大善寺から山道を走り景徳院へ。
景徳院は武田勝頼公の御廟所がある禅寺で、
歴史の一端を感じたいと思います。
所在地:山梨県甲州市大和町田野389
宗派:曹洞宗
御本尊:釈迦如来
創建:天正10年(1583)
開基:徳川家康公
開山:拈橋倀因
札所:甲斐百八霊場
【縁起】
天正10年(1582)3月、甲斐国国主・武田勝頼は、
織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、
甲府から移転した本拠であった新府城を放棄し、
郡内領主・小山田信茂を頼り落ちのびるが、
途中で信茂は離反し天目山において滅亡した。
同年6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て、
甲斐は三河国の徳川家康が領する。
天正壬午の乱において武田遺臣の一部は家康に臣従し、
同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔う為、
田野郷一円を寺領として寄進し勝頼主従が自害したこの地に田野寺を建立し、
ここに勝頼主従を手厚く葬った。
広厳院から武田家臣・小宮山内膳の弟である7世拈橋倀因を招き、
天正16年(1589)には伽藍が完成し天童山景徳院と名を改めている。
江戸時代には住職不在状態となり衰退し、寛永年間(1624-1644)に、
広厳院から住職が招かれ再興されているが、
旧武田氏家臣の幕臣の要求により、下総総寧寺の末寺とされたという。
天保年間(1830-1844)には火災が生じて主要伽藍を焼失し、
弘化2年(1845)、明治27年(1894)の 2度にわたって火災に遭い、
往時の建物は山門が残るのみである。
境内には勝頼主従の墓とその位牌を祀っている甲将殿(影殿)があり、
勝頼父子が自害した所と伝えられている生涯石もある。
【総門】
渋い禅寺らしい総門です。
総門近くに無料駐車場があるらしいが、
見つからないし上にもあると信じて進む。
【石碑】
【山門】
質実剛健といった山門で天保6年(1835)に再建されたもの。
少し上に登った場所にも駐車場がありました。
【仁王像】
【旗竪松】
勝頼公は世子の信勝公が元服を済ませていなかったことから、
急いで陣中にあった楯無の鎧を着せて擐甲の礼を行い、
その際重宝旗を根元に立てたといわれる松だそうです。
【本堂】
本堂は残念ながら閉まっていました。
昭和53年(1978)に再建されたもの。
【鐘楼堂】
【境内】
奥に見えるのが山門です。
【庭園】
本堂裏にありました。
【地蔵堂】
【武田慕情】
こんなのがあるんですね。
you tubeで見たら演歌でした。(笑)
【武田勝頼公生涯石】
この石の上で天正10年自害し生涯を閉じました。
勝頼公は武田家を滅ぼしたこともあって、
個人的には評価はしてませんが、
悲劇の武将であったことは間違いありません。
【北条夫人生涯石】
勝頼公は夫人を北条家に返したかったが、
夫人はこれを断り追従。
最期は懐刀を口に含んで自害されたとされる。
何という壮絶な最期。
夫人の年齢は僅か19歳というから驚く。
戦争はいつの世も残酷なものだ。
【甲将殿】
影堂とも呼ばれる甲将殿には勝頼公の家来の位牌が安置されている、
所謂位牌堂ですね。
【武田勝頼・北条夫人・武田信勝墓石】
甲将殿の裏手に祀られていました。
【没頭地蔵尊】
この地蔵尊は勝頼公、北条夫人、信勝を祀っている地蔵尊ですが、
その全てが首が無く残念なことになっています。
だから没頭地蔵尊と名付けられているのか。
これにて武田家終焉の地である景徳院の参拝終了。
やはりどこか悲しげな雰囲気を感じる境内でした。
庫裏に声をかけることもなくお寺を去ったので、
御朱印はいただいておりません。
書置き対応のみのようです。
景徳院は武田勝頼公の御廟所がある禅寺で、
歴史の一端を感じたいと思います。
所在地:山梨県甲州市大和町田野389
宗派:曹洞宗
御本尊:釈迦如来
創建:天正10年(1583)
開基:徳川家康公
開山:拈橋倀因
札所:甲斐百八霊場
【縁起】
天正10年(1582)3月、甲斐国国主・武田勝頼は、
織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、
甲府から移転した本拠であった新府城を放棄し、
郡内領主・小山田信茂を頼り落ちのびるが、
途中で信茂は離反し天目山において滅亡した。
同年6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て、
甲斐は三河国の徳川家康が領する。
天正壬午の乱において武田遺臣の一部は家康に臣従し、
同年7月に勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔う為、
田野郷一円を寺領として寄進し勝頼主従が自害したこの地に田野寺を建立し、
ここに勝頼主従を手厚く葬った。
広厳院から武田家臣・小宮山内膳の弟である7世拈橋倀因を招き、
天正16年(1589)には伽藍が完成し天童山景徳院と名を改めている。
江戸時代には住職不在状態となり衰退し、寛永年間(1624-1644)に、
広厳院から住職が招かれ再興されているが、
旧武田氏家臣の幕臣の要求により、下総総寧寺の末寺とされたという。
天保年間(1830-1844)には火災が生じて主要伽藍を焼失し、
弘化2年(1845)、明治27年(1894)の 2度にわたって火災に遭い、
往時の建物は山門が残るのみである。
境内には勝頼主従の墓とその位牌を祀っている甲将殿(影殿)があり、
勝頼父子が自害した所と伝えられている生涯石もある。
【総門】
渋い禅寺らしい総門です。
総門近くに無料駐車場があるらしいが、
見つからないし上にもあると信じて進む。
【石碑】
【山門】
質実剛健といった山門で天保6年(1835)に再建されたもの。
少し上に登った場所にも駐車場がありました。
【仁王像】
【旗竪松】
勝頼公は世子の信勝公が元服を済ませていなかったことから、
急いで陣中にあった楯無の鎧を着せて擐甲の礼を行い、
その際重宝旗を根元に立てたといわれる松だそうです。
【本堂】
本堂は残念ながら閉まっていました。
昭和53年(1978)に再建されたもの。
【鐘楼堂】
【境内】
奥に見えるのが山門です。
【庭園】
本堂裏にありました。
【地蔵堂】
【武田慕情】
こんなのがあるんですね。
you tubeで見たら演歌でした。(笑)
【武田勝頼公生涯石】
この石の上で天正10年自害し生涯を閉じました。
勝頼公は武田家を滅ぼしたこともあって、
個人的には評価はしてませんが、
悲劇の武将であったことは間違いありません。
【北条夫人生涯石】
勝頼公は夫人を北条家に返したかったが、
夫人はこれを断り追従。
最期は懐刀を口に含んで自害されたとされる。
何という壮絶な最期。
夫人の年齢は僅か19歳というから驚く。
戦争はいつの世も残酷なものだ。
【甲将殿】
影堂とも呼ばれる甲将殿には勝頼公の家来の位牌が安置されている、
所謂位牌堂ですね。
【武田勝頼・北条夫人・武田信勝墓石】
甲将殿の裏手に祀られていました。
【没頭地蔵尊】
この地蔵尊は勝頼公、北条夫人、信勝を祀っている地蔵尊ですが、
その全てが首が無く残念なことになっています。
だから没頭地蔵尊と名付けられているのか。
これにて武田家終焉の地である景徳院の参拝終了。
やはりどこか悲しげな雰囲気を感じる境内でした。
庫裏に声をかけることもなくお寺を去ったので、
御朱印はいただいておりません。
書置き対応のみのようです。