『夏の黄昏』カーソン・マッカラーズ著 加島祥造訳
『悲しき酒場の唄』カーソン・マッカラーズ著 西田実訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4828831703&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
先に読んだのは『悲しき〜』の方。表題の長篇(というか中編)の他にごく短い短編が3本所収。にしてもこの訳どーよ。酒場って今どきいわないでしょーよ。カフェでいいじゃん(原文はcafe)。時代や舞台背景を意識し過ぎなのか、全体に文体が古くさくてガチガチにカタイ。読んでて肩こってしょーがなかったです。
だから同じ著者でももっとニュートラルな訳になってる『〜黄昏』の方が全然読みやすかった。レビューをまとめたのはそのためですー。てゆーかただの不精だけど。
ぐりはマッカラーズのデビュー作で代表作『心は孤独な狩人』は読んでないし映画(邦題『愛すれど心さびしく』)も観てないです。機会があったら是非一度観てみたいし読んでみたいけど。
マッカラーズはジョージア州出身。んでゲイ(バイだっけ?)。とゆーと。そーです。カポーティ。南部出身のゲイの小説家で早熟な天才。
作風も似てます。題材も似てるし。主人公は女の子/女の人ってとこが違うけど、世界観とかテーマはかなり近いです。双子ってほどではないけど、よく似たいとこ程度には似てる。どちらもゴシックでユーモラスで、どこか物悲しい。
舞台は『悲しき〜』も『〜黄昏』も南部の田舎町。
『〜黄昏』の主人公は12歳のフランキーという女の子で、兄の結婚式を目前に、思春期の終わりを迎えようとしている。
『悲しき〜』のヒロインは20代のミス・アメリア。唯一の身寄りである父親を亡くし、結婚に失敗し、ひとりでドラッグストアや醸造所をきりもりしている女丈夫。
たぶんふたりとも筆者マッカラーズの分身で、町は彼女の故郷がモデルになっている。貧しくて保守的で閉鎖的な、誰もが捨てて出ていきたくなるような町なのに、出ていく手だてさえ何もないような町。
マッカラーズはおそらく、少女時代を過ごした町を激しく憎悪しつつも完全に捨て去ることはできなかったのだろう。そんな複雑な感情が作中に満々とみなぎっている。
気持ちはわかる。ぐりも子どものころ、故郷の町が大嫌いだった。物心ついたときには、町はぐりにとっては文字通り「カス」だった。とにかく一刻も早くこんなもの捨てて、どこへでもいいからとっとと逃げ出したいと真剣に思い続けていた。離れて十数年経った今は、好きでも嫌いでもない代り何の思い入れもないけれど。
なぜそれほどまでに故郷が憎いのか。
そこでの自分が孤独だったからだ。
人間の自我は、「自分はひとりだ」と気づくことから形成が始まる。生まれたての赤ん坊は自分がひとりの人間だということを知らない。それは母親がそばにいないことがすなわち生命の危機につながるからで、その段階では「自我」は邪魔だから存在していない。
成長するにつれて「自我」も発達していくわけだけど、まだ子どものうちは「自分はひとりだ」ということには気づかない。子どもは家族や学校など環境の一部として自分を認識している。だんだん「自我」が完成して来て、ある日ふと「自分はひとりだ」と感じる。
おとうさんもおかあさんも仲良しの友だちも、人はみんな自分と他人は別の人間で、自分が感じていること、考えていることをすべて共有することはできない。決してわかってもらえないこともある。すぐそばにいて手を触れることはできるのに、互いの間には厚い壁があることに、人はそこで初めて気づく。
そのことを知った時に、人は「大人」になるんじゃないかとぐりは思う。
そして、決してわかってもらえなくても、すべてを共有できなくても、わかろうとつとめ、わかちあうため、歩みよるためにがんばるのが生きる幸せなのだということがわかれば、人はもう一歩、大人に近づく。
そのふたつのプロセスの間が長ければ長いほど、子どもは孤独になる。自分がひとりぼっちだということはわかっていて、みんなもひとりぼっちだということがわからないから。
