1958年11月事前に宮内庁に提出された美智子さんの婚約当日の写真
朝日新聞号外 1958年11月?日
「皇太子妃決まる正田美智子さん 皇太子殿下がご懇望初めて民間から愛情に支えられて殻を破った人間皇太子」
週刊明星 1958年11月23日号
「内定した!?皇太子妃正田美智子さんその人の素顔」
1958年11月26日 行きつけの美容室で
1958年11月27日
「皇太子殿下の婚姻に関する件」について皇室会議で可決した文書
1958年11月27日 婚約が発表される前に母親と散歩に出る美智子さん
新潟日報 1958年11月27日
「皇太子妃今日決まる皇室会議後 正午頃発表」
読売新聞 1958年11月27日
「皇室会議全会一致で皇太子妃に正田美智子さん承認」
1958年11月27日 ドレスを身に着けた美智子さん
朝日新聞 1958年11月28日
「皇室に新しい歴史「同感だ」と三笠宮さま 27日皇太子殿下の写真を手に持ちながらご婚約を喜ぶバイニング夫人」
1958年11月27日 正田邸
婚約発表前の正田美智子嬢
記者会見
婚約発表後の正田美智子嬢
皇居へ挨拶にいく
宮内庁を退出
1958年11月28日 婚約後、初めて東宮御所へ
毎日グラフ臨時増刊号の表紙
毎日新聞の1面を飾った写真。
当時の美智子嬢はクリームと口紅のみでおしろいは使っていないと報道される
毎日新聞記者が撮ったポートレート
美智子嬢のドレス姿とピアノを弾く姿
週刊読売 1958年12月7日号
「特集・皇太子妃・テニスコートの皇太子殿下・正田美智子嬢
皇太子の恋愛結婚 テニスコートで結ばれたチャブとミッチー
皇太子のご婚約によせて ホッとした三つの気持ち(秋山ちえ子) / 花ひらいた人間宣言(本田顕彰)
だれにも愛され慕われた生い立ち / “武門出”の秀才ぞろい(正田家の家系図) / “皇后学修行”に明け暮れる今後 / ご婚約成立までの経過
インサイドレポート“姫君”追いかけた五年間 おきさき記者の秘話
グラビア特集美しきプリンセス喜びの正田美智子さん
“孤独の人”に春が来た(藤島泰輔)」
アサヒグラフ緊急増刊皇太子ご結婚記念画報 1958年12月10日号
1958年12月6日 婚約後初のテニスをする為に東京ローンテニスクラブを訪れる
週刊読売 1958年12月14日号
「特集プリンスの恋を実らせた人小泉信三」
アサヒグラフ1958年12月14日号
「われらのプリンセス」
LIFE 1958年12月15日号
「日本の将来の皇后ーどのように彼女が選ばれたか」
正田邸にて
1959年 正月
納采の儀後の写真。帯は香淳皇后から贈られたもの
正直、こんなに写真を撮られ慣れている素人さんっていないんじゃないか?と思います。
今の時代ならともかく、昭和30年代ですよね?
