『切断 ブラック・ダリア殺人事件の真実』ジョン・ギルモア著 沢万里子訳
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先日観た『ゾディアック』と並んでアメリカで最も有名な未解決事件を描いて去年公開された映画『ブラック・ダリア』。
実は当初この映画の監督にはデヴィッド・フィンチャーが予定されていたが、どういう経緯かブライアン・デ・パルマと途中交替している。フィンチャーはその後別の未解決事件を題材に『ゾディアック』を撮りあげた。
ぐりは『ブラック〜』の方は未見です。事前についうっかりレビューを読んで観る気をなくしてしまったのですー。こないだ『ゾディアック』を観て『ブラック〜』を思いだして、そういえばこの事件についてはほとんど何も知らないなと考えついて読んでみた。
ちなみに映画はジェイムズ・エルロイの小説が原作なので基本的にフィクション(エルロイは10歳のとき、パートタイムで売春稼業をしていた母親を何者かに惨殺されるという経験をしている)。今回読んだ『切断』はノンフィクションです。
さて。
ブラック・ダリア事件については映画の公式HPも含めほうぼうで語り尽くされてますが、とりあえず本の内容だけ簡単に説明しときます。
ブラック・ダリアことエリザベス・ショートは、1924年にマサチューセッツの中流家庭の5人姉妹の三女として生まれた。幼いころ大恐慌に巻きこまれた父親が事業に失敗して蒸発、一家は借金を抱えて相当な困窮を強いられたが、厳格でしっかりものの母親は必死に娘たちをきちんとした女の子に育て上げた。
エリザベスは地元では評判の美少女で、デートしたがる相手はひきもきらなかった。やがて彼女は漠然と芸能界に憧れ、有名になりたいと思うようになった。そこへ死んだと思われていた父親から、一家と復縁したいという虫のいい手紙が届く。住所はカリフォルニア。故郷を出ていくいい口実だった。
だが10数年ぶりの父娘の再会は数ヶ月で破綻。両者に親子の情などというものが初めから存在していなかったのが不幸の始まりだった。
もっとエリザベスを不幸にしたのは、彼女が「有名になりたい」という幻をいいわけにして定職に就かずいつまでも自立しようとしないのに、無責任にも同情や下心から彼女に食事や酒や宿や生活費やなんかをほいほいと差し出す輩がごろごろいたことだった。
そのようにして、エリザベスは糸の切れた凧のようにハリウッドやらフロリダやらシカゴやらサンディエゴを、友人から友人へ、宿から宿へとふらふらと渡り歩いた。
女優志望だったのは事実で、演技の指導をうけたこともあったし、ちゃちなモデルのアルバイトをしたこともあった。プロモーション用の写真も撮っている。素人ながら歌も上手だったし、なにより美人でオシャレで垢抜けていて、それ以上に独特に人を惹きつける魅力をもっていた。娼婦まがいの生活をしていたと書く人もいるが、それは正しくない。少なくとも、彼女はセックスの相手から報酬を受取るといった仕事はしていなかった(というか物理的にそれは不可能だった)。毎日のように別の相手とレストランやバーやカフェを徘徊しドライブをし、そのうちの幾人かから不定期的に経済的な援助を受けていたことも事実だが、彼女に戻ってくるあてのない金を貸したのは男たちばかりではなかった。
1947年1月15日の寒い朝、エリザベスはロサンゼルス市内の空き地で全裸の死体で発見された。遺体は腰の部分でふたつに切断され、耳から耳へ口が裂けたように顔を斬られていた。この他に首を絞めた痕や打撲傷のあざ、切り傷が無数にあった。ほぼ完全に血液が抜き取られ、遺体は洗浄されていた。
顔は腫れ上がっていたが指紋が軍の記録に残っており、夢みるような瞳とつややかな黒髪で“ブラック・ダリア”と呼ばれた美人であることがすぐに判明。10日後には犯人と思われる人物が投函した小包からエリザベスの所持品がみつかるが、指紋は出てこなかった。1月9日にビルトモア・ホテルをひとりで出ていくのを目撃されて以降の足取りもまったくわからなかった。
その後、現在に至るまで真犯人は逮捕されていない。
ということになってるけど、この本には実際には真犯人がほぼ特定されてたことが書かれている。
逮捕される前に死んでしまったので「未解決」ということにはなってるけど、著者ギルモアの実父がロサンゼルス市警の警官だったことを考えれば、このニュースソースはじゅうぶん信憑性が高いといえる。
真犯人とされる人物は「ある人から聞いた話」、つまり伝聞のかたちで犯行を微にいり細にわたって告白してるんだけど、これって最近O・J・シンプソンが妻殺しを告白?したときと同じだよね。人格的に未発達な人や、あるいはなんらかのショックで人格が退行した人に現れる症状で、現在の自分と過去の自分が分離してしまい、自分でしたことなのに誰か別の人物の仕業と決めつけて信じこんでしまう。
一方のエリザベスは今から考えたら典型的なアダルト・チルドレンだねこりゃ。