『〜黄昏』のフランキーは12歳の夏の日、「自分はひとりだ」ということに気づく。どこにも属していない自分。ひょろひょろに背ばかり伸びた髪の短い女の子。同年代の女の子たちと仲良くなれず、家政婦のベレニスや6歳の従弟ジョン・ヘンリとおしゃべりばかりしている。
けどいつまでもそうしてはいられない。どうにかしなくては。そうだ、町を出ていこう。出ていけばなんとかなる。壁の向こうの新世界。
もうものすごくわかる。まるで自分の思春期の話を読んでいるような気がしてしょうがない。誰かと繋がっていたいのに、誰ともうまく繋がれなくて、それでいて何もかも放り出して遠くにいってしまいたい、誰にもこんな気持ちわかってもらえっこない、でも誰でもいいからわかってほしい、ぐりも12歳のころまさにそう思っていた。せつないなあ。
ミス・アメリアは結婚に失敗してからずっと自分の殻に閉じこもっていたけど、ある時、会ったこともない親戚が訪ねて来て家に居候するようになってから一変する。
彼女はいとこのライマンに尽くして尽くして尽くしまくる。尽くす相手がいることで癒されている。彼女が不幸だったのは、誰かを愛する方法は知っていても愛される方法をまったく知らなかったからだ。
傍目には滑稽かもしれないけど、これほど寂しいこともない。孤独が彼女をそこまで頑なにしてしまったのか、あるいは頑なだからこそ孤独になったのか。いずれにせよ、彼女は孤独なのは自分ひとりだと思っていたのではないだろうか。人はみんな孤独な存在で、孤独を互いに慰めあうのが愛だということは知らなかったのではないだろうか。
『悲しき〜』は全体に幻想的で寓話的でもあるけど、全体に漂う絶望的な孤独感は、ものすごくリアルで、怖い。
マッカラーズは同じ男性(この人もバイ)と2度結婚し、2度めの結婚生活の間に自殺されてしまう。後年、病気で半身麻痺になり指一本で原稿をタイプしていたという。そのせいもあってどちらかといえば寡作な作家だ。長篇はこの2作とデビュー作以外に1本、全部で4本しか書いていない。
残りの1本はこれから読みます。
『悲しき酒場の唄』カーソン・マッカラーズ著 西田実訳
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先に読んだのは『悲しき〜』の方。表題の長篇(というか中編)の他にごく短い短編が3本所収。にしてもこの訳どーよ。酒場って今どきいわないでしょーよ。カフェでいいじゃん(原文はcafe)。時代や舞台背景を意識し過ぎなのか、全体に文体が古くさくてガチガチにカタイ。読んでて肩こってしょーがなかったです。
だから同じ著者でももっとニュートラルな訳になってる『〜黄昏』の方が全然読みやすかった。レビューをまとめたのはそのためですー。てゆーかただの不精だけど。
ぐりはマッカラーズのデビュー作で代表作『心は孤独な狩人』は読んでないし映画(邦題『愛すれど心さびしく』)も観てないです。機会があったら是非一度観てみたいし読んでみたいけど。
マッカラーズはジョージア州出身。んでゲイ(バイだっけ?)。とゆーと。そーです。カポーティ。南部出身のゲイの小説家で早熟な天才。
作風も似てます。題材も似てるし。主人公は女の子/女の人ってとこが違うけど、世界観とかテーマはかなり近いです。双子ってほどではないけど、よく似たいとこ程度には似てる。どちらもゴシックでユーモラスで、どこか物悲しい。
舞台は『悲しき〜』も『〜黄昏』も南部の田舎町。
『〜黄昏』の主人公は12歳のフランキーという女の子で、兄の結婚式を目前に、思春期の終わりを迎えようとしている。
『悲しき〜』のヒロインは20代のミス・アメリア。唯一の身寄りである父親を亡くし、結婚に失敗し、ひとりでドラッグストアや醸造所をきりもりしている女丈夫。
たぶんふたりとも筆者マッカラーズの分身で、町は彼女の故郷がモデルになっている。貧しくて保守的で閉鎖的な、誰もが捨てて出ていきたくなるような町なのに、出ていく手だてさえ何もないような町。
