毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

たくさんだと思ったそのときは

2015年10月28日 07時50分18秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私と 私の仲良しさんたちは、雲を見て 「あ~ ウサギだぁ♪」 「イルカに見える~」 などとはしゃぐタイプぞろいで、ブログに雲写真など載ると それはもうワイワイ盛り上がるたちなんだけれど、これって ロールシャッハテストと同じく 意識の投影そのものですよね (^^)

同じ雲やインクの染みも、そこに何を見出すかは 人それぞれ。

そして、何を見出すにせよ、それは その人の過去の記憶から生み出される。




ブログやツイッターをあちこち見て回っていると、会話やコメント欄などで 感情的な言い争いを目にすることがあります。

理詰めの攻防戦から むき出しの憤怒のぶつけ合い (いわゆる “炎上” 含む) まで、いろいろなケースを見せてもらいましたが、これもみな 一見相手に怒ってるようで、実は 相手をきっかけによみがえった、「未消化のまま残っている 不快な記憶」 に怒っているんですね。

これ以上ないぐらい憎ったらしいと思い込んでいた相手が、実は 眠っていた怒りを引っ張り出すためのアイコンに過ぎなかったと氣づいたら、びっくりするだろうか。




前々回の記事に、「意識はコントロール可」 と書いたけれど、これはあくまでも ニュートラルな立ち位置での話。

実際のところ、うんと幼いうちから いろいろな先入観を植え込まれて、およそニュートラルとはほど遠い状態で スタートを切るケースが大半でしょう。

いくら 「自分の世界は自分が創っている」 などと言われても ほんとうと思えないのは、このあらかじめクセづけられた意識の影響が大です。

望み通りの世界を創れた手応えがまるでないのに、「自分が創ってる」 なんて言われてもねぇ (-_-; )

でも それは、創る力がないのではなく、創造のおおもとである意識のありように バイアスがかかっているせいなのです。




すんなり受け入れる、ジョークに紛らわせる、あっさりスルー など、反応のしようはいくらでもあるだろうに、どうして 一瞬のうちにカッとなってしまうんだろう、どうして自由に選べないんだろう、と悩みに悩んだ “怒りグセ” 、根っこをたどると 100%といっていいでしょう、小さいころ 手の打ちようがないまま 心の奥に押し込んでいた、怒りや悔しさの記憶に行き着きました。

驚いたのは、幼さゆえ ほとんどの記憶が曖昧にぼやける中で、ところどころ妙にあざやかな思い出が残っている、それがみな 「ああ、今までの怒りは このせいだったのか!」 とすとーんと納得できる、原点ともいうべき出来事の記憶だったこと。

それほどインパクトの強い出来事だったからこそでしょうが、ちゃ~んと手がかりが残るようになっているものなんだなぁ、と しみじみ感心させられました。




なにごとも 体験するためにやってきたこの世界、ケンカでもなんでも 心ゆくまで味わえばよいけれど、過剰な怒りは 心身を大きくすり減らします。

しかも、どれだけ怒ったところで、怒りだけでは なにごとも解決しないと思い知らされるのが、関の山。

もう十分、これ以上はたくさんだ! と思ったら、その氣になりさえすれば 抜け出す手立てもヒントも 自分の手元に必ずある、ということを 知っておいていただければ、と思います (^o^)