『停電の夜に』 ジュンパ・ラヒリ著 小川高義訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4102142118&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
以前、自主制作で20代後半のカップルを描いた短編映画を撮ったことがある。
結婚して2年め、夫婦仲はよいのだが妻の方が結婚前からある問題を抱えており、夫が「妻の意志を尊重する」という名目でその解決を先延ばしにしていたのだが、あることをきっかけに夫が一念発起、夕餉の席でその話題を持ち出して言い争いになる。
シナリオの準備稿を書いたのは共同制作者だったのだが、何度改稿してもクライマックスの食事シーンの会話がしっくりこない。覚えている限りでは7〜8回以上は書き直したはずだが、とうとうこれという決定稿が完成する前にクランクインの日が来てしまった。
撮影中もあれこれと知恵を絞り続け、ついにそのシーンの撮影前日になって突然、「停電にしよう」と思いついた。急に、まるで古いマンガのひとこまのように、頭上にぱっと電球つくみたいに「停電」というアイデアが浮かんだのだ。
設定では夫婦は結婚前からそのことについてずっと話しあって来たことになっている。それなら、ある日いきなり夫がその気になったからといって、一夜のやりとりできれいさっぱりと問題がかたづくわけがない。かたづける必要もない。そんな不毛な会話を延々続けるよりは、暗闇の中で夫婦の絆を確かめあう、あたたかな会話に転換させるのもひとつの表現方法だと思った。
このアイデアはスタッフにもキャストにも評判がよくて、時間がなかったこともあって停電中の会話は夫婦役の俳優にアドリブで考えてもらった。話題は結婚前のこと。撮影はうまくいった。
『停電の夜に』は映画『その名にちなんで』の原作者ジュンパ・ラヒリの短編集だが、同じ作者だということは読み始めてから気がついた(遅)。『その名に〜』の方は読んでないけど。この本はいつもお邪魔してるブログjazz lifeでレビューを読んで手にとりました。
ラヒリはロンドン生まれでアメリカ育ちのベンガル人。『その名に〜』にも登場した“アメリカのベンガル人”である。ここに収録された9編中6編はアメリカを舞台に当地に暮すインド人を描いたもので、残りの3編はインドを舞台にしている。3編のうちの「病気の通訳」も主人公を除く主な登場人物はアメリカに住むインド人。あるいは彼女にとって、インド人が遠く故郷を離れ地球の反対側で生きるということ自体が、小説を書くことの動機そのものなのかもしれない。
9編すべての題材が結婚と結婚生活。中には具体的には描かれないものもあるが、登場するカップルのほとんどがお見合いで同じインド人と結婚している。アメリカ国内でお見合いをして結婚したインド人もいれば、故郷の縁者が世話して花嫁が海を越える場合もある。でもとにかくとりあえず、すべからくインド人はインド人と結婚する。出身カーストのチェックも怠りない。結婚式はヒンズー教のしきたり通りに行われ、毎日の食卓にはインド料理が出される。どこに住んでいてもインド人はインド人でありつづけることが、プライドがとか民族意識がとかそういう理屈を抜きにして当り前の感覚として描かれている。
彼らの生活習慣はもしかすると移民文化に馴染みのない日本人にとってはやや奇異にうつるかもしれない。日本には郷にいれば郷に従えという言葉があるし、昨今もKYなんて言葉が流行ってるけど、絶対というものはこの世に存在しない。例え見ず知らずの他人と結婚しようと、毎日民族衣装を着て暮していようと、何世代も超えて最終的にその地に馴染んでいけばそれでいいと彼らは思っているのかもしれない。逃げたり隠れたりしなくても、自然のなりゆきのままにしていればなるようになる。そういう考え方もアリはアリだし、ぐりは好きだ。
そんなふうにインド人たるアイデンティティをどれだけ厳格に守っていても、異国で暮すことの孤独感はどうしようもない。
夫がいても、妻がいても、人は結局ひとりなのだ。そこはインド人だろうが何人だろうが関係ない。家族がいればとか、愛しあっていればとか、そういうありきたりの設定で何もかもがきれいに片づいたりはしない。おそらく、インドとアメリカの距離は、そうした人の孤独さ、宿命のような淋しさの象徴のようなものなのだろう。
それにしても登場人物たちのインドへの愛の深さ、インド人同士の結びつきの強さは読んでいてしみじみと心があたたまる。ぐりにはインド人の知りあいはいないんだけど、インド人はみんなこういうもんなのだろーか?どーでしょー?
