落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

フェアリー・テイル

2008年05月06日 | book
『コティングリー妖精事件』 ジョー・クーパー著 井村君江訳
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コティングリー妖精事件(ウィキぺディア)とは、第一次世界大戦下のイギリスで16歳と10歳の少女たちが撮影した妖精の写真を、1920年にコナン・ドイルが「本物」として雑誌に発表したことに端を発する長い妖精論争のこと。
ぐりが一連の妖精写真を初めて目にしたのは小学校3年生のころ、従姉が持っていたオカルト本に掲載されていたものだと思う。写真についていたキャプションには論争のことは触れられていなかったものの、ひとめ見て「不自然な写真だな」という印象を持ったのを覚えている。
だからといってこれを撮ったフランシスとエルシーが、大人をからかおうとか誰かをかつごうとか、そういった何らかの意図をもってこんなものをでっちあげたのだとは思わなかったし、今もその気持ちに変わりはない。おそらく彼女たちは、自ら信じる妖精の存在を、誰でもいいから誰かと共有してみたかっただけなのではないだろうか。そういう少女時代独特の心持ちにはとても共感できる。

しかし、小学生でさえ一見してトリック写真だとわかるようなちゃちな写真を、なぜ文豪コナン・ドイルは「本物」だと認め、死ぬまで主張をまげなかったのだろうか。
そしてもっと不思議なのは、この写真が60年以上にもわたる長い論争を巻き起した事実の方である。
簡単にいってしまえば少女たち本人がなかなか真実を告白しなかったからということになるが、ぐりはそれだけではないと思う。
もともとこの写真が世に出たころ、イギリスでは神秘主義が一種のブームになっていて、コナン・ドイルも心霊学の研究者のひとりだった。人間は自分でこうと信じたいようにしかモノを見ない生き物である。ドイルにとってはこの写真は「本物」でなくてはならなかったのだろう。
その当時のイギリスでもこの写真を「本物」だと頭から認めた人はそれほど多くはなかったらしい。それを文豪が「本物」と主張したから、ムダに話がおもしろくなってしまったのだ。

この本では、ふたりの少女が写真を撮った経緯からそれが公になり、以来80年代に彼女たちが亡くなるまで続いたすったもんだを、生前の関係者たち本人に取材した研究者の手でまとめてある。
全体にやや文体がかたく、描写が丁寧すぎて読みづらいところの多い本だった。またこれは意図してボカしてあるのだろうが、著者本人の見解がもうひとつ明確でなく、やけに持って回った表現がめだつわりに勘違いな偏見が不用意にぶつけてあったり、いったいこの人は何をいいたいの?とゆー本筋の部分がよくわからない。
けどまあ本の出来不出来はべつとしても、「最も多くの人々を最も長い間騙したトリック写真」としてギネスブックにまで載ってしまったジョークの顛末を知るうえでは、非常に勉強にはなる資料だとは思う。

フランシスは最期まで、5枚のうちの1枚だけは本物だと主張しつづけたまま亡くなった。
ぐりにとっては正直な話どちらでもいい。写真が本物でもトリックでも、それが妖精の不在を決定的に証拠づけることにはならないからだ。
たとえ写真に写らなくても、妖精は存在する。神や霊魂が存在するように、おそらく人は、永遠に「目に見えない何か」「人知の及ばない世界」の力を否定することはできないのではないだろうか。もしそれを否定してしまったら、人間の傲慢を留めるものがなくなってしまうのではないだろうか。
それに、世の中、人間がわからないものもちょっとくらいあった方がおもしろいしね。


コガネメキシコインコ。掛川花鳥園にて。

今日のLTLライブはオナン・スペルマーメイドシモーヌ深雪。楽しかったー。展示もなかなかおもしろかったです。
クラブって空気悪いせいかいつもすぐ気分が悪くなるんだけど(我慢できないほどではない。最近もしかして閉所恐怖のケがあるのかも?とか思ってたり)、今日は若干客も少なめでラクでした。