4 日本は戦後70年、中国、韓国をはじめとするアジアの国々とどのような
和解の道を歩んできたか。
(1)中国との和解の70年
ア 終戦から国交正常化まで
日本の戦争責任に対する中国側の姿勢は、
第二次大戦終結から現在まで「軍民二元論」という考えの下で一貫している。
これは日本の戦争責任を一部の軍国主義者に帰して、
民間人や一般兵士の責任を問わないというものであり、
極東軍事裁判や対日占領政策において厳しい対日姿勢を示した中国政府も、
大戦後中国にとどまっていた日本の一般兵に対しては、
武装を解除し、民間人と共に引き揚げさせた。
え?中国様のお優しさに感動しろと・・・・・?
戦後間もなく、1949年10月に中華人民共和国が成立し、中華民国が台湾にうつると、
世界には二つの中国政府が併存することとなる。
米国からの要請もあり、日本は中華民国との間で1952年4月に講和条約を締結し、
国交を樹立する。
中華民国は、日本への賠償請求権を放棄し、蒋介石総統は「軍民二元論」の考えに基づき、
日本には徳をもって怨(うら)みに報いるべきであると説いた。
「以徳報怨」という言葉は、その後日本と中華民国の間で歴史問題を防ぐ
役割を担うことになる。
え・・・・?そうなの?蒋介石って・・・・
他方、台湾は、1987年まで憲法を停止して戒厳令を敷いており、
蒋介石の対日講和は、国民との合意形成の上で進められたものではなかった。
また、1950年代、1960年代において日本と中華民国の間の人的交流は限られており、
外交的には日本と中華民国は講和を成し遂げていたものの、
日本と中華民国双方の人々の和解には大きな進展はなかった。
一方、中華人民共和国に目を向けると、1950年代半ばにかけて
共産党一党独裁が確立され、共産党は日本に厳しい歴史教育、
いわゆる抗日教育を行うようになった。
しかし、毛沢東国家主席も蒋介石同様、「軍民二元論」に基づき、
日本の戦争責任は一部の軍国主義者にあり、日本国民は被害者であるとの立場を
明確にした。
日本が中華人民共和国でなく、中華民国との間で外交関係を結んだにもかかわらず、
毛沢東が日本に対する「軍民二元論」を唱えた背景には、
日本国民、特に民間人を中国にひきつけ、将来的に中華人民共和国を承認するような
運動を起こさせるとともに、日本国内の反米運動家や革新派と連携することにより、
日本をアジアにおいて政治的に中立化させようとする企図もあった。
この毛沢東の方針の下、日本と中華人民共和国との間では、
1950年代、60年代に外交関係は存在しなかったが、
民間貿易を中心に経済界や日中友好人士の世界において一定の交流があった。
日本と二つの中国政府との関係は、1960年代後半から70年代前半にかけて
大きく変化する。
1969年、珍宝島において中ソ国境紛争が発生すると、
ソ連との関係に危機感を抱いた中華人民共和国は米国に急接近する。
そして1971年に中華人民共和国が国連での代表権を得ると、
国交正常化への動きが本格化する。
1972年2月にニクソン米国大統領が訪中し、その7カ月後の1972年9月、
田中首相は訪中し、中華人民共和国との間で国交正常化することで合意するとともに、
中華民国との外交関係は断絶された。
イ 国交正常化から現在まで
1972年9月、日本と中華人民共和国は、日中共同声明を発表し、国交を正常化した。
日中共同声明において、
日本側は、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を
与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」とし、
これに対し中国側は、「中日両国国民の友好のために、
日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とした。
1970年代の中国に目を向けると、1976年に文化大革命が終結し
、トウ小平が実権を握り、1978年に改革開放政策が開始される。
そして、1978年にトウ小平は中国首脳として初めて訪日し、
日中平和友好条約が締結された。
同条約は、「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力または武力による
威嚇に訴えないことを確認」し、
第二次世界大戦において戦火を交えた両国が真に平和的な関係を築くことを定めた
画期的なものであった。
この日中友好の流れの中、1979年には大平正芳首相が訪中し、
その後総額3兆円に上る対中経済協力が開始されることとなる。
この経済協力を中心に、1980年代の日本は中国の経済発展にとって
なくてはならない存在となっていく。トウ小平は日本を経済の師と位置付け、
中国では政府、国民双方にとり日本の重要性が急速に高まっていった。
