血筋を消したかったのか、彼の婚姻にはそんなアンチテーゼが含まれていたような気がします。自らの配偶者に皇族を選ぶことで「皇族としての優位性」を示そうとしたのかもしれませんよね。

 

 

 蘇我本家と上宮王家の仲が微妙になるに従って、刀自古郎女もまた本家の出でありながら蘇我から離れようとします。

そこに分家の境部摩理勢が近づきます。

つまり

 蘇我蝦夷・入鹿 → 古人大兄王子推し(押坂彦人大兄王子と法提郎女の子)

 境部摩理勢 → 山背大兄王推し

この境部は馬子の弟になる人です。

ところで、この頃、天皇を決めるにあたっては朝廷の合議制が取られていました。

つまり長子だから、血筋がいいからなれるというものではなく、朝廷全体が認める人でないと天皇になれなかったのです。

馬子の死後、朝廷には「もう蘇我系の天皇はうんざり!」の空気が流れに流れていました。何事も永遠に続かないということでしょうか。その空気に蝦夷も入鹿も逆らえなかったということは

 穴穂部皇子暗殺

 崇峻天皇暗殺

 物部氏滅亡

 推古天皇擁立

という数々の悪行が尾を引いていたからではないでしょうか。

そこでダークホースのごとく現れたのが田村皇子、後の舒明天皇です。

彼は押坂彦人大兄王子と息長氏の間に出来た皇室的サラブレッドです。

血筋がよく年齢的にも最適だった父が皇位継承から外れ、息子がリベンジを果たしたという感じですね。

朝廷はいわゆる原点に戻って天皇を選んだのです。

蘇我系皇族のサラブレッド山背大兄王と息長系皇族のサラブレッド田村皇子の皇位継承争いは「空気」で決まった感じでしょうかね。

舒明天皇(田村皇子)時代には

 皇后を異母妹の宝皇女に決定

 630年 遣唐使派遣

 新羅・百済から使節がやって来る

など穏やかな外交が繰り広げられていたのですが、実は朝鮮半島では新羅・百済・高句麗が覇権争いをしており、大和朝廷にとっても他人事ではありませんでした。

21世紀の現代から見ると、新羅が最も強かった・・・という話になるのですが、一時は高句麗が領土を広げ、そこに新羅が高句麗を騙して百済を乗っ取り・・みたいな韓流史劇そのものが繰り広げられていたんですね。

そんな時、日本は隋に代わって中国を統一した唐に遣唐使を派遣します。

さて。舒明天皇の皇后が宝皇女で、即位と同時に決められたようなんですけど、この宝皇女という人はなかなか謎めいた女性なんです。

そもそも彼女のお父さんである茅渟王って誰?って感じですけど、

彼は押坂彦人大兄王子と大俣王の子です。大俣王のお父さんは漢王というので渡来系の王族だったかもしれません。

そしてさらに不思議なのはこの宝皇女は一度結婚しているんですね。

お相手は高向王という人で間には漢王という息子までいた。高向王が誰なのかは不明ですけど多分に渡来系と思われます。

ただ、皇后になる女性の出自がはっきりしないというか、母方が3代前まで遡れないというのはこの時代としては珍しいのではないかと思うんです。

無論、この当時はわかっていたかもしれないけど、歴史書や系図にその名が載らないということがね。

結婚歴があって子供もいる女性を即位と同時に皇后にたてるというのは結構異常事態だと思うのですが・・・そこで出てくる宝皇女と舒明天皇の「同母」説。

これはあくまで一つの学説に他ならないのですが、舒明天皇と宝皇女は実は同母だったのではないのかというもの。あの時代でもさすがに同母同士が結婚するのはタブーでした。もしどうしてもそうしたいなら、女性側の出自を曖昧にするしかないというか歴史書から削除する必要があったのかも・・・っていう、途方もない話。

でも後に中大兄皇子と間人皇女が同母ながら愛し合うという話が公然と出てくると「この両親にしてこの兄妹」とも言えなくもない?

