Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ブロークバック・マウンテン

2006-10-04 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/アン・リー
「後からじわじわ効いてくる」


叶わぬ恋。いわばよくある悲恋モノ。ただ愛し合うのが男と男というだけのこと。なのに、その切なさが後になってじわりじわりとボディブローのように効いてくる。実は原作を先に読んだけど、この切なさは全く感じなかった。物語は短編で淡々としてるし、カウボーイという設定もあまりピンと来なかった。ところが映像になってみると全然違ったのだ。

まず、ブロークバック・マウンテンのあの美しい景色。どこまでも続く羊の群れ、湖面に映る山々。そこをテンガロンハットをかぶり馬にまたがった青年が二人。こんなところで誰かを愛したら、そりゃ忘れられない思い出になるよね。結局この思い出があまりにも美しすぎることが、彼らを一生苦しめるわけだ。だけど、男女を問わず思わない?邪魔する物は何もないただただ圧倒されるような美しい自然の中で愛する人と毎日抱き合えたらって。

この映画で人によって様々な解釈ができる場面は、二人の初めての夜だ。「始まり」が友情の先に芽生えた愛として捉えることもできるし、何もない退屈な毎日で誰かの肌に触れたかったとも考えられるし、冷えた体を合わせた時に何となくそういう気分になったとも考えられる。しかし、あの晩のきっかけがただの欲望だったとしてもいいんです。だって、二人はその後20年に渡って愛し合うわけですからね。お互いがゲイと知りつつ愛し合って体を求めた、という展開ではないからこそ、ブロークバックの思い出は奇跡のように輝き続けるんじゃないかな。

それに、抱き合った次の朝「一日だけのことにしよう」「俺はゲイじゃない」って二人は言い合っている。でも、その晩も二人は抱き合う。この流れがね、どんな始まりであろうとも二人は互いを深く愛し始めてしまったということを観客に受け入れさせる大きなポイントではないかと感じる。

さて、ゲイムービーには必ず出てくる「乗り越える」というテーマは、この映画にはない。特にイニスは乗り越えようともしない。それは乗り越えられる、という希望すら持つことのできない時代だったからだ。そこには狂おしいほど相手が好きだという事実があるだけ。とてもとてもジャックを愛しているのにうまく愛情表現ができないイニスをヒース・レジャーが熱演。ジャックが去った後一人で嗚咽する姿、4年ぶりに合ったジャックに激しくキスを求めるシーン、そして老いてなお愛するジャックのシャツを指でなぞる姿。トレーラーハウスで孤独な生活を送るイニスはジャックへの愛を胸に人生を終えるのだろうか。切ないなあ。