父親の愛情に飢え、4人の姉妹に挟まれて母親の愛情を独占することもできない。ただ美人だというだけで年端もいかない娘をちやほやすることがどれほど教育に悪くても、母親は彼女を世の中からかばいきるには忙し過ぎた。
しかもエリザベスがちょうど花も恥じらう年頃のとき、時代は第二次世界大戦のまっただ中だった。彼女と同じように年端もいかないのに親元を離れていて小銭はもっている愛国青年=出撃前の若い志願兵が繁華街に溢れかえっていた。彼らがいつ最後になるかもしれないデートの相手にこぞってエリザベスを選ぶのに何の不思議があろうか。「国のために命をかけて戦う若者に優しくしてあげるワタシ」という自画像に酔わない娘もそうはいなかったのではないだろうか。おまけに婚約者が軍務中の事故で死ぬなんとゆー悲劇までくっついている。決定的。
要するに、親の監督がいささかゆるんだ娘が、その日限りの刹那的な恋愛ゲームに取り憑かれ身を持ち崩すのに、時代がしっかりとお膳だてしてくれていたということだ。
この本を読んでも、事件のどこがそれほど特異なのかは正直な話よくはわからない。
確かに遺体発見時の状況は猟奇的かもしれないけど、エリザベス自身は特別な被害者といえるほどの女性ではなかったし、結果論からいえば真犯人もだいたいわかっている。謎とかミステリーとかいうほどのことははっきりいってあまりない。
エリザベスには女優になる見込みがまるでなかったわけではない。殺されるべくして殺されたというほどのことも何もしていない。この本には生前エリザベスと交流のあった人々が大勢登場するが、彼らの目にはエリザベスは一様に─真犯人を除いて─「依存心が強く目的意識や自立心に欠けていて、何かというと他愛もない嘘をつくという些細な欠点はあるものの、そんな危うさも魅惑的な若い美貌の女性」としかみえていなかった。
ごく乱暴にいえば、不運な女がたまたまめぐりあった異常者に殺されただけの事件でしかない、ということもできるのだ。
それなのに事件が伝説化しているのは、ひとつには事件が当時全米の新聞業界を席巻していた、センセーショナルでスキャンダラスな報道合戦による熾烈な部数争い─すなわち悪名高きイエロー・ジャーナリズムの格好の餌食になってしまったことと、第二次世界大戦直後、アメリカの犯罪捜査方法が近代化する過渡期に起きたという時代性によるものではないだろうか。
もしかしたら、「もしかしたらエリザベスを助けられたかもしれないのに」というアメリカ人の良心の呵責が、事件を忘れられないものにしているのかもしれない。
かもしれない。
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先日観た『ゾディアック』と並んでアメリカで最も有名な未解決事件を描いて去年公開された映画『ブラック・ダリア』。
実は当初この映画の監督にはデヴィッド・フィンチャーが予定されていたが、どういう経緯かブライアン・デ・パルマと途中交替している。フィンチャーはその後別の未解決事件を題材に『ゾディアック』を撮りあげた。
ぐりは『ブラック〜』の方は未見です。事前についうっかりレビューを読んで観る気をなくしてしまったのですー。こないだ『ゾディアック』を観て『ブラック〜』を思いだして、そういえばこの事件についてはほとんど何も知らないなと考えついて読んでみた。
ちなみに映画はジェイムズ・エルロイの小説が原作なので基本的にフィクション(エルロイは10歳のとき、パートタイムで売春稼業をしていた母親を何者かに惨殺されるという経験をしている)。今回読んだ『切断』はノンフィクションです。
さて。
ブラック・ダリア事件については映画の公式HPも含めほうぼうで語り尽くされてますが、とりあえず本の内容だけ簡単に説明しときます。
ブラック・ダリアことエリザベス・ショートは、1924年にマサチューセッツの中流家庭の5人姉妹の三女として生まれた。幼いころ大恐慌に巻きこまれた父親が事業に失敗して蒸発、一家は借金を抱えて相当な困窮を強いられたが、厳格でしっかりものの母親は必死に娘たちをきちんとした女の子に育て上げた。
エリザベスは地元では評判の美少女で、デートしたがる相手はひきもきらなかった。やがて彼女は漠然と芸能界に憧れ、有名になりたいと思うようになった。そこへ死んだと思われていた父親から、一家と復縁したいという虫のいい手紙が届く。住所はカリフォルニア。故郷を出ていくいい口実だった。
だが10数年ぶりの父娘の再会は数ヶ月で破綻。両者に親子の情などというものが初めから存在していなかったのが不幸の始まりだった。
もっとエリザベスを不幸にしたのは、彼女が「有名になりたい」という幻をいいわけにして定職に就かずいつまでも自立しようとしないのに、無責任にも同情や下心から彼女に食事や酒や宿や生活費やなんかをほいほいと差し出す輩がごろごろいたことだった。
そのようにして、エリザベスは糸の切れた凧のようにハリウッドやらフロリダやらシカゴやらサンディエゴを、友人から友人へ、宿から宿へとふらふらと渡り歩いた。