 宝皇女は舒明天皇の死後、すんなりと女帝に即位

 同母弟で2歳しか違わない軽皇子は皇位継承者から外れていた

宝皇女は舒明天皇の大后となり、舒明天皇が641年に死去すると翌年天皇になります。

 山背大兄王VS古人大兄王子 

私達は教科書で皇極天皇について

 天皇として初めて譲位した人

という風に習っています。「ふーんそっか」くらいにしか思っていなかったけど、平成の「譲位物語」と比較してみると「譲位する」っていうのは相当な覚悟が必要であるし、この時代の普通の天皇なら絶対に譲位なんかしたくない筈ですよね。でも皇極天皇はいともあっさりと譲位しちゃうわけで。このあたりがやっぱり女性だからというか、母であり女性であったがゆえと思うんです。

 

では、舒明天皇の死後、なぜ皇極天皇が即位したのでしょうか?

皇極天皇が即位したのは49歳の時です。この時皇位継承者の有力候補は

・軽皇子47歳ぐらい

・中大兄皇子17歳くらい

なので山背大兄王と古人大兄王子は軽皇子と同世代、中大兄皇子と大海人皇子は近い年齢だったでしょう。

山背大兄王と古人大兄王子は共に蘇我系サラブレッドで、軽皇子は蘇我系ではないので最初から皇位継承者から外されていました。

野心満々な中大兄皇子はまだ17歳。

またも皇位継承争いが勃発か!それも蘇我同士で!ということで「とりあえず」皇極天皇が即位したのだろうと思います。

 643年 上宮王家滅亡

 645年 乙巳の変

皇極天皇が皇位についていたのはたったの2年なんですけど、この2年の間に2つの大きな事件が起きてしまいます。

この時代、マスコミなんかいないんですけど、「〇〇から山背大兄王が謀反を企んでいると聞きました」というだけで立派に「犯罪」として立証されちゃうんですね。

嘘でも真実になるあたりは21世紀の日本とよく似ています。

蘇我系サラブレッドで、聖徳太子を祖とし上宮王家と尊ばれていた一家が、たった1日でぐるりと兵士に取り囲まれ、自害に追い詰められてしまうのです。

この首謀者は蘇我入鹿であるというのは教科書。

でも、蘇我氏が蘇我系を滅ぼすでしょうか。入鹿にとって山背大兄王は従兄弟だし、刀自古郎女は叔母さん。古人大兄王子は義理の息子。どっちが天皇になってもそんなに悪い目は見ないような気がします。

だから現在では、入鹿首謀者説は緩んできています。

入鹿が上宮王家を滅ぼした理由として「山背大兄王が即位したら分家の境部氏が栄えてしまう」というのがあったようです。

でもそれでも理由として弱いような気がするんですけどね。そもそも上宮王家にそんな野心があったかな?とも思いますし、聖徳太子亡き上宮王家の権威ってなあにって私は思ってしまうんですよ。

 

じゃあ、影の首謀者は誰だったのか?

いわゆる蘇我氏の血を引かない皇族達だったのではないかと・・・私は思うんです。わずか17歳の皇子にそんな策略をめぐらすことなんて出来る?でも、ここに蘇我氏に代わって権力を握りたい中臣鎌足がついていたら可能だったかも。

そして中大兄皇子の母、皇極天皇にとっても、上宮王家が滅びるということは息子の即位が1歩近づくことになるわけですから、悪い話ではない。

長い間、蘇我氏が支配してきた朝廷。

それを天皇を中心とする「皇親政治」の芽はここからすでに出ていたんでしょう。

 

結果的に上宮王家を滅ぼしたことが蘇我氏にとって致命的になったことは事実です。

山背大兄王が死んで古人大兄王子が喜んだか?いやーーむしろ震え始めたのではないでしょうか。次は自分かも・・・と。

そして645年に乙巳の変が起きます。

いわゆる大極殿にて蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足によって殺されるという事件です。

皇極天皇にとっては寝耳に水。まさか息子が自分の目の前で人殺しをするとは思わなかったでしょう。

皇極天皇にとって蘇我氏は自分の手足のようなものでしたでしょうし、うざいなと思っても殺そうとまではしたくなかったと。

しかも、中大兄皇子の言い訳がすごい。

蘇我氏は上宮王家を滅ぼした大罪人だから」って。

最近の学説では蘇我入鹿極悪人説は嘘っぽいというのが定説になっています。

なぜって、蝦夷と入鹿亡きあとでも蘇我氏は朝廷の重鎮であり続けたし、後々は「石川」を名乗り皇妃を出す家柄となっているからです。

ともあれ

こんなこともういやっ!私、天皇やめるから!なりたい人がなればいいでしょ」とばかり皇位をなげうったのが皇極天皇でした。

史上初の「譲位」と言えばカッコいいけど、要するに残酷なシーンを見せつけられて絶望したのと、そんなことをやってのけた不肖の息子の責任を取る形でお母さまは譲位されたのでございます。