女流作家らしく作中においしそうなインド料理やスナックの描写がたくさん出て来て、ひさびさにインドカレーが食べたくなりました。インド料理っておいしいよね。大好きです。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4102142118&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
以前、自主制作で20代後半のカップルを描いた短編映画を撮ったことがある。
結婚して2年め、夫婦仲はよいのだが妻の方が結婚前からある問題を抱えており、夫が「妻の意志を尊重する」という名目でその解決を先延ばしにしていたのだが、あることをきっかけに夫が一念発起、夕餉の席でその話題を持ち出して言い争いになる。
シナリオの準備稿を書いたのは共同制作者だったのだが、何度改稿してもクライマックスの食事シーンの会話がしっくりこない。覚えている限りでは7〜8回以上は書き直したはずだが、とうとうこれという決定稿が完成する前にクランクインの日が来てしまった。
撮影中もあれこれと知恵を絞り続け、ついにそのシーンの撮影前日になって突然、「停電にしよう」と思いついた。急に、まるで古いマンガのひとこまのように、頭上にぱっと電球つくみたいに「停電」というアイデアが浮かんだのだ。
設定では夫婦は結婚前からそのことについてずっと話しあって来たことになっている。それなら、ある日いきなり夫がその気になったからといって、一夜のやりとりできれいさっぱりと問題がかたづくわけがない。かたづける必要もない。そんな不毛な会話を延々続けるよりは、暗闇の中で夫婦の絆を確かめあう、あたたかな会話に転換させるのもひとつの表現方法だと思った。
このアイデアはスタッフにもキャストにも評判がよくて、時間がなかったこともあって停電中の会話は夫婦役の俳優にアドリブで考えてもらった。話題は結婚前のこと。撮影はうまくいった。
『停電の夜に』は映画『その名にちなんで』の原作者ジュンパ・ラヒリの短編集だが、同じ作者だということは読み始めてから気がついた(遅)。『その名に〜』の方は読んでないけど。この本はいつもお邪魔してるブログjazz lifeでレビューを読んで手にとりました。
ラヒリはロンドン生まれでアメリカ育ちのベンガル人。『その名に〜』にも登場した“アメリカのベンガル人”である。ここに収録された9編中6編はアメリカを舞台に当地に暮すインド人を描いたもので、残りの3編はインドを舞台にしている。3編のうちの「病気の通訳」も主人公を除く主な登場人物はアメリカに住むインド人。あるいは彼女にとって、インド人が遠く故郷を離れ地球の反対側で生きるということ自体が、小説を書くことの動機そのものなのかもしれない。
9編すべての題材が結婚と結婚生活。中には具体的には描かれないものもあるが、登場するカップルのほとんどがお見合いで同じインド人と結婚している。アメリカ国内でお見合いをして結婚したインド人もいれば、故郷の縁者が世話して花嫁が海を越える場合もある。でもとにかくとりあえず、すべからくインド人はインド人と結婚する。出身カーストのチェックも怠りない。結婚式はヒンズー教のしきたり通りに行われ、毎日の食卓にはインド料理が出される。どこに住んでいてもインド人はインド人でありつづけることが、プライドがとか民族意識がとかそういう理屈を抜きにして当り前の感覚として描かれている。
彼らの生活習慣はもしかすると移民文化に馴染みのない日本人にとってはやや奇異にうつるかもしれない。日本には郷にいれば郷に従えという言葉があるし、昨今もKYなんて言葉が流行ってるけど、絶対というものはこの世に存在しない。例え見ず知らずの他人と結婚しようと、毎日民族衣装を着て暮していようと、何世代も超えて最終的にその地に馴染んでいけばそれでいいと彼らは思っているのかもしれない。逃げたり隠れたりしなくても、自然のなりゆきのままにしていればなるようになる。そういう考え方もアリはアリだし、ぐりは好きだ。
そんなふうにインド人たるアイデンティティをどれだけ厳格に守っていても、異国で暮すことの孤独感はどうしようもない。
夫がいても、妻がいても、人は結局ひとりなのだ。そこはインド人だろうが何人だろうが関係ない。家族がいればとか、愛しあっていればとか、そういうありきたりの設定で何もかもがきれいに片づいたりはしない。おそらく、インドとアメリカの距離は、そうした人の孤独さ、宿命のような淋しさの象徴のようなものなのだろう。
それにしても登場人物たちのインドへの愛の深さ、インド人同士の結びつきの強さは読んでいてしみじみと心があたたまる。ぐりにはインド人の知りあいはいないんだけど、インド人はみんなこういうもんなのだろーか?どーでしょー?
女流作家らしく作中においしそうなインド料理やスナックの描写がたくさん出て来て、ひさびさにインドカレーが食べたくなりました。インド料理っておいしいよね。大好きです。