こうして、中国は、経済面において日本への依存を深めていったが、
トウ小平は、日本との経済関係強化に努めると同時に、
青少年が過去の日本の行いを知らずに歴史を忘却することを恐れ、
歴史を強調するようになった。
そして、1982年に歴史教科書問題が起こると、この動きは強まった。
南京虐殺記念館と盧溝橋の抗日戦争勝利記念館が建設されたのは、
それぞれ1985年と1987年であり、現在まで続く中国における抗日教育の素地が
醸成されたのは、この時期のトウ小平の指導の下でのことであった。
抗日教育による歴史認識の高まりと共に中国国民の間で
徐々に反日意識は強くなっていったが、
1980年代においては経済分野における友好関係が歴史認識問題を相殺し、
日中双方の国民感情は比較的良好であった。
また、1989年の天安門事件は、日本国民の対中認識を大きく悪化させたが、
日本政府は、1990年代初頭にいち早く対中経済制裁解除に動き、
1992年には天皇陛下が訪中される等、天安門事件後も中国に格別の配慮をした。
1992年の天皇陛下訪中が示すように、1990年代前半まで日中関係は、
さまざまな紆余(うよ)曲折はありながらも比較的良好な状態にあったが、
1993年に江沢民が国家主席に就任するとその関係は次第に変化していく。
1989年に天安門事件が発生し、1980年代後半から1990年代初頭にかけて
冷戦の崩壊とともにソ連をはじめとする社会主義国が世界から次々と姿を消す中、
中国共産党にとって一党独裁の社会主義体制をいかに存続させるかという点は切
実な問題となり、この中で共産党の正当性を強化する手段として
愛国主義教育が浮上する。
中国共産党はトウ小平時代よりも強化された愛国主義教育を展開し、
特に日本との歴史問題は愛国主義教育の中で中心的な位置を占めるようになった。
日本では、ちょうどこの時期、自民党が初めて政権を失い
、55年体制が揺らいだ。戦後50年の1995年には村山富市首相が談話を発表し、
この中で第二次大戦中、日本は、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、
とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことを認め、
「痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明」した。
日本は歴史に対する謙虚な姿勢を示したが、
愛国主義を強化していった中国がこのような日本の姿勢に好意的に
反応することはなかった。
1990年代、中国の経済は成長し、中国の日本への経済面での依存は弱まってきていた。
なお、この時期台湾においても大きな変化が起きていた。
台湾では、1996年に初の総統選挙が実施され、
李登輝が民主的に選ばれた最初の総統に就任した。
日本と台湾の間では経済分野を中心に、それまでも活発な交流があったが、
台湾の民主化は日本における台湾への意識を大きく改善し、
更に台湾の良好な対日感情もあり、日本と台湾の交流はその後急速に緊密化していった。
1990年代後半から高まった反日意識は、小泉首相の靖国参拝や
国連安保理改革をめぐる対立をきっかけとして生じた
2005年の中国での大規模反日デモを引き起こし、
日中関係に大きな傷を残すこととなった。
しかし、このデモを機に日中双方において両国関係をどうにかしなければいけないという
機運が高まり、2006年に安倍首相と胡錦濤国家主席の間で2国間関係が
「戦略的互恵関係」と定義され、この関係を推進していくことが合意された。
1990年代初頭から続いた日中間の歴史認識を巡る対立は、
この戦略的互恵関係の確認により、一応の区切りを見せたと言える。
事実、2007年4月に来日した温家宝首相は国会における演説において、
中国は「軍民二元論」を継承していることを明確にするとともに、
日本は「歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、
そして被害国に対して深い反省とおわびを表明し」ており、
「これを、中国政府と人民は積極的に評価」していると述べ、
さらに、日本の戦後の平和発展の道につき、
「日本人民が引き続きこの平和発展の道を歩んでいくことを支持します」と述べた。
これは、村山談話と2005年の小泉談話に対する中国側からの公式な返答であり、
日中間の戦争をめぐる対話、和解の一つの区切りと見なすこともできよう。
現在の日中関係において、歴史問題はなお2国間の大きな懸案として存在するが、
現在の習近平国家主席も日中戦略的互恵関係の継続を明言している。
ウ 中国との和解の70年への評価
第二次大戦後70年の日中関係を振り返ると、
お互いに和解に向けた姿勢を示したが、
