落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

セックスとカネと国の話

2010年03月19日 | book
『「夜のオンナ」の経済白書―世界同時不況と「夜のビジネス」』 門倉貴史著

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えー。おもろかったです。ふつーに。
読んだのはもう1週間前なんで、既にけっこー忘れちゃってるんですが(爆)。だって内容薄いんだもん・・・量的にもかなり軽めだし、誰にでも読みやすくて、読めばなんとなく「ふ~ん」ってわかった気にはなれる、そーゆー感じ?
まあね、それなりにちゃんと調べてるんだろーし、視点もパートによって多面的に変化をつけてあるし、読み物としてはすごくおもしろいんだよね。それは認める。この人、毎月のよーに経済関係の本(お手軽系)をぼんぼん出しまくって、テレビやら雑誌やら出まくって講演しまくってる、かなり人気のある若手コラムニストなんだそーですがー。失礼ながらぐりはよう知らんかったんですけども。つまり儲かってるわけよ。おりこうさんなワケ。

だけどたぶん、ぐりはこの彼とはとてもお友だちにはなれないだろーな、って気がする。
べつにぐりのアタマがよろしくないからひがんでるワケじゃなくて(当り前。負け惜しみではない)、なんとなくなんだけど、そこはかとなく、文章の端々に、「この人はなんだか気取ったよーなアタマよさそーなふうを装ってるみたいだけど、実際はすごーくお下品な人なんではなかろーか?」という空気が臭ってきてしまうんですー。
ぐり自身は下品も趣味のうちだと思ってるけど、いやなのは、下品じゃないふうを装ってて実は下品、ってのがヤなんだよね。生理的に受けつけない。
この本でいうと、この著者はそんなことおくびにも出してないよーでいて、開発途上国の人たち、貧しい人たち、性風俗産業で働いている人たち、性的少数者の人たちを、思いっきり蔑んでもかまわないと思ってるんじゃない?とゆー空気が、どーしてもじわじわと臭ってくるんだなあ。
たぶんぐりの気のせいだと思うんだけど、気になりだしたらもう止まらないんです。すいません。

そしてこれはぐりの偏見だと思うんだけど、こーゆー種類の人が、「おカネ儲けんのがなんで悪いの?」とかゆっちゃうこともあるんだろーなー、なんて思っちゃうワケでございます。
やっぱあたし、アタマわりーな・・・。すいません。

青い丘から

2010年03月14日 | book
『在日一世の記憶』 小熊英二/姜尚中編

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1911〜36年生まれの在日韓国/朝鮮人1世52人にインタビューしたライフ・ヒストリーを生年順に収録したノンフィクション。
な、長かった・・・新書版でP781ページ。ほとんど辞書なみの分厚さです。途中で何回か挫折して、ぜんぜん違う本10冊くらい読んじゃったりしてね。けどそーゆーときに勢いで読んだ本がまたつまんなかったりすんのさ・・・白洲次郎はハマったけどさー。
ちなみにぐりは在日3世で、1世にあたる祖父母は1903〜13年生まれ。この本に登場する1世たちのいちばん古い世代より弱冠年長で、来日時期もかなり早かったらしい。来日当時の詳しい事情はよくわからないけど、いずれ両親にも聞いてみたいとは思っている。今までにも何度か聞いたことはあるけど、両親にとって辛酸を嘗め尽くした自分の子ども時代や、祖父母の若いころの苦労話は思い出すだけでもつらく、到底舌先滑らかに話せるものではないようで、インタビューにもかなりの根気がいるものと思われる。

逆にいうと、この本に登場する1世の「記憶」はまだ語るに堪えうる内容でしかないということもできる。
読んでてものすごく気になったんだけど、人選がどう考えても異常に偏っている。民団や総連、民族学校など日本の在日コリアンの民族運動に深く関わった人ばかりがやたらに目立つし、それ以外でも文化人や経済的に成功した人、つまりいわゆる“勝ち組”が大多数を占めている。もちろん、在日コリアンがどれだけ勤勉でも、そんな人ばかりではないはずである。
取材当時存命中の1世のインタビューをできる限りたくさんとりたい・載せたい気持ちはわからないではないけど、こんなに偏ってたのでは、これ1冊で「在日とは」みたいなことをわかったような気分になられても困るなーとゆー気もする。
ただ、朝鮮半島〜在日コリアン〜日本の歴史的関わりは非常によくわかる、いい資料ではある。一資料としては誰にでもオススメできる良書であることは間違いない。巻末の用語解説なんかよくできてます。

