ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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天皇陛下81歳に  2

2014-12-23 14:50:00 | 皇室報道

 昭和天皇実録刊行に関して。昭和天皇との思い出

昭和天皇実録は宮内庁書陵部が中心となって多くの資料に基づき編纂(さん)したもので,

完成までの苦労には計り知れないものがあったと察しています。

携わった関係者の努力に深く感謝しています。

これから折にふれ,手にとり,御事蹟(せき)に触れていくことになると思います。

このことは大変に困難な時代を歩まれた昭和天皇を,改めておしのびするよすがになろうと思っています。

昭和天皇との思い出については様々なことがありますが,

夏の那須の附属邸に滞在していて,御用邸に滞在していらっしゃる昭和天皇,香淳皇后をお訪ねしたり,

植物を御覧になるため,その植物の自生地にいらっしゃるのにお供をしたりしたことが懐かしく思い起こされます。

実録にも私の結婚の翌年の夏の記述に「皇后及び皇太子妃と御同車にて御用邸敷地外の広谷地(ひろやじ)に向かわれ,

同所にてお揃いで湿地のサギソウ等を御覧になる」と記されています。

この時私は那須を離れ,地方で行われる行事に出ていたのですが,

昭和天皇は生まれたばかりの浩宮を守って留守をしている美智子が寂しくないよう,

香淳皇后と共に散策にお誘いくださったのではないかと思います。

少し後になりますが,皇后と私とで,廻谷(めぐりや)であったかと思いますが,

お供した時には,皇后に水辺の白い花で,野生のスイレンであるヒツジグサの花をお教えくださいました。

この2度の大切な思い出のため,皇后にとりサギソウとヒツジグサはそれ以後ずっと特別な花となっていたようで,そ

れから大分後になって私どもが女の子に恵まれ,清子(さやこ)と名付けたその同じ日に,

私どもは清子のお印にヒツジグサを選びました。

昭和天皇が「大変よい」とお喜びくださったことが,うれしく思い出されます。

昭和天皇から学んだことは多いと思います。

結婚前には葉山の御用邸に昭和天皇,香淳皇后と一緒に泊めていただくこともありましたから,

そのような時に昭和天皇から学んだことが多くありました。

人のことを常に考えることと,人に言われたからするのではなく,

自分で責任を持って事に当たるということは,

昭和天皇の御言動から学んだ大きなことであったのではないかと思っています。

 陛下の「昭和天皇との思い出」はとても温かく、美しいものだったと拝察します。

  昭和天皇に教えて頂いた「ヒツジグサ」が紀宮のお印になり、昭和天皇が最後に

  研究されていた「ヒオウギアヤメ」が紀子様のお印になり。

  昭和天皇も植物学者として、父、祖父としてどんなに嬉しく思われているでしょうか。

  結婚前には御用邸の本邸にお泊め頂く事もあったとか。

  いわゆる「普通の親子」としての触れ合いが感じられます。

  それだけに、陛下の言葉として伝わっている

  「家庭を持つまでは死ねないと思った」という言葉に違和感を感じるのです。

  いえ、言葉というよりその時の正田美智子さんの「受け取り方」ですよね。

  「世界中の書物の中にもこんな寂しい言葉はなかった」と思われた事。

  それは「皇族というのは普通の親子のように親しみを持って暮らす事が出来ない存在」

  という思いこみがあったのではないでしょうか。

  確かに庶民と皇族では「親子の在り方」は違います。

  特に陛下がお小さい頃、昭和天皇は戦争という大仕事をされていて、非常に忙しく、また

  精神的にも追い詰められていたでしょうから・・今のように平和な家族として暮らす

  事は出来なかったと思います。

  お姉さま方は「呉竹寮」で、弟君は「御殿」で別々に育ったというのも、皇室としては

  決して特別なことではなかった筈で、陛下がそれを「寂しい」と感じる事はあまりなかったのでは

  ないかと思うのです。

 昭和天皇が美智子妃と浩宮を散策にお誘いになったというのも、とても温かいエピソード

  ではあるけど、当の「嫁」から見たらどうだったのかなと、意地悪な見方をしたりして。

 ラストの3行は、どうか、皇太子殿下にそのままおっしゃってください

 

 

コメント (9)
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天皇陛下 81歳に     1

2014-12-23 14:40:00 | 皇室報道

 天皇陛下

お誕生日おめでとうございます。

これからもお健やかにお過ごしください 

 

