日本人にとって、忘れてはならない日がある。
そう、8月15日。終戦記念日である。
太平洋戦争に負けた日であるが、敗戦とは言わず終戦という。
テレビで終戦記念日に流される、昭和天皇の玉音放送は何回か聞いたことがある。
つまり、日本が戦争を終わらすために天皇陛下がご英断をされたということだ。
その英断の影にいたのが、終戦時に内閣総理大臣であった鈴木貫太郎氏である。
鈴木貫太郎氏の墓
鈴木氏は、大正~昭和中期までの軍人であり、政治家であった。
早くから海軍を志した。卒業後、日清・日露戦争で活躍。水雷戦術に優れ、特に日露戦争では、駆逐隊を率いて戦艦3隻を撃沈するなどの戦果を挙げた。
その後、海兵校長・海軍次官などを歴任し、特に海軍次官の時には「シーメンス事件」が発生、今で言う収賄の類だ。政治問題に発展し、八代六郎海相を補佐し、山本権兵衛や斉藤実らの海軍の長老を次々と待命とするなど、強硬な態度で臨んだという。あっぱれである。待命は半年の猶予を持つ事実上の解雇ではないか。
東郷平八郎元帥も抗議したが、突っぱねられたという。
国を動かす者は、それくらいの厳しさを持っていないといけないだろう。鈴木氏は自分にも厳しかったことが伺える。
墓の周りを囲むように設置されている貫太郎氏の略年譜
その後、連合艦隊司令長官や海軍軍令部長などを歴任し、侍従長として7年間、2.26事件で重傷を負うまで、昭和天皇の側で仕えたという。
ここまでで信頼の厚い人物であることは理解できる。
その鈴木氏が79歳の時だ。昭和20年の4月、沖縄で激しい戦闘が繰り広げられていたころ、首相指名の依頼があった。高齢を理由に固辞したが、天皇直々に「どうかまげてやってもらいたい」などと説得されて首相の座に着く。天皇陛下の信任厚い人間であった。
その年、原爆投下による甚大な被害やソ連の満州侵攻が起こった。それでも徹底抗戦を主張する陸軍に対して、鈴木は天皇に「聖断」を仰いだ。その結果、終戦を迎えることができた。その後鈴木氏は暴徒に官邸、私邸を焼き討ちに遭ったが、危うく難を逃れ、関宿に居を構え悠々自適の静かな生活を楽しんだ。
終戦後2~3年の時間だった。
現在は野田市関宿の実相寺に眠っておられる。
鈴木貫太郎記念館