職場の昼休み、まあ、何となくの話で「台湾」が話題になりました。
そう、麻生さんが行ってきた台湾です。
私が「台湾は終戦までは日本の領土だったんだよ」と言ったら、50代、40代、共に驚いて「え?本当ですか?」と聞いてきました。
「何で台湾が親日なのか不思議だったんです」とも言われました。
いわゆるテレビからしか情報を得ていない彼らは、太平洋戦争を「第二次世界大戦」って言っちゃうし、毛沢東は知ってても蒋介石は知らないし・・という状況です。
明治時代、台湾に渡った日本人の多くは西南戦争で負けた方で、台湾で起死回生を望んでいたんだろうと思います。
思惑通り、気候が温かくて、パパイヤの木が沢山あって日本語も通じて、インフラが本土よりずっと進んでいた台湾は、それぞれにいい生活をしていたと思います。
実は、私が所属している脚本の会で、私が書いた脚本の評が行われた時、私が台湾を「暖かくて米が年に二度もとれるから食料不足の心配もない。出来れば一生台湾で暮らしたい」と、元日本の軍人に語らせたんですね。
すると、「私、台湾に行った事あるけど暑くて暑くて全然よくなかった。ここはいいところっていうのは違うのでは」と言われました。
私は何も言いませんでした。その人は戦後生まれです。
でも戦前、実際に台湾の台中で暮らしていた私の両親は、「帰国したくない」と思う程に台湾が大好きだったのです。
戦争中で、空襲もあったようです。でも少なくとも日本のようにボロボロの服を着て街を歩いたり、ひもじい思いをした事はなかったです。
「冬は日本に合わせて、全然寒くないのにコートを着てみたりしたわ」と母の友人が語っておりました。
父は軍属、母は教師、「あんたも台湾で生まれていたらもっと豊かに暮らせたのに」と言ってました。
などと、両親がたまたま歳とっていた為に、童話の代わりに戦前の暮らしを語って貰った私は、同年代よりはいわゆる「太平洋戦争」には詳しいかもしれません。
だけど、50代でもそうか・・・知らないのか・・・と思ったのも事実です。
その脚本には、広島の原爆で娘を失くした母親が、その事実を受け入れる事無く、5年後の昭和25年でも娘の見合い相手を探す・・というストーリーが書かれて・・っていうか私が書いたのですが。
その母は、戦争中に娘が自ら望んで挺身隊に入り、呉所属になって8月6日はたまたま広島市内にいた為に死んでしまったと言う事が信じられない。
「人を一瞬にして消してしまう爆弾なんかある筈ない」と言い張ります。
その母の息子は「日本がもっと早くポツダム宣言を受け入れていたらああはならなかった。悪いのは日本」と言い、母は「悪いのはアメリカでしょう」と返すんです。
母は、娘が真に愛国心を持ったがゆえに挺身隊に入り、命を失った事をどう受け入れたらいいのかわからなかったんです。
昭和25年は日本は占領下で、朝鮮戦争が始まったので原爆慰霊式典も行われない。
原爆という言葉が「タブー」視されていたから、日本の多くの国民は実はあまり実態を知らなかったんですよね。
で、母が一番問題にしているのは「娘が挺身隊に入った事は正しかったのか」という事です。
戦後は日本は「枢軸国」ですから、「原爆も沖縄も全部日本が悪い」で教育され、私達の世代ですら君が代を謳うと犯罪者のような気持ちにさせられたものです。
「愛国心」から犠牲になった人を「馬鹿を見た」「無駄死にだったのか」と悩む気持ち・・これって、いわゆる「右翼っぽい」らしく、その会では散々けなされておわったんですけどね。
戦後生まれの70代から見ると「戦前はよい国だった」と言うと「そんなはずない」と言われます。
でも、大正生まれの両親は「戦前は教育勅語があり、子供の頃から親孝行と国に尽くす事を教えられ、よい国だった」と言っておりました。
上皇から見ると昭和天皇は戦争犯罪人であり、自分の誕生日に死刑になったA級戦犯は永遠に許せない人達だとは思います。
けれど、戦前を生きた多くの人達は、日本は軍国主義に凝り固まった悪い国ではなかった。
