玉川上水散策の下見、最終回です。
新宿駅より東の玉川上水は関東大震災後に暗渠化され、その敷地は都市化への開発の一部を担い、
かつての面影は無くなりました。
暗渠化された新宿御苑脇の玉川上水路の地下に、平成3年(1991)、甲州街道の新宿4丁目交差点と、
四谷4丁目交差点を結ぶ全長840mのトンネルが貫通しました。
かつての上水路は車の路に大変身です。
新宿御苑脇の「内藤新宿分水散歩道」を歩きます。
平成24年、新宿御苑100周年を記念して、環境庁、新宿区地域が一体となり、
玉川上水をイメージした親水路(540m)が造られました。
水路の水は新宿御苑トンネル内の湧水が引き込まれています。
現在の新宿御苑一帯は、元内藤駿河守の屋敷で、庭園には「玉藻池」が造られ玉川上水から引水していました。
明治5年、敷地の一部は「内藤新宿試験場」になり、
明治12年、宮内省所管の「新宿植物御苑」を経て、明治39年、新宿御苑となりました。
「玉藻池」は今も新宿御苑内に存在し、江戸時代の玉川上水が偲べる唯一の置き土産になっています。
遊歩道が終わって、御苑の大木戸門の前を通り過ぎて・・・
一般道へ出ると、角にこんな場所が。
脇道を抜けて近道~
余水吐け
余水は余水吐で渋谷川に落とされていました。御苑の東側に水路が残っています。
交差点の角に碑があります。
横から
水道碑 都有形文化財 昭和5年12月指定
高さ460cm、幅230cmの大きな碑で、表面に780字、裏面に130字刻まれ、
上水開設の由来と、玉川上水の功績が記されています。
裏面
四谷大木戸碑 都旧跡 平成9年3月指定
地下鉄丸の内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用した碑が、新宿御苑大木戸門脇の水道局の敷地に建立されています。
水番屋跡の敷地は、もちろん水道局の建物になっています。
玉川上水の最終地・四谷大木戸は、
元和2年(1616)、甲州街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まる為に関所が設けられました。
寛政4年(1792)には、木戸も番屋も撤去され、自由に往来できるようになりました。
四谷大木戸があった場所は現在の四谷4丁目交差点です。
ここで散策の下見は終了です~
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玉川上水散策の最後の区間、下見の続きです。
今回の下見は、一緒に案内してくださるSさんのお陰で、例会と同じ行程。
Sさん独り占め状態、本当に嬉しい限りです。
女子大の前の道路には、
アーチ型モニュメントが設置されています。
平成15年建立。 明治時代に造られた新宿駅地下をくぐる玉川上水の暗渠(煉瓦造り)を模したもの。
ほぼ原寸大とのこと。かなり大きいです~
内側に当時の煉瓦がはめ込まれています。
傍らに「玉川上水の記」という説明版があります。
「千駄ヶ谷橋」跡
「葵通り」
暗渠化で、千駄ヶ谷橋~葵橋間は「葵通り」という商店街になり、
葵通りの突き当たりの東京南新宿ビルの壁にその成り行きを記した「葵橋の記」の銘板がはめ込まれている。
新宿駅の南口
玉川上水旧水路を走る京王線
現在、京王線は新宿から初台先までは旧玉川上水路の地下を走っている。(遊歩道に換気口)
もう一般道を歩きます。
天龍寺
天和3年(1683)建立、江戸城の裏鬼門鎮護の寺。
家康の側室である西郷局の父の菩提寺で、遠江国の法泉寺が移されたもの。
脇から中へ入ります。
屋根には葵のご紋
雷電稲荷神社
創建時代は不詳。 源義家が奥州征伐の途中、雷雨に合い小祠前で休んでいると、一匹の白狐が現れ、
頭を三回下げたという。
すると雷雨がたちまち止んだ・・・との由来が伝承されている。
昭和3年に花園神社に合祀されたが、現在もこの地に鳥居と祠が祀られている。
「旭橋」悪水吐の石樋(新宿高校内)
遺構の石樋は、玉川上水の上に架けられていた悪水吐(下水の樋)
玉川上水を汚さないために、甲州街道と青梅街道の分岐する追分一帯の雨水などの下水を
千駄ヶ谷の谷の池に落としていた。
このあたりは、大雨時には天龍寺辺りから一面、水浸しになったらしい。
いよいよ終点に近づきます~
つづく
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