婚約が取りざたされてから、嫌がらせの電話が鳴りっぱなしだったとか、虐められたとか色々言われていますが、正田家はノリノリだったじゃないですか。
自宅にどんどん新聞記者を呼んで写真を撮らせたり、個人的に手紙のやりとりをして「美智子嬢の心境」を語らせたり。
結婚前なのに、「美智子さまはこういう風に思っていらっしゃる」が筒抜けだった気がします。そういう印象操作に長けているなと。
正田家の家族写真。笑顔がなく冨美さんに至っては目を伏せている程。
つまり「正田家は本意ではない。皇太子殿下の為に仕方なく娘をやるのだ」というスタイルを貫こうとしているような。
正田家にとって、美智子妃誕生は「闘い」の始まりだったのかもしれませんね。
昭和30年代に室内で靴履きの生活ってそうそう見当たるものじゃないというより令和の時代でも室内で靴履きで生活している日本人家庭ってどれ程あるのでしょうかね。こういう生活環境から日本の伝統文化を尊ぶ感性が育まれるとは思えないです。
それにしてもこの後大改造されたんですね。それで今上陛下や清子様と似た印象が無くなってしまった。弄らなくても十分に綺麗だと思うけど、本人はオードリ・ヘップバーンに成りたかったのね。
幼かった時、両親が号外を見て、何て美しいと感嘆していたのを今でもはっきり覚えています。当時は憧れのシンデレラでした。
正田巌氏と日銀で仕事をした方が、巌氏がうちの上の妹は凄く綺麗で下の妹は普通ってよく話していて、その妹がお妃になるとニュースで知りビックリしたよと話していました。
確かに美しいし、ポーズもバッチリですね。
まさかこんなトホホな皇室になるなんて、当時は夢にも思いません。
また続き楽しみにしています。本当に有難うございます。
チョット残念ですが、色々と訂正をさせてください。
昭和三十年代の中流以上の家でしたら、正月・七五三・入学・卒業・十八歳以上に成りましたら、女性はお見合い写真を作ります。
私は中流でも有りませんでしたが、小さい時からポートレイトは撮られ慣れています。
写メなんて言葉も無い昔は折節に写真館に行って記録を残したものです。庶民でもそうですよ。
オートマチックのカメラなんて有りませんから、きちんとした記録を残したいと思ったら、写真館、写真屋さんに依頼します。
あと、靴を履いたままでの生活は戦前の華族社会や富裕層では当たり前です。
和の生活は「私」洋の生活は「公」なのです。
戦後も都市の富裕層では同じです。
水を差すようなコメント、御免なさいね。
でも、正しい知識を基にしたブログをお願いしたいと思いましたので。
では、本当に此れでお別れいたします。
見たことのないものがたくさんあり、収集大変だったろうなと思います。
正田美智子嬢は、ネックラインのあいた服がお好きだったようですね。今見てもすこし胸を見せすぎ、つまり下品のように思いますが、当時そういう意見はなかったのでしょうか。
それと真ん中へんの朝日グラフの小さな写真、たぶん富士屋ホテルの傘をさしているもの。美智子嬢、コートをきちんと着ないで肩にかけていますが、あれはまずいのでは?
かなりかなり昔靴屋さんで買い物していたとき、あのスタイルの女性客が出て行ったあと、昔かたぎのおやじさんが「あんな格好して。パンパンがするもんだ」と吐き捨てるように言ってましたっけ。
パンパンなんて今の若い人には通じませんけど。
この新しいシリーズ、楽しみです。
ただこの室内家族一堂そろった写真の富美さんの写真は、それ以上の憂愁を感じます。
娘が入内することに、すごーく嫌で嫌で仕方がない。皇室なんて!という意思表示な気がします。
それに富美さんは家族写真はカメラ目線をているので、私の祖母のような写真に対する畏れがあったようには思えませんしね。
ウロになってしまったのですが昔読んだ本の中で、富美さんの言葉として「皇室を神の存在として教えたことはない」と明言しているところがありました。まあ人間宣言後ですからそれはそうかもしれませんが、余りにもキッパリしすぎていて、この方皇室に対するある種の忌避感があったんじゃないかとさえ思ってしまいます。
皇室を崇められない心情の母親から皇太子妃となって入内する。
何かの義理があってやむなくなのか、娘がすっかりその気になっているので止められなかったのか、日清製粉という会社拡大のための布石として仕方がないと思ったのか。
あ~~本当に富美さんの日記が読みたいですよ。結構ベストセラーになるのでは?
美智子さんはお若い時から姿勢が良くないのですね。
亀のように前にニュッと首を前に出されるのはなんとなく前のめりな性格が出ているような。顎を引いて背筋を伸ばされたほうがキリリとして見えます。
自分は若い頃から女優気取りなのに、年頃の黒田清子さん(紀宮)の服装と髪型は本当にかわいそうでした。
上質な衣装なのでしょうが、なんとなく体型と合っていなくてあまりお似合いでなかったと思います。
ご結婚されてからの清子さんのお洋服はとても上品でお似合いで、髪型もミセスらしくスッキリとカットされて、洗練された雰囲気です。
皇后のときの美智子さんは紅白の演歌歌手のような衣装で、変でした。衣装部屋に何着あるのだろうか。
入内の前だったか後だったか、上皇后が肩掛けコートで宮家へのご挨拶に回り、注意されたという話があったような。
靴屋のおじさんが言った昔の感覚は私には新鮮ですが、庶民でさえそうだったのですね。
上皇后の言動を見ていると、正田家ではどんな躾をしていたんだろうと疑問に思う事が多いです。