双方の思惑が十分には合致しなかった70年であると言える。
大戦直後の1950年代、60年代、蒋介石が「以徳報怨」の精神を示し、
毛沢東も「軍民二元論」の考えを明確化した時代は、
ちょうど日本においても先の大戦への戦争責任論や反省についての議論が
盛り上がりを見せていた。
しかし、当時日本は中華人民共和国とは国交がなく、
中華民国との間でも人的交流は限られていたため、
双方の人々が交わる形で和解が進展したというわけではなかった。
逆に言えば、中国で言論の一定の自由化がなされ、台湾で民主化が達成されたころは、
日本では反省や責任論が以前よりも後退した後であり、
その時期に民間の関係が広がった。
1980年代にトウ小平が日本を経済の師とし、
日中関係が経済を中心に急速に親密化した時代は和解が進む絶好の
機会であったが、
トウ小平は同時に、歴史を強調する決断をし、和解の著しい進展は見られなかった。
また、天安門事件発生後、日本が中国の国際的孤立を防ぐために動き、
更に戦後50年の村山談話を発表したが、こうした日本側の姿勢は、
冷戦後に共産党の正当性を強化する手段として中国側が
愛国主義教育を強化した江沢民の時代に重なってしまった。
時代のすう勢等により、不幸にもうまく合致してこなかった日中の和解への取り組みであるが、
双方がこれまで成し遂げてきた努力は無駄になったわけではない。
戦後50年を機に村山政権が実行した平和友好交流計画は、2
国間の人的交流を拡大した。同計画において立ち上げられたアジア歴史資料センターは、
今でも歴史への理解を深めようとする両国の研究者により広く使われている。
また、2006年から2010年にかけては、日中間で歴史共同研究も行われた。
そして、中国は、「軍民二元論」を戦後維持しており、2007年に温家宝首相が
国会演説で述べたように、村山談話や小泉談話など、日本による先の大戦への反省と
謝罪を評価する立場を明確にしている。
2006年に安倍首相が胡錦濤主席との間で確認した戦略的互恵関係は、
両国間の人的交流の促進をうたっている。
そして習近平主席はこの理念を受け継ぎ、推進すると明言している。
今後中国との間では、過去への反省をふまえあらゆるレベルにおいて交流を
これまで以上に活発化させ、これまで掛け違いになっていたボタンをかけ直し、
和解を進めていく作業が必要となる。
全体的に中国よりというか、中国のご機嫌をとってる感じがします。
ボタンはかけちがったのではなく、かたやボタン、かたやホックだったのです。
(2)韓国との和解の70年
ア 終戦から国交正常化まで
1910年から終戦までの35年間、日本による韓国の植民地統治は、
1920年代に一定の緩和もあり、経済成長も実現したが、
1930年代後半から過酷化した。
日本の植民地統治下にあった韓国にとり、心理的な独立を達成するためには、
植民地支配をしていた戦前の日本を否定し、克服することが不可欠であった。
1948年に独立した韓国は、サンフランシスコ講和会議に戦勝国として参加して
日本と向き合おうとしたが、講和会議への参加を認められず、
国民感情的に割り切れない気持ちを抱えたまま戦後の歩みを始めることとなった。
更に韓国の立場を複雑にしたのは、冷戦下の国際情勢において、
西側陣営の国として日本に協力しなければいけない状況に置かれたことである。
同じ朝鮮半島でも、東側陣営に入った北朝鮮が、
日本は拒絶する相手だと割り切ることができたのに対し、
韓国にとり日本は理性的には国際政治において協力しなければいけない国である一方、
心情的には否定、克服すべき相手であるという点でジレンマが生じることとなった。
戦後70年間の韓国の対日政策は、この理性と心情の間で
揺れ動いてきたものであると言える。
日本と韓国は、1951年に予備交渉を開始してから実に14年間で7次にわたる
本会議での交渉を経て国交正常化を達成するに至る。
対日政策において理性と心情が交差する韓国にとり、
1965年の日韓国交正常化は、朴正煕政権による理性的な決断であった。
日韓請求権・経済協力協定において、日本は、朴正熙政権に、
当時の韓国の国家予算の約1年半分に相当する5億ドルの経済協力(無償3億ドル、
有償2億ドル)を提供した。同協定第2条は、
日韓間の財産・請求権問題が「完全かつ最終的に解決されたこととなることを
確認する」と記している。
イ 国交正常化から現在まで
朴正煕大統領が在任中の日韓関係では、
金大中氏の拉致事件や朴正煕大統領暗殺未遂という韓国国民の
国民感情を刺激する事件が起きたが、
冷戦下における日韓協力を重視する朴大統領の現実主義的な考えの下、
日韓関係は比較的安定していた。朴大統領暗殺後においても、
1970年代後半から80年代にかけて、日韓関係は安定的に協力関係を発展させる