ただ、共産主義、無政府主義者により一般の国民がかなり迷惑を被った事も事実というでしょう。
特に外地にいた両親は、軍の規制をあまり受けませんでしたので、悪い記憶がなかったんですよね。
そうは言っても、太平洋戦争があった事は事実です。
私は、子供達が小さい頃から靖国神社に連れて行ったり、戦争映画を見せたり、ドキュメンタリーを流したりしていたのですが、我が家の姫は、自分の誕生日が8月10日と終戦記念日に近いのが嫌だったんですが、最近はすっかり「おかげ様でどんな残酷なシーンを見ながらでもご飯は食べられる」と言い、長崎の原爆資料館も怖くなかった。
戦艦が大好きになって、コロナ禍では一生懸命に戦艦のプラモデルを作っていました。
二若君は一見全然そういうのは興味ないって感じですけど、ある時、
「原爆の話をすると、アメリカはすぐパールハーバーという」とぼそっと言いました。
ちょっと怒っているようでした。
真珠湾攻撃の復讐の為に広島と長崎に原爆を落としたのなら、それは本当に大間違いだと思います。
嫌々でも、きちんと戦争の記憶を教えるのは大事な事なんだと思います。
しかしながら、私達は実際には戦争を経験していません。
九段の昭和館には箱みたいなものがあって、空襲警報と空襲の音を経験出来るようになっています。でも、それでもピンとこないっていうか・・・
どうしたらリアルに感じ取る事が出来るのだろうかと日々、考えます。
夜にベランダから空を見ると、沢山の飛行機が飛んでるんですね。
光ってるからわかるんですけど、あれが全部B29だったら怖いなとか、
原爆で言えば「熱線」「ピカドン」「爆風」という言葉がキーワードになるでしょうか。
しかし、現実問題、戦争は進化しており、プーチンのいう「核」は原子爆弾とはくらべものにならない程の威力をもっています。
チェルノブイリの恐怖を知ってる筈のプーチンですら平気で核をちらつかせる時代です。
今や、戦争はドローンの開発と共にAI化して、それこそ一つの国を一瞬にして消す事が出来るかもしれません。
核を持っているか持っていないかが、国同士の力関係に大きな影響を与える現代、抑止力としての核はやはり必要なのかもしれません。
いつまでも戦後すぐのように「憲法9条」だの「核廃絶」だのってシュプレヒコールしている時代ではないですよね。
やっぱり話より映像の方がいいのかな。
上記は2005年にTBSで放送されたもので私、リアルで見てました。
見て、腹が立ちました。なんだこのアメリカ人はと思いましたし、こういう企画を立てて被爆者の心をさらに傷つけるTBSって何なんだと思いました。
この「ひろしま」という映画は私はまだ見る時間がないのですが、ワイドショーでやっていて、実際の被爆者がエキストラとして出演している作品です。
GHQのせいでお蔵入りになったものです。
GHQは戦後、すぐに原爆についての調査を始めました。
生き残った人達の全身をカメラで撮るんです。私はNHKで男子がそういう事をされている映像は見たのですが、女子が高校生になってまで全裸で360度カメラ撮影されていたというのは衝撃の事実でした。
「戦争に負けたから仕方ない」とその人はお母さんに言われたそうです。
被爆直後の広島と長崎の映像です。
放射線の影響は、未だによくわかっていない部分があります。
かなり中心に近い所で被爆したにも関わらず、生き残っている人もいるし、直接被爆してない筈なのに原爆病で亡くなった人もいます。
そのせいで様々な差別があった事も事実ですね。
終戦後、原爆病は移ると思われていたんですよ。
でも、まさか東日本大震災後、福島からの避難民が、他県で差別されるとは思っていませんでした。
今でも、「処理水」をわざわざ「汚染水」と言って差別する国があります。
原爆、核による後遺症は、後々まで禍根を残します。
ゆえに使ってはいけないのです。
人の「無知」とは恐ろしいものだと当時も感じました。
とりとめがないのですが、長崎の原爆記念日に合掌。