 

 

 

 

 

 

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どうして女系天皇がいけないのか 4

2019-06-12 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 それはお父さんが天皇ではないからです

          ↓

  (どうしてお父さんが天皇でないといけないのですか)

          ↓

   2000年に渡ってその系統を繋いで来た歴史があるからです

          ↓

   (時代に即してお母さんが天皇でもいいのではありませんか)

          ↓

   天皇家の血筋の正当性と神秘性が失われるので、女系になったら全く別の王朝が出来ます

   それこそ21世紀の日本に「新しい天皇制」が必要でしょうか?

   今更新しい「お母さんが天皇」の天皇家が出来てもそこに意義があるのか。

 推古天皇の悩みと策略 

何だか、「系図で知る天皇の歴史」風になって来ました。

ここで推古天皇を取り上げるのは。「日本にも女性天皇がいたんだから、愛子内親王が天皇になってもいい筈」という議論に「女帝擁立」の背景について話したかったからです。

女性皇族であれば誰でも天皇になれるわけではありません。

額田部皇女が天皇になった背景には

 敏達天皇の大后歴30年のキャリア

 いますぐ皇位につける息子がいなかったこと

 再婚・出産の危険がなかったこと

 蘇我氏の血を引いていること

ではなかったかと。

崇峻天皇はせっかく天皇になったのに蘇我馬子とうまくいかずに暗殺されました。

そんなことを目の前で見た額田部皇女はもし、自分が馬子に逆らったら殺される危険性も考えていたでしょう。

叔父と姪という関係で良好ではあったけど、天皇暗殺という大罪を犯した蘇我馬子に対しては常に「疑念」を持っていたのではないかと思います。

さて、大后といえ用明天皇の大后で額田部皇女の妹である穴穂部間人皇女もいますが、彼女は大后歴2年。まだ若く天皇候補の息子達も沢山いました。また後に再婚もしています。

 587年 用明天皇死去

 穴穂部皇子暗殺

 蘇我物部戦争

 崇峻天皇即位

 592年 崇峻天皇暗殺

 592年 額田部皇女即位(推古天皇)39歳

 厩戸皇子(聖徳太子)摂政となる

 603年 冠位十二階

 604年 十七条の憲法

 607年 遣隋使派遣

推古朝では朝廷の身分規定、倫理規定が整えられ仏教を取り入れ、秩序ある政治体制が整いました。

隋と同等、あるいはそれ以上の国力を示す必要性があったのです。

額田部皇女ー蘇我馬子ー厩戸皇子(聖徳太子)の関係も最初はとっても良好でした。

額田部皇女に憂いがあるとしたら、それは自分に皇位継承を持つ男子がいなかったこと。

ちょっと額田部の気持ちになって考えてみましょう

「先に竹田皇子は死んでしまって、下の尾張皇子も娘を残して死んでしまった。私にはもう誰もいないわ。でもこの地位を盤石なものにし、次世代に私のDNAを残すなら、皇位継承権のある男子に娘たちを嫁がせるしかないわね。これで少しは叔父上をけん制できるかも」

ということで、

 長女・菟道貝蛸皇女 → もっとも天皇に近い筈の厩戸皇子へ

 次女・小墾田皇女 → もっとも血筋のいい押坂彦人大兄王子へ

  三女・田眼皇女 → 押坂彦人大兄王子の息子である舒明天皇へ

 末っ子の桜井弓張皇女 → もっとも血筋のいい押坂彦人大兄王子へ

 孫娘・橘大郎女 → もっとも天皇に近い筈の厩戸皇子(聖徳太子)へ

 夫の別腹の娘・糠手姫皇女 → もっとも血筋のいい押坂彦人大兄王子へ

こやってみると、推古天皇は意外と押坂彦人大兄王子の血筋押しであることがわかります。

蘇我に対して大きな対抗勢力であるのに、そこにもどんどんお妃として送り込むということは、つまり内心では馬子の政治を快く思っていなかったわけですね。

それに厩戸皇子(聖徳太子)に嫁がせた娘には子供が生まれず、孫まで投入したのにそれがうまくいかず、しまいには厩戸皇子(聖徳太子)が先に死んでしまいます。

 

