Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

カポーティ

2006-10-06 | 外国映画(か行)
★★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/ベネット・ミラー
<梅田ガーデンシネマにて>

「作家の業」


1959年、カンザス州で一家4人惨殺事件が発生する。翌日この事件を知った作家カポーティは、これを作品にしようと思い立ち、すぐさま現地へと取材に向かう。同行した幼なじみのネルと共に事件現場や関係者を訪ねるカポーティ。やがて容疑者の一人ペリー・スミスの不思議な魅力に創作意欲を刺激され、面会を重ねる中で次第に彼の信頼を得ていくカポーティだったが…。

実在の人物をモチーフに演技するのと、実在の人物をそのまま演技するのには雲泥の差がある。自由度が全く違う。しかも、その人物になりきる、ということは、いかに上手くモノマネできているかにばかり注目が行く可能性がある。その場合、映画全体の評価がおろそかになってしまうことがあるのだ。

さて、このカポーティという作品。これは、フィリップ・シーモア・ホフマンなくしては成立し得ない映画だ。誰も彼の代わりはできないであろう。声のトーンからちょっとした仕草に至るまで、彼はカポーティその人だった。しかし、これはそのモノマネぶりを評価するにとどまる作品では決してない。作家という職業の“業”やカポーティという人物の矛盾した人間性がぐいぐい心に迫るすばらしい作品となっている。

教会に安置された棺の中を覗き、死刑囚に取り入り、被害者の友人を訪ね、事件の生臭い現実を取材しているくせに、NYに戻るとセレブたちを招いてパーティを開き事件をネタに酒を飲む。このあたりの「イヤな奴」加減を非常に上手く演じてますね。その嘆きは本物なのか、それとも好奇心なのか。ただね、芸術家って誰でも大なり小なりこういう非人間的な部分を持ってますよ。作品造りのためには少々のエゴは許される、という高慢な部分とかね。ましてや、当時のセレブ中のセレブだったカポーティ、奢りがあったとしても可笑しくはありません。でも、結局それが彼を破滅においやるわけです。

ペリーとの深い接触により、この作品「冷血」は新しい「ノンフィクション・ノベル」というジャンルを築き、注目度も高まる。しかし、ペリーの死刑は幾度となく延期される。彼が死刑にならないと小説のラストが書けない。苦悩するカポーティは精神的にも不安定になってしまう。自業自得といえばそうだけど、作家が「書きたい」という欲望に抗えないのもとても理解できるんだよね。

常に彼に寄り添っていた幼なじみで作家のネルを演じるキャサリン・キーナーもいい。ちょっと性格破綻しているカポーティを母のような包容力で包み込んでいる。おそらく普通の友人関係なら、彼をいさめるんだろうけど、敢えてそうはしない。それだけ、彼の人となりをわかっているからだろうと思える。しかし、ペリーの死刑が確定し、嘆くカポーティにネルは強烈な一言を吐く。何があっても自分の意見は言わなかった彼女の痛烈な一言がカポーティの心に刺さるのだ。

ホフマンの演技、そのものを観るためにこの映画を観ても全く損はないと思う。今の時代、演技力だけで損はないと思わせてくれる俳優は何人いるだろう。カポーティの複雑な人物像を巧みに演じきったホフマン、アカデミー主演男優賞は文句なし。「冷血」を読みたくなりました。