Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

縛師 Bakushi

2009-08-19 | 日本映画(は行)
★★★★☆ 2007年/日本 監督/廣木隆一
「モノになる、ということ 」

(※人によっては過激な性描写と捉えられるシーンもありますので、観賞の際はご注意ください。)


「我思う、ゆえに我あり」という有名なデカルトの言葉を借りるならば、人間は思考するからこそ人間足りうるということになります。(それを肯定するかどうかは個人の問題ですが)とすると、完全に思考から遠ざかると、人間は人間でなくなる。「死」に近づきます。それが、緊縛されることを欲するということかも知れません。では、限りなく「死」に近づけばどうなるのか。縛られる彼女たちを見るに、そこに待っているものは「恍惚」。結局、とことん「死」に近づくことで己の「生」に目覚める。縛られる女性の苦悶の表情から、死にたくて生きたい、そんな奇妙な命のほとばしりを感じずにはいられません。人間とはややこしい生き物ですね。しかし、完全に思考から解き放たれた彼女たちが少し羨ましくも感じられました。

本作には、3人の緊縛師が登場しますが、有末剛氏は「緊縛は限りない女性への奉仕」と語っています。やはり、SMとはSがMに奉仕してこそ成り立つもの。しかし、縄を解き「ありがとうございました」と深々と頭を下げる女性を見て、その見方もまた一面的だと気づかされる。緊縛師と縛られる女性の間には、性愛にまつわる主客転倒がめまぐるしく起きていて、何とも興味深いのです。「尽くす、尽くされる」「奉仕する、奉仕される」といった関係は、決して対立的なものではなく、ほぼ同意である。それって、「愛する、愛される」にも適用されるのかしら、と思ったり。

静かな座敷でしゅるしゅるっと縄を引く音だけが響く。大変不謹慎な想像で、気を悪くされる方がいたら申し訳ないのですが、「おくりびと」の納棺の儀のシークエンスを思い出しました。そこに「死」の匂いを感じてしまうからでしょうか。黙々と女性を縛っていく様は、厳かな儀式のようです。縛った後にひょいと女性のくるぶしあたりを蹴り、一気に吊り上げる。思わず拍手したくなるような職人技。そして、縄がきつくなるほどに、誰も入り込めぬ濃密なふたりだけの空間が生まれてゆく。粛々と続く儀式的な行為がいつのまにか長い長い性交を見せられているような感覚へと変わっていく。

少し話は反れますが、吊りを主とする縛りは、太り梁を持つ日本家屋の構造があってこそですねえ。しかも、障子越しに木々の緑がそよそよと動いているのが見えたりして。完全な密室ではないゆえに、外への連続性を感じさせます。洋館でボンデージに固めた女性が椅子に縛り付けられている。それも縛りではありますが、やはり東洋と西洋の精神性の違いを感じてしまう。そして、こうした日本家屋がなくなれば、日本式緊縛もできなくなるんだなあ、なんて思いにふけったりして。

「余命1ヶ月の花嫁」でヒットを飛ばした廣木隆一監督ですが、こうしたマニアックな作品も撮り続けているのがいいです。「きみの友だち」は同年公開なんですけど、並行して撮ってたらすごいですね。