 622年 厩戸皇子(聖徳太子)死去

 626年 蘇我馬子死去

最初は良好だった厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子との関係も仏教を巡って対立。厩戸皇子(聖徳太子)は斑鳩に引きこもります。それくらい馬子の専横というのは目立っていて、それゆえに厩戸皇子(聖徳太子)の死去については暗殺説も絶えません。

以後、厩戸皇子(聖徳太子)の家は「上宮王家」と呼ばれ、皇族内でもピカ一に血筋のよい家になります。

だったら通常、推古天皇のあとは山背大兄王が継ぐと考えるのが筋ですけど、それがそうはいかなかったんです。

 628年 推古天皇死去

推古天皇は後継者を指名せずなくなりました。彼女が天皇だった間はつかのまの平和だった朝廷も、彼女の死を境に天皇争いが勃発します。

一旦は負けたか?と思った人が浮き上がり、正当な血筋を持つ者が滅ばされていく残酷な時代です。

 

 

 

 

 

 

 

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どうして女系天皇がいけないのか  3

2019-06-06 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 私も理論的に科学的に「男系男子である必要性」を説明せよといわれたらそれは出来ないと思います。だってY染色体も、男女平等思想もその逆も古代にはなかったものですから。

ヤマトには東にも西にもそれぞれ部族がいて、諸外国との交易ルートを巡って争っていました。その最たるものが「鉄」です。鉄のルートを確保した部族が勝つんです。最初は出雲がその権利を持っていたけどやがて大和朝廷に奪われる。そこで長い争いが終わり、一人の「王」を祀り上げることで国の精神統一を果たしたというところでは。

父が天皇・・・これは理屈ではなく概念です。そういう思想しかなかったと思うべき。それというのも古代においては男女同権思想もLGBTもない。一つの血筋に繋がるものこを「神聖である」ということですね。

伊勢神宮では今でも古代と同じ火を起こし米を炊き・・・ということを行っていますが、「変わらずに一つのやり方を行う」ことこそが「永遠」を意味すると思いませんか。

「時代に即した伊勢神宮の在り方としてライターで火を起こし、炊飯器でご飯を炊きます」ってなったらありがたくもなんともないし神秘性の欠片もない。

神武天皇依頼男系血筋でのみ続いている」ことが「神秘」でありその神秘こそが皇室の根本ではないですか。

ところで敬宮愛子内親王と旧宮家が結婚しても「敬宮愛子内親王家」は出来ません。明治以来、こういう場合は新しい宮家を立てて男系男子が当主となり、愛子内親王は「妃」になります。

「女性宮家」という考え方そのものがおかしいのです。旧宮家と結婚して皇族になるなら「彼」こそが当主でなければいけないのです。

さて。女帝の話でしたね。

女帝が立つ時は

 男系男子の王候補が多数いる為に皇位継承争いが起き、それを収めるため

 女帝の外戚が権力を行使する為

 男系男子の皇位継承者がいない為

のどれかです。

では、日本で初めての「女帝」推古天皇はどうして天皇になったの?