 記者会見全文 

 今年一年の感想(家族や公務)について。またパラオ訪問について。

この1年を振り返り,印象深い出来事としては,最近スウェーデンで行われたノーベル物理学賞の授賞式で

赤崎,天野,中村3博士が受賞されたことです。

赤崎,天野両博士が青色発光ダイオードを作り,さらに同じ頃独自にもその研究を果たしていた

中村博士によりその実用化が進められました。

照明器具として消費電力が少なく,発光による熱し方も少ないことから,

社会の様々な分野で利用されていくことと思います。

成果を上げられた3博士の業績を誇りとし,深く敬意を表します。

痛ましい災害もありました。

8月には大雨が広島市を襲い,土砂災害によって74人が亡くなりました。

先日被災地を訪問しましたが,暗闇の中で木がなぎ倒され,

大きな石が土砂と共に落下してくる状況は想像するだに恐ろしく,

人々の恐怖はいかばかりであったかと思います。

また9月には,御嶽山の噴火により,死者,行方不明者が63人となりました。

紅葉を楽しもうと登った人々であったことを思い,心が痛みます。

長野県北部でも11月に震度6弱の地震が発生しましたが,

幸いにも地域の人々の日頃の訓練と消防職員の協力によって死者を出すことはありませんでした。

建物の被害は大きく,冬に向かっての生活の苦労が深く察せられますが,死者がなかったことはうれしいことでした。

新聞に大きく取り上げられるような災害ではありませんが,

常々心に掛かっていることとして多雪地帯での雪害による事故死があります。

日本全体で昨冬の間に雪で亡くなった人の数が95人に達しています。

この数値は広島市の大雨による災害や御嶽山の噴火による災害の死者数を上回っています。

私自身高齢になって転びやすくなっていることを感じているものですから,

高齢者の屋根の雪下ろしはいつも心配しています。

高齢者の屋根の上での作業などに配慮が行き届き,

高齢者が雪の多い地域でも安全に住めるような道が開けることを願ってやみません。

家族のことについては秋篠宮家の佳子が国際基督教大学で勉強することになりました。

先輩の眞子から大学のことを十分に聞いた上で決めたことですから,

きっと良い大学生活を送ることになると期待しています。

私には叔父に当たる三笠宮が元気に白寿を迎えられたことは私どもの大きな喜びでした。

それと共に6月の桂宮薨去という悲しい出来事もあり,三笠宮,三笠宮妃のお寂しさを深くお察ししています。

先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。

その人々の死を無にすることがないよう,常により良い日本をつくる努力を続けることが,

残された私どもに課された義務であり,後に来る時代への責任であると思います。

そして,これからの日本のつつがない発展を求めていくときに,

日本が世界の中で安定した平和で健全な国として,近隣諸国はもとより,

できるだけ多くの世界の国々と共に支え合って歩んでいけるよう,切に願っています。

 予想通りのお答えと申しましょうか。

・ ノーベル賞

・ 災害・・・特に雪害には絶対に触れるだろうと思っていましたがやっぱり。

むしろ、家族の事には触れないかもと思っていたので佳子様の件について

お話された事は嬉しかったです。

 災害について。陛下として色々お考えである事はわかります。

  でも国民の多くがこれらの災害について「原因」があると考えている事までは

  おわかりになっているかどうか。

  けれどそれが民だという事です。

 佳子様に触れるというのは、陛下が佳子様についてご心配だった・・・というより

  非情に佳子様が人気があるという事をおわかりになっているからと受け取りました。

  2011年時は震災の年だったし、陛下もご病気で眞子様や悠仁親王の慶事に触れる

  事がなかった事が悔やまれます。

 お歳のせいで転びやすくなっている・・・というのは暗に常陸宮殿下の事も含めての

  お言葉でしょうか。ぜひ無理せず杖などを使って頂きたいです。

  転びやすいのに皇后陛下を支えられたのでは共倒れですから。

  この「共倒れ」という言葉を両陛下はご存じかなあと。頑張りすぎてはいけないのです。

 先の大戦の犠牲の上に私達がある。ゆえに国際社会の中で健全な国として支えっていって

  欲しい。誠にその通りです。

  しかしながら、陛下のご長男夫婦は、日本を貶める国々と繋がっている事にお気づきでしょうか。

  日本だけが健全で日本だけが支えてもダメなのです。

コメント (2)
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