時期を迎える。特に80年代においては、
日韓関係強化に積極的であった中曽根首相が全斗煥大統領との間で
40億ドルの経済協力に合意し、これを契機とした全斗煥大統領の訪日により、
日韓関係は大きく前進した。
この時期日韓関係が前進した背景には、冷戦下の国際情勢において
日本、韓国双方がさまざまな困難を克服して合理的な判断に到達したということがあった。
1987年に民主化を達成した韓国は、1988年のソウル五輪を成功させ、
経済成長と共に国際的な地位を高めていく。民主化され、
強権的な政治体制ではなくなったことにより、
韓国国内において理性ではなく心情により日本との関係を再考するための
障害はなくなった。
この時期、慰安婦問題に関心が集まるようになった。
日本は1990年代前半から半ばにかけて河野談話、村山談話を発表し、
韓国人元慰安婦に対して女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)による
事業を行うなど、日韓間の距離を縮める努力を進めた。
その後、1998年に大統領に就任した金大中は同年、小渕恵三首相との間で
日韓パートナーシップ宣言を発表し、
日韓両国が未来志向に基づき、より高い次元に2国間関係を高めていくことが合意された。
日韓パートナーシップ宣言において、小渕首相は、
「今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し
植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、
これに対し、痛切な反省と心からのおわびを述べ」、金大統領は、
「かかる小渕首相の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、
両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた
未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である」旨表明した。
しかし、この良好な日韓関係は金大中の後の盧武鉉政権において変化する。
盧武鉉政権には「386世代」が数多く参加していた。
1990年代に30代であり、80年代に大学を卒業し、
60年代に生まれたこの「386世代」は、1980年代に理性を重視し、
国内の心情を抑圧した強権的な政権に大いに反発していた世代であり、
盧武鉉政権内において極めて反日的な理念を主張した。
盧武鉉大統領は、就任当初は小泉首相との間で首脳のシャトル外交に合意する
等の姿勢も見せていたが、
やがて世論に押され、2005年3月の三・一独立運動記念式典における演説にて
日本に謝罪と反省を求め補償の必要性にも言及するようになった。
盧武鉉政権が対日姿勢を変化させた背景には、「386世代」が政権内で反日的な
主張を展開したこともあったが、当時の日本側の動きが韓国の国民感情を刺激していた面も
あった。また、2002年のサッカー・ワールドカップや日本における韓流ブームを通じて
日韓国民間の交流は増えたが、同時に日韓双方の国民のお互いへの
不満も蓄積されていった。
相互交流が増えた当初、日本人が自分と同じ考えを持っていると期待した
韓国国民は、歴史問題をはじめとする諸課題につき、
時間の経過と共に日本との感覚の違いが明らかになってくるにつれ、
当初の期待が裏切られたと感じ、憤りを覚えるようになった。
ただし、この感情は、韓国国民が日本人に対して一方的に抱いたものでなく、
日本国民も同様に、当初同じ考えを持っていると期待した韓国人が、
日韓基本条約を平然と覆そうと試みるのを見て、また法の支配に対する考えの違いに
愕然(がくぜん)とし、韓国人への不満を募らせていった。
2008年に10年ぶりの保守系政権として李明博政権が誕生すると、
日本は同大統領が理性に基づいた対日政策を選択し、
盧武鉉政権で傷ついた2国間関係が改善することを期待した。
李明博大統領は、日米との関係強化を推進し、未来志向に基づいた日韓歴史共同研究
(第2期、第1期は2002〜2005年)を始める等、就任当初は理性に基づき
日本との関係を管理するかに思われた。しかし、
2011年8月に韓国憲法裁判所が、
韓国政府が慰安婦問題について日本と交渉を行わないことは
憲法違反であるとの判決を出すと、同大統領の対日政策は変化し、
国民感情を前面に押し出して日本に接するようになる。
同年12月に行われた日韓首脳会談において、
李明博大統領は慰安婦問題につき日本が誠意を示すよう求め、
また、2012年8月には竹島に上陸し、李明博政権末期には日韓関係はこれまでで最悪の
状態に陥った。
竹島については、自ら問題を大きくする意図は有していなかった日本であるが、