「え?さあ・・男がいなかったから」

「ぼーっと生きてんじゃねえよっ

とチコちゃんに叱られたところで、下の系図を見て下さい。

 まず欽明天皇です。

ウィキの絵だとこんな顔。

欽明天皇 → お父さんは継体天皇、お母さんは手白香皇女(仁賢天皇の娘)でバリバリ両親が皇族。

大后は石姫皇女 → お父さんは宣化天皇、お母さんは仁賢天皇の娘でバリバリ両親が皇族

で、そんな石姫が産んだのが敏達天皇。両親・祖父母が皇族という血統のよさ。

それに対抗すべく蘇我稲目さんは、娘の堅塩姫小姉君を側室に入れて生まれた男子を天皇にしようと藤原氏のようなことを考えていたのです。

堅塩姫も小姉君も同母姉妹ですからどっちが男子を産んでもいいわけで。

敏達天皇はバリバリ血統がいいので次の天皇になる事は確定。

でもその次の天皇になるのは堅塩姫か小姉君の産んだ皇子でもいい筈・・・と稲目さんは考えた。

どこまでも小和田恒のような人ですけど。

で・・・現実にそういうことがおきちゃった。

 敏達天皇の最初の大后は広姫。息長氏は蘇我氏よりも古い家系で代々大后を出す家柄でした。そこから生まれたのが押坂彦人大兄王子です。

だけど広姫が早死にしちゃったので、次の大后には額田部皇女(推古天皇)が選ばれます。

今であれは息子の竹田皇子は皇太子ですが、彼はこの系図の中では最も若い皇子だったの。

天皇になるには

 30歳を過ぎた大人であること

が第一条件ですよね。だから敏達天皇が生きている間は押坂彦人大兄王子が最有力候補でした。なんせ「大兄」がついているくらいだし、お母さんの家柄も古いし申し分なかった・・・筈。

 時の権力者の蘇我氏の血を引いていない

 広姫の早すぎる死

が押坂彦人大兄王子の運命を大きく変え、しかも彼自身体が弱かったこともあり、皇位継承争いから脱落。

竹田皇子が成人するまで敏達天皇が生きていればよかったけど、残念ながら亡くなり、年齢的に順番として額田部皇女の同母弟である用明天皇が建ちます。

 堅塩姫系の天皇だ大后だっていったら小姉君系の皇子たちがちょっと面白くないよね。

しかもそこに、当時、絶対的な政治問題である「仏教を受け入れるか否か」で蘇我氏と物部氏が一触即発の事態に。

蘇我氏・・・崇仏 (用明天皇・聖徳太子・額田部皇女・竹田皇子)

物部氏・・・排仏 (穴穂部王子)

 

もし用明天皇が長生きしてくれたら聖徳太子は両親ともに皇族でしかも蘇我系だから絶対に血筋てきに天皇になれたはずです。しかし、587年、用明天皇は在位2年で死去。

ここから「仏教」「皇位継承」を巡って蘇我氏と物部氏の戦争が起こります。

結果は蘇我氏の勝ち 穴穂部皇子が殺され、竹田皇子が負傷して亡くなり・・・残ったのがもっとも皇位から遠かった崇峻天皇だったわけです。

崇峻天皇は小姉君系の末っ子で、ノンポリで蘇我さんとしては操りやすいなと思って天皇にしたんだけど、あまりうるさくあれこれ言いすぎて逆に嫌われてしまった。

系図を見れば一目瞭然ですが崇峻天皇には大后がいません。もっとも高い位の妃で大伴氏の小手子

で、蘇我氏の河上娘は嬪です。

この当時の妃の位は

1 大后(おおきさき)

2 妃

2 夫人(ぶにん)

3 嬪 

ですから蘇我氏の河上娘はもっとも低い身分だったわけですね。また夫人の布都姫は物部氏の血を引く女性です。しかも皇子を産んだのが小手子ですから蘇我氏としては崇峻天皇なんていてもいなくてもいい。

だからぐずぐず言い出したらあっさり暗殺してしまったんです。

そうすると、残る皇位継承の可能性がある皇子はまだ20代の厩戸皇子と身体の弱い押坂彦人大兄王子だけになります。いくら何でも蘇我氏の血を引いていない押坂彦人大兄王子を天皇にしたくない。だから大后歴30年の額田部皇女が天皇についたのです。

 

いくら蘇我氏でも天皇を暗殺したことはかなりの痛手になった筈です。思えば乙巳の変に至る路がここから出来てしまったのかもしれません。

 

 

 

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浩宮と美智子さま

2019-05-24 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

ラストです。

 昭和35年10月、訪米を終え、生後8ヶ月の浩宮を抱く美智子妃。

皇太子が何となく及び腰になているような気がして。

「ちゃんとナルちゃん憲法は守ってくれたのかしら」


 昭和37年11月、フィリピンへ出発する皇太子夫妻。美智子妃はどこを向いているのか。

変な場所にブローチをお付けになって。浩宮のロンパースはベルベッド?

