Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ディア・ドクター

2009-08-09 | 日本映画(た行)
★★★★☆ 2009年/日本 監督/西川美和
<京都シネマにて観賞>

「誰も知らない」

京都シネマのハコの収容人数が少ないせいもあると思うのだが、この時期でもほぼ満員御礼。関西では絶大な人気を誇る笑福亭鶴瓶主演、過疎地の医療問題というテーマもあってか、中高年の観客が目立つ。加えて、若い映画ファンも集っているため、大ヒットなんだろう。喜ばしいことです。

(ネタバレです。ご注意下さい)

西川監督作品を評する時にもはや定番となっている「グレーゾーン」と言う言葉。善でもなく悪でもない。その間でゆらめく人間性を描けば秀逸だと。なるほど、異論はない。しかし、いざそれらを表現するとなった時、おそらく映画作品としては実に曖昧なものを我々観客は受け取ることになる。それでもなおかつ面白いということが西川作品の持ち味、個性に他ならないのだ。どちらかよくわからないものを見せられて面白いということ。その根底を成すのものこそ、西川監督の演出の手腕だと思う。

人物たちの造形、セリフ、何気ない仕草、そこで煌めく圧倒的なリアリティ。苦し紛れのひと言やはにかんだ笑顔に隠されている本音を我々は、スクリーンからありありと感じ取ることができる。人間なら誰しも感じたことのある、後ろめたさや保身の感情。架空の物語なのに、自分の内面深くひた隠しにしてきたものを針でツンと刺されたような痛みが走る。が、と同時に人間の弱さや情けなさが愛しく迫るのだ。

今回主演を演じている笑福亭鶴瓶。彼自身が本来持っているアクの強さに観賞前は不安になったが、まさに贋医者伊野としてそこに存在していた。惑い、畏れと言った複雑な心理が鶴瓶の顔に何度も現れては消えてゆく。来年からもここで働きたいと若き研修生、相馬(瑛太)に言い寄られたじろぐシーンも秀逸だが、井川遥演じる女医、りつ子を前に一世一代の大博打を打つシーンの緊張感がすばらしい。本物の医者に突き付けるのは「付け焼き刃の知識と嘘のレントゲン」。しかし、彼をそこまで駆り立てるのは、「静かにこの村で死にたい」というかづ子(八千草薫)の懇願。それはふたりにしかわからぬ信頼の元で成立した秘密。投げられたボールを打ち返し続けるしかなくなった男の悲哀とやるせなさが、後半どんどん加速していく。いかにも、鶴瓶が適役であったと駄目押しに合ったのは「お父ちゃんのペンライト、なくしてしもた」と実家に電話するシーン。あの無邪気な子供っぽさは、同年代の熟練俳優ではきっと違和感が出たに違いないだろう。

医者の娘に病状を打ち明けない母。贋医者を本物と慕う研修医。贋医者と知っていながら薬を卸し続ける営業マン。贋医者と勘づきながらも知らんふりをする看護婦。虚実をめぐる、それぞれの人物同士の関わり合い、その配置の妙に唸らされる。伊野が贋医者とわかった後のそれぞれの反応。あれは、手のひら返しなどではないと私は感じた。結局、何を語ろうと、第三者にわかるはずなどないのだ。伊野とそれぞれの人物間に生まれた濃密な関係性は、本人たちにしか分かり合えないものだ。それは「ゆれる」の兄弟の関係性にも通じている。それだけ人間の感情とは複雑なものであり、嘘だとか本当だとか一面的ではない世界だからこそ、誰にも割り込めない関係が生まれるということ。

「なんで贋医者なのに医療行為をしていたんだろうねえ」という警察からの聞き込みに対し、香川照之演じる斎門が突然椅子ごと後方に倒れるシーンはお見事。こうした、様々な含みを映像的な表現でズバッっと示すという才能は、構図的な「見てくれ」のカッコ良さなど軽く超えてしまう。

さて、本作は西川監督自身が「ゆれる」で評価されて、自分はそんなに大した人間じゃないという思いに占められたことが発想の源になっている。つまり伊野は西川監督自身である。そう思いながら見ていたので、あのラストカットには胸がいっぱいになった。これまでの「蛇イチゴ」も「ゆれる」も、観客のイマジネーションを膨らませるすばらしいラストだったが、私は本作のラストカットが一番好きだ。責任を果たすために、愛する人の笑顔を見るために、人は自分の居場所に戻ってくる、ということ。それは、何があろうと私には映画しかない、という西川監督の決意表明のようにも感じられた。個人的にはエッジの効いた「ゆれる」の方が好みではあるが、西川監督にしか描けぬ人間模様を存分に楽しませてもらった。次作も本当に楽しみです。