Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

理由

2006-10-01 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★ 1995年/アメリカ 監督/アーネ・グリムシャー
「つめこんで破綻したシナリオ」


焦点ずれまくりで収拾つかず、破綻したシナリオ。最近のアメリカの社会派作品はよく練られたレベルの高いシナリオが多いだけに、ここまで破綻した映画は久しぶりに観たなあ~と言う気がする。

殺人事件の容疑で死刑の判決を受け、投獄されたてしまった黒人青年ボビー。だが、それは黒人差別による冤罪と彼は主張する。ボビーへの取り締まりのシーン。大卒の黒人青年に自白させるために暴力を奮うのは、同じ黒人警官だった。ということで、この映画は人種差別を一元的に描くのではなく、もっと掘り下げた形で提示しようとしているのかと思った。

ところがどっこい。黒人差別の話はどっかに行ってしまって、今度は死刑廃止問題に焦点が移動する。ショーン・コネリー演ずる死刑廃止を訴える元弁護士のポールと冤罪による死刑囚ポールとの交流。そこへ、真犯人は誰かというミステリーが絡んでいく。

またまたところが、ここでボビーが収監されている刑務所で俺が殺したと突然名乗りをあげる猟奇殺人犯が登場。そして、ポールとの接見はもろ「羊たちの沈黙」のパクリ。一転猟奇サスペンスの物語に突入。一体この映画はどこへ行こうとしているんだ!

そして、結局ポールはボビーに操られていただけ~とわかり、ちゃんちゃん。って、おいおい何なんだよ。面白そうなネタの種をばらまいておいて、ちょっと芽を出しておいて、でも実は成らずに伸びっぱなし。

黒人差別なら黒人差別、死刑廃止なら死刑廃止にしっかり軸をおいて作れなかったものか。こういうのを二転三転するストーリーとは言わない。よくショーン・コネリーはこの映画に出演したなあ。シナリオを読まなかったんだろうか、と言いたくなる。