 

昭和37年11月、フィリピンから帰国。浩宮のお出迎え。

こうしてみると、美智子妃にとって浩宮は特別だったんだろうなと思います。

 

 昭和39年8月、軽井沢で静養。

おたたさまとお揃いなの。


 昭和39年10月、学習院幼稚園の芋ほり遠足。芋ほりするには綺麗すぎる服ですが。

見事な盛り髪ですよね。これぞ「息子を愛する母の姿」そのもの。

 

 昭和39年12月。タイへ出発する皇太子妃。

 

 

 昭和40年8月、軽井沢にて静養。懐妊中の皇太子妃。アンニュイな雰囲気。両手に花で私が主役です。


 昭和41年3月、氷川丸を見学。これって主役は浩宮だと思うのですが、常に美智子妃が真ん中でポーズとっているんですよね。髪型も若々しく、独身風に。夫と息子はお付き添い。

 

 

昭和42年6月、日英サッカー試合を鑑賞。浩宮とのこんな写真は一杯。でも礼宮のはあまり。

何ででしょうね。

 

昭和42年10月、東京・日本武道館で行われた国際親善剣道大会にて。

まさに華やかで美しい「母」の皇太子妃。服より盛り髪の飾りの方がすごすぎて。

しかも、斜めの「この角度から撮影してね」感満載です。真後ろから見たらネフェルティティのような感じなんでしょうね。

 

 

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どうして女系天皇がいけないのか  2

2019-05-18 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

ローマ法王が来日したいとか言ってるから、来たら女系派の人は聞けばいい。

「どうして女性は法王になれないんですか?」

皇室の安定的な継承の為に女系天皇を認めると言うのは詭弁です。

歌舞伎の安定的継承の為に女性も團十郎を襲名出来ます!ありえないもん。

確かに大友皇子は明治になってから「弘文天皇」の諡号が贈られました。

1400年経過してから「天皇」になっても意味はないのでは?

愛子内親王が23世紀くらいに「天皇」と諡号を贈られても私達、生きてないし。

明治政府はこの時、弘文・淳仁・仲恭と3人に諡号を贈ったのですが、弘文以外の2人は即位した形跡があったけど大友皇子にはなかった。だけど江戸時代から「大友皇子は天智亡きあと、政務をとっていたのではないか」という学説があるわけです。

実際には天智天皇の妃、倭姫が天皇だった可能性もあり(「天上の虹」ではそっちだったっけ?)よくわからないんです。

でも「皇位は直ちに継承」と明治の皇室典範で書いた以上、天智と天武の間に空白があったらいけなかったのかなと。

今回も平成と令和の間には半日の空白があったのですが、本当はそれもよくないことです。

 

神武天皇 → 元正天皇まで漢風諡号をつけたのは淡海三船という人物です。

 

系図で見てわかる通り、大友皇子の曾孫になります。

722年から785年まで存在した人で仕えた天皇は孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇まで。

 養老律令によると皇族の身分は5世孫まで

 淡海三船は天智天皇から見て5世孫。

 淡海三船は出家 → 還俗して王を名乗る → 臣籍降下して淡海三船と名乗る

孝謙天皇から称徳天皇の時代まで、皇族は生き残るのが大変でした。

何と言っても陰謀だらけで孝謙天皇の姉も妹も謀反の罪を着せられて流されたり自害させられたり。だから次々皇族が臣籍降下していくのです。

葛野王は持統天皇に「大津か草壁か」と問われ「朝廷では古来より長子相続でした」と言って草壁を擁護し、生き残った一人です。葛野王こそ世が世なら皇太子になってもおかしくなかったし、有力な天皇候補の一人であったけど、壬申の乱以降はひっそりと暮らすしかなかったんですよね。十市皇女も訳ありで亡くなっているし。

大友皇子は男系男子。でも愛子内親王は男系女子。そして戦後の皇室典範でも男系女子の即位は認められていませんので、内親王が将来「天皇」の諡号を贈られる確率はないのでは?というかあって欲しくないです。

女系派には何を言っても無駄と言われると筆も鈍るというか私自身もすごくがっくり来てしまうんですけど、とにかくアカの人達というのは理屈なんかないんですよね。

何でも「ヘイト」って言えばいいんだもん。

小泉首相が愛子内親王についてどの程度知っていたかわかりませんが、障碍には出来ることと出来ないことがあり、無理無理出来る風に見せるのはかえって差別なんじゃないの?と思います。

 

 

 

 

 

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