李明博大統領による一方的な行動により、その態度は硬化することとなった。
李明博政権の後半から悪化した日韓関係は、
韓国政権が朴槿恵政権に代わっても、改善の兆しが見えない状況が続いている。
朴槿恵大統領は、李明博政権下で傷ついた日韓関係の修復に取り組むどころか、
政権発足当初から心情に基づいた対日外交を推し進め、
歴史認識において日本からの歩みよりがなければ2国間関係を前進させない
考えを明確にしている。
盧武鉉、李明博という過去2代の大統領が就任当初は理性に基づいて
日本との協力関係を推進したのに対し、朴槿恵大統領は、
就任当初から心情を前面に出しており、
これまでになく厳しい対日姿勢を持つ大統領である。
この背景には、朴大統領の慰安婦問題に対する個人的思い入れや、
韓国挺身隊問題対策協議会のような反日的な団体が国内で影響力があるということもあるが、
それに加えて、韓国の中で中国の重要性が高まり、
国際政治における日本との協力の重要性が低下していることが挙げられる。
中国の重要性が高まった背景には、中国への経済的依存度の高さや
朝鮮半島統一問題における中国への期待の高まりがある。
いわゆる「詫び」「謝罪」に終始した文章ですが、あちらが一方的に
引いたラインの話とか、竹島が日本の領土であるにも関わらず実効支配され
取り返す事が出来ない日本の不甲斐なさには触れないんですね。
ウ 韓国との和解の70年への評価
第二次大戦後の70年を振り返れば、韓国の対日観において理性が
日本との現実的な協力関係を後押しし、心情が日本に対する否定的な
歴史認識を高めることにより2国間関係前進の妨げとなってきたことがわかる。
いまだ成し遂げられていない韓国との和解を実現するために我々は
何をしなければいけないかという問いへの答えは、
韓国が持つ理性と心情両方の側面に日本が働きかけることであると言える。
理性への働きかけにおいては、日本と韓国にとって、
なぜ良好な日韓関係が必要であるかを再確認する必要がある。
朴槿恵政権が中国に依存し、日本への評価を下げたことにより、
同政権が日本と理性的に付き合うことに意義を見いだしていない現状を見ても
このことは明らかであろう。このためには、
自由、民主主義、市場経済といった価値観を共有する隣国という側面だけではなく、
2国間の経済関係やアジア地域における安全保障分野における日韓協力がいかに地域
そして世界の繁栄と安定に重要かといった具体的事例を持って、
お互いの重要性につき韓国との対話を重ねていく必要がある。
朴槿恵大統領の日本に対する強硬姿勢は最近になり変化の兆しを見せており、
経済界における日韓間の対話は依然として活発であるところ、
政府間の対話も増やす余地はあると言える。
心情への働きかけについては、日本は、特に1990年代において河野談話、
村山談話やアジア女性基金等を通じて努力してきたことは事実である。
そしてこれら日本側の取り組みが行われた際に、
韓国側もこれに一定の評価をしていたことも事実である。こうした経緯があるにもかかわらず、
今になっても韓国内で歴史に関して否定的な対日観が強く残り、
かつ政府がこうした国内の声を対日政策に反映させている。
かかる経緯を振り返れば、いかに日本側が努力し、
その時の韓国政府がこれを評価しても、
将来の韓国政府が日本側の過去の取り組みを否定するという歴史が
繰り返されるのではないかという指摘が出るのも当然である。
しかし、だからと言って、韓国内に依然として存在する日本への反発に何ら
対処しないということになれば、2国間関係は前進しない。
1998年の日韓パートナーシップ宣言において、
植民地により韓国国民にもたらした苦痛と損害への痛切な反省の気持ちを
述べた小渕首相に対し、金大中大統領は、
小渕首相の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、
これを評価し、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に
基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互い努力することが
時代の要請であると述べた。にもかかわらず、
その後も、韓国政府が歴史認識問題において
「ゴールポスト」を動かしてきた経緯にかんがみれば、
永続する和解を成し遂げるための手段について
、韓国政府も一緒になって考えてもらう必要がある。2国間で真の
和解のために韓国の国民感情にいかに対応するかということを
日韓両国がともに検討し、一緒になって和解の方策を考え、
責任を共有することが必要である。
もう何もせず国交断絶でいいし、韓国人は韓国へお帰りになればいいのにと
思ってる日本人も多いという事には触れないのね。