Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ボーイズ・ドント・クライ

2006-11-16 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 2000年/アメリカ 監督/キンバリー・ピアース
「事実から目をそむけるな」


主人公ブランドン(ヒラリー・スワンク)は性同一性障害の女性である。自分は男であるという意識から逃れられず、男として生きていくことを決意する。しかし、閉鎖的な街で彼の生き方が受け入れられることはなかった…。(以下、ネタばれです)

この作品の悲劇は、映画のタイトルである「ボーイズ・ドント・クライ」に象徴されている。男の子は泣かない。男たるもの泣いちゃいけない。そういう社会的な通念、男らしさ、女らしさという世間のイメージにがんじがらめになったばかりに起きた、とてつもない不幸を描いている。

何が一番悲しいかって、ブランドン本人がそういうありきたりな固定観念に縛られてしまっていたことだ。体は女性だけど、男として生きる決心をしたブランドンは「男らしくありたい」と願い、少々の無茶をいとわず暴力的な仲間たちとも「男だから」という理由で彼らのやり方に追従しようとする。しかし、悲しいかなそれは間違いだったのだ。ブランドンはブランドンらしく、生きれば良かった。しかし、男として生きると決意したばかりの彼にそんな精神的余裕などなかったのだろう。それほど「男として」生きることに必死だったのだ。

ガールフレンドをブランドンに横取りされたジョンは、怒り狂って報復に出る。彼の怒りの源は「真の男である俺」ではなく「男の振りをした女」にガールフレンドを取られたから。男のプライド、男の存在意義を踏みにじられたからだ。男の沽券なるものを振りかざすことほど見苦しいものはない。男であるというだけで持ってるプライドなんて糞くらえだ。

悲劇的な結末だが、これは実話なのだから仕方ない。この事件について多くの人が知るべきだと思う。それにしても「男性が女性として生きていく」ことももちろんなのだが、「女性が男性として生きていくこと」の生き難さと言うのを今作を通じて非常に痛感した。例えばブランドンのような人がビジネス社会で出世していくという物語がもしあったとしたら、男社会の嫉妬や横やりというのは相当なものがありそうに思える。

男である、というだけで与えられた社会的な地位や信用度に安穏としている人々は、自分たち「男社会」の組織をより強固にし、集団的団結を見せ、その安定が揺れ始めると異分子をつぶしにかかる。ブランドンが女であるとわかった時の、ジョンと仲間たちの行動や心理に似たものは、日本社会でだって、そこかしこで見受けられる。

この不幸な事件から「男らしく生きる」「女らしく生きる」という言葉がどんな影響を与えるのか、どんな概念を生み出すのか、じっくり考えて見る必要があると思う。