毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

どっちも大事

2015年10月31日 23時23分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今 畑として使わせてもらっている空き地や わが家の石垣などもそうですが、長らく放置して 草ぼうぼうになると、根っこが思い切り育って 土中にがっちり食い込み、女性ひとりの力では抜けませ~ん ということが ままあります。

そういうときに、氣長にやれば 効果的な方法。

とにかく 地上に出ている部分を刈るのです。

地面ギリギリのところで スッパリ刈り取り、少し伸びてきたら すぐまた刈る。

地上部の勢いを とことん抑えつけて しばらくおくと、やがて根っこが弱りだし、らくらく抜けるようになります。





私はよく 人間の 目に見える部分を茎や葉や花、目に見えない部分を根っこにたとえますが、上の話、このたとえにも当てはまる氣がします。

地上部が幸せであるために、根っこをしっかり育てるのが重要なのはもちろんですが、根っこにかまけ過ぎて 地上部がおろそかになっても、やはり全体として弱ってくる。

私が実際にそうだったんですが、心の探究に夢中になる中で、外の世界。。。つまり 当たり前の日常の生活が うとましく思える時期が、多かれ少なかれあるんじゃないかと思います。

まあ、仕方ないといえば仕方ないんですね。

今外に見える世界は、自身の 「過去の」 思いの具象化したものだから、内で “開眼” が進んでいるときほど 外の世界の味氣なさが際立って見え、内外のギャップが重荷に感じられてしまう。




これもまた 体験すべき貴重なプロセスなわけですが、そのときは 「私たちは 内と外 両方で一体」 だということを思い出せるといいなと思います。

草木が 根も地上部も 等しく大切なように、私たちも 見える部分 ・ 見えない部分 どちらも等しく大切。

高次の視点から見れば、三次元世界は 魂の成長をわかりやすく見せてくれる鏡だし、三次元視点から見れば、この世の暮らしを楽しむために 内的成長があるわけで。

どちらも真実であり、たがいに反映し合っていて、ふたつでひとつなんですね。




内的探究の一環で、厳しい生き方を余儀なくされる場合も 多々ありますが、そんなときほど 自分のほんとうの望みを汲んで、ささやかなことでいいから 自分を喜ばせる体験を増やすと同時に、わざわざ苦しい生き方を選んでいないか、もし選んでいるなら それはなぜなのか、自身をよぉく観察することが大事かと思います。

茎を伸ばし 葉を広げ 花を咲かせ 実を結ぶ、そんなプロセスを楽しむために、私たちは この世界にやってきたのですから

























誰でもいい☆

2015年10月31日 07時18分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


せっかくなので、1日限定でハロウィンテンプレートにしてみました♪

「しあわせ日和」 が ぜんっぜん幸せに見えないのが素敵です ( ̄∇ ̄;)




内的探究の手がかりとなる情報を求めて いろいろなブログやメルマガなどを読ませてもらっていますが、時おり見かけるのが、いわゆる 「陰謀説」 。

国家の上層部や 大企業の経営者、ときには とある惑星の宇宙人などが、私たちの思考を 特定の枠組みにはめ込み、自分たちに都合のいいようにコントロールして 奴隷化し、さらに 負のエネルギーを生み出させては 吸い取っている、などというもの。

私は そういう話、ことさら否定しないし、むしろ ありだな、ぐらいに思っています。

が、そこからさらに踏み込んで にっくき奴め、どうしてくれよう とはならないのです。

ウソかまことか、ありだけど わからんね~、ぐらいのところにとどめております




別に、太っ腹だとか 度胸があるとかではありません。

この世に 否定的な意図というものがあるのは感じるし、ひとつ間違えば 人生を大きく狂わせられる可能性があることも わかります。

でも、この二極世界に 否定的な体験はつきもの、それも体験学習のうちと思えば、やたら恐れたり忌み嫌ったりしてもしょうがない。

そして 「誰が」 ということについては、大した意味はないとも思っています。

肝心なのは 鏡に映し出された内容のほうであって、鏡がAかBかは問題じゃあないと。




誰が正しいのか、誰が悪いのか、と 「誰が」 にこだわると、肝心なところを逃すような氣がします。

そもそも答えは人の数だけあるのだし、どのみち 誰であろうと 本人以上にぴったりの答えを持つ人なんて いないのだから。

救世主探しは依存に、悪者探しは戦いにつながり、歩みを止めることになります。

もちろんそういう体験を 意図してプログラムに組み込んでいる人もいるのだから、いい悪いの話ではないのですが。

ただ、いずれは抜け出す体験なのは たしかです。



焦点を定めるのは 「誰が」 ではなく 「なにが」 なんじゃないかと思います。

なにが正しいのか、なにが “悪” なのか。

自分にとって なにが最善最良で、なにが望みを叶えてくれ、なにがほんとうの自分へと導いてくれるのか。

紆余曲折はあっても、自分のほんとうの答えに結びつく この問いかけなら、大きくブレることはないような氣がします。




「陰謀説」 も あながちナンセンスとは思いません (^^)

悪があるなら 当然善もあるわけで、守護神だのハイヤーセルフだの天使だのアセンテッドマスターだの善良な宇宙人だのご先祖様だのが 周囲をがっちり固めて応援してくれているのを想像するだけで、あったか~い氣持ちになり、ヤル氣が湧いてきます♪




想像力 ・ 創造力 とは、都合よく使うものなのです (^_-)-☆