【わんちゃんの独り言】

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています
(コメント大歓迎デス・・・・・)

葵祭~フタバアオイ~

2008-05-16 | 折々の花
―『源氏物語』「葵の巻」には、斉院列見物に出かけた葵の上(光源氏の正妻)と六条御息所(光源氏の恋人の一人)が牛車をとめる場所をめぐって争う、通称「車争い」のシーンが記述されています。―

葵祭は賀茂別雷(かもわけいかづち)神社「上賀茂神社」と賀茂御祖(かみみおや)神社「下鴨神社」の例祭です。

千年紀を迎えたあの源氏物語にも描かれた葵祭が15日、京都市内で繰り広げられた。
京都御苑の建礼門を出た、王朝装束に身を包んだ約500人の行列が、私から人垣のはるか向こうを平安時代の優雅な雰囲気を醸し、新緑映える御苑の中を進んで行きます。
行列のあらましは保存会の方が櫓の上からマイクで案内されてる。
が、風向きなどで何をおっしゃってるのかさっぱり・・・どうやら馬上の人はお役人、歩いている人たちは、その御家来衆のよう。





古くは賀茂祭りと呼ばれ、平安中期の宮廷貴族の間では、単に”まつり”といえば、この葵祭のことであるといわれるほど有名であった。

華麗な服(装束)に、美しく飾られた車(牛車、ぎっしゃ)、頭にカモアオイ(フタバアオイ)の葉を挿して、華々しく行われていたパレードですが、やがて中世に入ると、財政難により、華やかさは、だんだんと失われていき、ついには1467年から11年間続いた応仁の乱によって完全に中止となります。
その後、華々しいパレードが再開されたのは、それから二百年以上経った元禄七年(1694)のことであり、この時から『賀茂祭』は『葵祭』と呼ばれるようになりました。

昔、カモアオイの葉を頭に挿して行列した事からこう呼ばれるようになったとも、祭の復興に『葵の御紋』の徳川幕府の多大な援助があったからとも言われています。(葵祭り:裏のお話)

じゃぁ何故に故に葵の葉っぱ(フタバアオイ)なの?
=御所車、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで葵(フタバアオイ)の葉で飾られている=

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お話では、賀茂玉依日売(かもたまよりひめ)が石川の瀬見の小川(糺の森にある)で遊んでいると朱塗りの矢が川上から流れてきた。
これを持ち帰り床の間に飾っておくと、この矢に感じて彼女は妊娠し男の子を生んだ。
父親が誰なのかわからなかった。

この子が成人したときのお祝いの席で盃に映ったのが父親だと言い、父親が誰かと訊ねると、彼は盃の中は誰にも見せず、屋根を突き破って天に昇ってしまった。
そのことから雷の子だと分かったのだという。

天に昇ってしまった我が子を悲しんでいる玉依媛命(たまよりひめのみこと)
に父親の建角身命(たけつぬみのみこと)は「葵を桂の木に結ったのをお供えすると良い」
(葵は“逢ふひ”と呼ばれていたのだと言い伝えられている。)

玉依媛命(たまよりひめのみこと)のもとに戻ってきたのが別雷命(わけいかづちのみこと)であり上賀茂神社に祀られ、玉依媛命(たまよりひめのみこと)とその父親の建角身命(たけつぬみのみこと)は下鴨神社に祀られている。

葵は古くから妊婦のお腹に当てると安産のおまじない、また雷とかの厄除けにも重宝されていたらしい・・・
以上のお話は上賀茂神社関係者さんに直接インタビューしてお答えいただいたお話です。

斎王代を務める村田紫帆(しほ)さん(25)が25年ぶりに新調した十二ひとえに身を包み・・・・

=斎王代=
斎王というのは平安時代に内親王が選ばれて祭りに奉仕したもので、現在は在京の未婚女性から選ばれ斎王代と呼ばれる
このお祭りの中でのハイライトは路頭の儀(行列)でしょう。
そしてそのヒロインはなんと言うても斎王代ですよね・・・


騎女(むなのり おんな)
斎王付の清浄な巫女(神事を司る女)で、騎馬で参向するのでその名がある。

【おまけ】




御苑の杜