女優志望だったのは事実で、演技の指導をうけたこともあったし、ちゃちなモデルのアルバイトをしたこともあった。プロモーション用の写真も撮っている。素人ながら歌も上手だったし、なにより美人でオシャレで垢抜けていて、それ以上に独特に人を惹きつける魅力をもっていた。娼婦まがいの生活をしていたと書く人もいるが、それは正しくない。少なくとも、彼女はセックスの相手から報酬を受取るといった仕事はしていなかった(というか物理的にそれは不可能だった)。毎日のように別の相手とレストランやバーやカフェを徘徊しドライブをし、そのうちの幾人かから不定期的に経済的な援助を受けていたことも事実だが、彼女に戻ってくるあてのない金を貸したのは男たちばかりではなかった。
1947年1月15日の寒い朝、エリザベスはロサンゼルス市内の空き地で全裸の死体で発見された。遺体は腰の部分でふたつに切断され、耳から耳へ口が裂けたように顔を斬られていた。この他に首を絞めた痕や打撲傷のあざ、切り傷が無数にあった。ほぼ完全に血液が抜き取られ、遺体は洗浄されていた。
顔は腫れ上がっていたが指紋が軍の記録に残っており、夢みるような瞳とつややかな黒髪で“ブラック・ダリア”と呼ばれた美人であることがすぐに判明。10日後には犯人と思われる人物が投函した小包からエリザベスの所持品がみつかるが、指紋は出てこなかった。1月9日にビルトモア・ホテルをひとりで出ていくのを目撃されて以降の足取りもまったくわからなかった。
その後、現在に至るまで真犯人は逮捕されていない。
ということになってるけど、この本には実際には真犯人がほぼ特定されてたことが書かれている。
逮捕される前に死んでしまったので「未解決」ということにはなってるけど、著者ギルモアの実父がロサンゼルス市警の警官だったことを考えれば、このニュースソースはじゅうぶん信憑性が高いといえる。
真犯人とされる人物は「ある人から聞いた話」、つまり伝聞のかたちで犯行を微にいり細にわたって告白してるんだけど、これって最近O・J・シンプソンが妻殺しを告白?したときと同じだよね。人格的に未発達な人や、あるいはなんらかのショックで人格が退行した人に現れる症状で、現在の自分と過去の自分が分離してしまい、自分でしたことなのに誰か別の人物の仕業と決めつけて信じこんでしまう。
一方のエリザベスは今から考えたら典型的なアダルト・チルドレンだねこりゃ。
父親の愛情に飢え、4人の姉妹に挟まれて母親の愛情を独占することもできない。ただ美人だというだけで年端もいかない娘をちやほやすることがどれほど教育に悪くても、母親は彼女を世の中からかばいきるには忙し過ぎた。
しかもエリザベスがちょうど花も恥じらう年頃のとき、時代は第二次世界大戦のまっただ中だった。彼女と同じように年端もいかないのに親元を離れていて小銭はもっている愛国青年=出撃前の若い志願兵が繁華街に溢れかえっていた。彼らがいつ最後になるかもしれないデートの相手にこぞってエリザベスを選ぶのに何の不思議があろうか。「国のために命をかけて戦う若者に優しくしてあげるワタシ」という自画像に酔わない娘もそうはいなかったのではないだろうか。おまけに婚約者が軍務中の事故で死ぬなんとゆー悲劇までくっついている。決定的。
要するに、親の監督がいささかゆるんだ娘が、その日限りの刹那的な恋愛ゲームに取り憑かれ身を持ち崩すのに、時代がしっかりとお膳だてしてくれていたということだ。
この本を読んでも、事件のどこがそれほど特異なのかは正直な話よくはわからない。
確かに遺体発見時の状況は猟奇的かもしれないけど、エリザベス自身は特別な被害者といえるほどの女性ではなかったし、結果論からいえば真犯人もだいたいわかっている。謎とかミステリーとかいうほどのことははっきりいってあまりない。
エリザベスには女優になる見込みがまるでなかったわけではない。殺されるべくして殺されたというほどのことも何もしていない。この本には生前エリザベスと交流のあった人々が大勢登場するが、彼らの目にはエリザベスは一様に─真犯人を除いて─「依存心が強く目的意識や自立心に欠けていて、何かというと他愛もない嘘をつくという些細な欠点はあるものの、そんな危うさも魅惑的な若い美貌の女性」としかみえていなかった。
ごく乱暴にいえば、不運な女がたまたまめぐりあった異常者に殺されただけの事件でしかない、ということもできるのだ。
それなのに事件が伝説化しているのは、ひとつには事件が当時全米の新聞業界を席巻していた、センセーショナルでスキャンダラスな報道合戦による熾烈な部数争い─すなわち悪名高きイエロー・ジャーナリズムの格好の餌食になってしまったことと、第二次世界大戦直後、アメリカの犯罪捜査方法が近代化する過渡期に起きたという時代性によるものではないだろうか。
もしかしたら、「もしかしたらエリザベスを助けられたかもしれないのに」というアメリカ人の良心の呵責が、事件を忘れられないものにしているのかもしれない。
かもしれない。