毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

今のようなときだからこそ、曖昧な言葉にご用心

2022年03月20日 14時10分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
その昔、ちょっと変わった伝言ゲームに参加したことがあります。

ご存じのように、伝言ゲームとは お題となる言葉を人から人へ次々伝えてゆき、どれだけ正確に受け渡せるかを楽しむものですが、このゲームは言葉そのものではなく、語られた内容のほうを受け渡していくのです。

だから 使う言葉や例えなどはどんどん変えて構わないのですが、話の肝については正確に伝えねばなりません。

これを貴秋は二回やったことがありますが、一回目は 案の定というか 相当なズレが生じ、二回目は途中で空中分解しました(笑)。

二回目の時は 前回の体験から言葉の扱いに多少注意深くなった者が混じっていたため、何を言いたいのかよくわからない言葉を前の人に差し戻して追求していったら、完全に答えに詰まってしまった人が出て、そこでおしまいになったのです。




このブログでもたびたび書いていますが、地図に その地図が指し示す実際の場所があるように、言葉にも その言葉が指し示す具体的な事象があります。

ですから、現地に行ったことのある人が正確に描いてくれた地図に信頼がおけるのと同様、その事象に鮮明なイメージを持つ人の言葉も信頼できます。

問題なのは、地図や言葉の正確さに重きを置かない人や、現地や事象を 「知ったつもり」 になっている人の場合。

前者は何度か話していれば 「この人の言うことは要注意だな」 とわかってきますが、後者は 本人も知った氣でいるため 見分けがつきにくい。

これに惑わされないためには、尋ねているこちらがその場所や事象について明確なイメージを思い描けるようになるまで 何度でも根氣よく聞き返すことです。

これで相手がしどろもどろになったり 怒り出したりしたときは、眉唾だと思った方がいいでしょう。




S ・ I ・ ハヤカワ著 「思考と行動における言語」 という本に、「抽象のハシゴ」 という話が出てきます。

ベッシーという牝牛を例に、特定の牝牛である「ベッシー」 を表す言葉が 「牝牛」 「家畜」 「農場資産」 「資産」 「富」 と変わるほどに、言葉の指し示す範囲が広がり、ベッシーならではの特性が見落とされていくさまを、「抽象のハシゴを上がる」 と表現する話です。

ベッシーを 「牝牛」 と言うときは、ベッシーと他の牝牛を区別するベッシーならではの個性が落とされ、「家畜」 となれば 豚や山羊や鶏などと同じ扱いで、牛ならではの特性も問題にされません。

「富」 などと言われた日には、ベッシーのことを指していると即座に理解するのは まず無理でしょう。

この抽象のハシゴのてっぺん近くにある言葉ほど、扱われ方によっては要注意となります。




日ごとキナ臭さが世界中に広まってゆくような今、「国」 「国家」 「国民」 などという言葉には とりわけ注意を払わねばと感じます。

誰かが言う「国」 や 「国家」 とは何を指すのか、「国民」 とは誰を指すのか、言った本人に問うことなく 勝手にわかったつもりになっていると、あとでとんだ泣きを見ることになりかねません。

こういう言葉は、後からどうとでも解釈できるよう わざと曖昧な使われ方をする場合があるからです。

日ごろ 「国民のため」 を連呼する政治家が、コロナ騒ぎで経済状況が悪化し苦しむ人たちを実際に救ってくれたでしょうか。

地震や台風、水害などで家や土地を失い 寄る辺ない身となった人たちを庇護してくれたでしょうか。

答えがNOなら、彼らが 「国民のため」 という言葉を使ったとき、「あなたの言う “国民” とは具体的に誰のことを指すのですか?」 とその都度問う必要があります。

その答え次第で、今後その人を支持するかしないかが決まるのですから。




故意かたまたまかは知りませんが、コロナやウクライナ侵攻、自然災害などのニュースには、恐怖に脅える人、悲嘆にくれる人、大切なものを失い泣き叫ぶ人、などのように 感情をかき立てる映像が数多く使われます。

こういう場面で心乱されるのは、私たちが愛情深いことの表れでもありますが、感情の乱れは 冷静に物事を見る力を失わせ、視野を狭めさせます。

こういうとき私たちは、先日お話しした演歌歌手のように すぐ近くにある解決策を見逃したまま 判断を誤りやすいのだということを 肝に銘じておく方がよさそうです。

日頃から 言葉そのものでなく その言葉が表すおおもとがいったい何なのかを見極める習慣をつけておくことで、私たちは 元をたどれない伝言ゲームに乗っかって 空中分解に巻き込まれるような憂き目を見ることなく 人生を思いのままに進んでゆけるでしょう。