この本を読むにあたって姜尚中氏の『在日』も読んでみたんだけどー・・・無茶苦茶つまんなくてビックリしたわー。実はぐりの母は姜尚中氏の大ファンでこの本も絶賛してたんだけど・・・何がおもろいんやろ?これ?
この『在日』と『記憶』のつまらなさはある意味完全にカブッてます。理屈っぽすぎるんだよね。頭でっかちなの。いろんな人のインタビューをせっかく集めたのに、編集するポイントが頭でっかちだから、どれもこれも個性がなくなっちゃって、全体になんか似た感じになっちゃってる。
そーゆーとこがすごいもったいないなーと思いましたですー。

後日付記:
橋下知事、朝鮮学校視察へ 「北朝鮮は暴力団と同じ」
高校無償化:大阪府知事「北朝鮮と一線を」 朝鮮学校支援で条件提示
はしもっちゃんはこの本読んだ方がいいかもね・・・。

わてのイエスさん

2010年03月14日 | book
『次郎と正子─娘が語る素顔の白洲家』 牧山桂子著

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こないだ読んだ伝記『白洲次郎 占領を背負った男』でハマって、ひとり白洲次郎まつりをやっとりましたがー。
何冊か他の伝記とか関連本を読んでみたけど、これがいちばんおもろかったです。
著者は1940年、次郎と正子の長女として現在の町田市に生まれた。兄ふたりの下の末っ子、ひとり娘である。
さぞかわいがられただろうと思いきや、ご本人の認識ではそうではなかったらしい。両親は常に自分の仕事で忙しくしていて、子どもは自主性に任せるというか、干渉することはあまりなく、そばにいてほしい、相談にのってほしいときにはいつも相手にしてくれない親だったという。なかでも9歳上の長兄の春正が、正子に向かって「もっと桂子の面倒をみてやらないと」と説教していたなどというエピソードは印象的である。
それでも、この本に書かれているだけでも、白洲家には家族団欒のさまざまな思い出がたくさんある。ままごとに畑仕事、家族麻雀、京都旅行、軽井沢での避暑、スキー、海外旅行、家族揃っての食事。
白洲家の親子関係は確かにふつうとは少し違っていたかもしれないけど、それはそれなりに仲のよい、あたたかく親しみにあふれた家族であっただろうことが、文章の端々にしのばれる。

でもやっぱりぐり的に萌えたのは、吉田茂の側近として、政財界の黒幕としておそれられた白洲次郎のお茶目なパパぶりである。
世の中で白洲次郎がどんな大物であろうが、子どもにとってはひとりの父親にすぎない。少なくとも著者自身は、父親を徹頭徹尾ただの父親としてとらえている(母親のことはあまり母親だと思っていないフシも見受けられる)。
音痴で歌はたった3曲しか歌えなかった白洲次郎(3曲とも日曜学校で習った賛美歌。それも完全に節が間違っていた)。日曜大工が大好きで、家具や日用品を次々につくっては頼まれもしないのに周りの人にプレゼントしていた白洲次郎。17歳で渡英したためか日本語の理解力に微妙に不自由があり、他人の冗談がよくわからないこともあったという白洲次郎。子どもに自分たちを「パパ」「ママ」と呼ばせ、町田の隣人たちにも亡くなるまでそう呼ばれていた白洲次郎。娘に「結婚相手に誰を連れて来ても反対してやる」と豪語し、結婚が決まってからは破談を虎視眈々と狙い、結婚式にも口やかましくがみがみと横やりを入れまくった白洲次郎。隣に住む娘夫婦の台所にあがりこみ、皿に山盛りになった3人前の焼鳥をひとりで食べてしまう白洲次郎。朝が早いわりにひとりで過ごすのが退屈で、寝ている家族のシーツを無理矢理むしりとりに来る白洲次郎。
お茶目です。カワイイー。