マッカラーズはおそらく、少女時代を過ごした町を激しく憎悪しつつも完全に捨て去ることはできなかったのだろう。そんな複雑な感情が作中に満々とみなぎっている。
気持ちはわかる。ぐりも子どものころ、故郷の町が大嫌いだった。物心ついたときには、町はぐりにとっては文字通り「カス」だった。とにかく一刻も早くこんなもの捨てて、どこへでもいいからとっとと逃げ出したいと真剣に思い続けていた。離れて十数年経った今は、好きでも嫌いでもない代り何の思い入れもないけれど。
なぜそれほどまでに故郷が憎いのか。
そこでの自分が孤独だったからだ。
人間の自我は、「自分はひとりだ」と気づくことから形成が始まる。生まれたての赤ん坊は自分がひとりの人間だということを知らない。それは母親がそばにいないことがすなわち生命の危機につながるからで、その段階では「自我」は邪魔だから存在していない。
成長するにつれて「自我」も発達していくわけだけど、まだ子どものうちは「自分はひとりだ」ということには気づかない。子どもは家族や学校など環境の一部として自分を認識している。だんだん「自我」が完成して来て、ある日ふと「自分はひとりだ」と感じる。
おとうさんもおかあさんも仲良しの友だちも、人はみんな自分と他人は別の人間で、自分が感じていること、考えていることをすべて共有することはできない。決してわかってもらえないこともある。すぐそばにいて手を触れることはできるのに、互いの間には厚い壁があることに、人はそこで初めて気づく。
そのことを知った時に、人は「大人」になるんじゃないかとぐりは思う。
そして、決してわかってもらえなくても、すべてを共有できなくても、わかろうとつとめ、わかちあうため、歩みよるためにがんばるのが生きる幸せなのだということがわかれば、人はもう一歩、大人に近づく。
そのふたつのプロセスの間が長ければ長いほど、子どもは孤独になる。自分がひとりぼっちだということはわかっていて、みんなもひとりぼっちだということがわからないから。
『〜黄昏』のフランキーは12歳の夏の日、「自分はひとりだ」ということに気づく。どこにも属していない自分。ひょろひょろに背ばかり伸びた髪の短い女の子。同年代の女の子たちと仲良くなれず、家政婦のベレニスや6歳の従弟ジョン・ヘンリとおしゃべりばかりしている。
けどいつまでもそうしてはいられない。どうにかしなくては。そうだ、町を出ていこう。出ていけばなんとかなる。壁の向こうの新世界。
もうものすごくわかる。まるで自分の思春期の話を読んでいるような気がしてしょうがない。誰かと繋がっていたいのに、誰ともうまく繋がれなくて、それでいて何もかも放り出して遠くにいってしまいたい、誰にもこんな気持ちわかってもらえっこない、でも誰でもいいからわかってほしい、ぐりも12歳のころまさにそう思っていた。せつないなあ。
ミス・アメリアは結婚に失敗してからずっと自分の殻に閉じこもっていたけど、ある時、会ったこともない親戚が訪ねて来て家に居候するようになってから一変する。
彼女はいとこのライマンに尽くして尽くして尽くしまくる。尽くす相手がいることで癒されている。彼女が不幸だったのは、誰かを愛する方法は知っていても愛される方法をまったく知らなかったからだ。
傍目には滑稽かもしれないけど、これほど寂しいこともない。孤独が彼女をそこまで頑なにしてしまったのか、あるいは頑なだからこそ孤独になったのか。いずれにせよ、彼女は孤独なのは自分ひとりだと思っていたのではないだろうか。人はみんな孤独な存在で、孤独を互いに慰めあうのが愛だということは知らなかったのではないだろうか。
『悲しき〜』は全体に幻想的で寓話的でもあるけど、全体に漂う絶望的な孤独感は、ものすごくリアルで、怖い。
マッカラーズは同じ男性(この人もバイ)と2度結婚し、2度めの結婚生活の間に自殺されてしまう。後年、病気で半身麻痺になり指一本で原稿をタイプしていたという。そのせいもあってどちらかといえば寡作な作家だ。長篇はこの2作とデビュー作以外に1本、全部で4本しか書いていない。
残りの1本はこれから読みます。