文中、何枚か著者と両親との写真が掲載されているが、写真を見る限りでは著者は父親にうりふたつである。顔だちだけでなく、表情や眼差し、しぐさなども、はっきりと白洲次郎のそれを受け継いでいるように見える。
ちなみに次郎本人は母・芳子似である。芳子は今でいうと藤谷美和子みたいな感じの美人。次郎は生まれたころから日本人離れした容貌だったそうで、くっきりとした目鼻立ちやすらりとした長身は確かに当時かなり目立っただろうなと思う。
ただ、彼がこれほど多くの人に愛されたのは、ただクールでスマートだったからというだけではないと思う。いつも熱い正義感に燃え、嫌われることを恐れずに誰に対しても口やかましく、それでいてキュートな面も多々持っていたからではないだろうか。
白洲家では子どもが親に挨拶をする時、頬にキスをする習慣があったそうだが、孫にキスされるときの白洲次郎は天使のようにかわいい笑顔を浮かべていたという。
58歳で政財界から引退して表舞台にたつことがなくなったため、生前の映像資料がほとんど残されていない白洲次郎だが、そんな天使のような笑顔だけは、ちょっと見てみたかったなと思いましたです。

シークレット・ドライブ

2010年03月10日 | book
『白洲次郎 占領を背負った男』 北康利著

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こないだ図書館で伝記ばっかり何冊もまとめ借りしたんですがー。行き当たりばったりに。
白洲次郎ってちょっとブームだったみたいですね?去年TVドラマにもなったそーですし。知らなんだわ。どっちみち観なかったと思うけど(主演のお方がちーとニガテでしてー)。視聴率はイマイチだったらしーですけど、どんくらい話題になったんかしら?
この本はドラマの原案にもなってけっこー売れたっぽいけど、それも知りませんでしたー。あー世の中から落ちこぼれてるなーアタシ。やべー。

白洲さんはぐりと(だいたい)同郷の人ですね。1902年生まれとゆーと、ぐりの母方の祖父と同世代。
士族出身の実業家とゆー裕福なおうちに生まれたそーですが、お金持ちったってハンパじゃありません。おとうさんのご趣味は家を建てること。豪邸を日本各地にぼんぼん建てて、建ったら満足して速攻でまたべつの豪邸を建てはじめるほど短気な人だったそーです。この手の人を関西では「いらち」っていいますけども。
白洲さんご本人も中学時代(!)からクルマが大好きで、亡くなるまで相当なカ―キチだったらしー。当時の日本人としては比較的長身で美男子でもあったので、早いうちからかなりモテたとか。なにしろ10代当時のガールフレンドは10歳ほども年長のタカラジェンヌだったとゆー伝説もある。
ケンブリッジ大学に留学して9年間イギリスで過ごしたためたいへん英語が堪能で、かつ階級社会独特の品格に非常にうるさい人でもあったそーです。マッカーサー相手に平気で怒鳴るくらいこわいもの知らずのタフ・ネゴシエーターという一面は、たぶんこの海外生活と関係があるんじゃないかなー?もともと喧嘩っ早くて言葉づかいはあんまし丁寧な人じゃなかったみたいですが。
オシャレだといわれることをいやがっていたわりにはファッションにかなりこだわりがあり、日本人で初めてジーンズをはいた人だともいわれている。晩年はイッセイミヤケのモデルを務めたこともある。

読んでて近衞文隆(公爵で元首相の近衞文麿の長男)とか西竹一男爵の伝記をめちゃめちゃ思い出しましたが。
戦前はチョ―大金持ちのぼんで海外に留学してて、スポーツ万能でクルマ好き。でもたぶん、この3人のなかではおそらく間違いなく白洲さんがいちばんイケメンですね(爆)。そして長生きした。
バロン西は硫黄島で戦死したし、白洲さん自身が仕えた近衞文麿も終戦直後に自殺、長男の文隆も1956年シベリアで死んだ。白洲さんは戦場へ行くことなく町田の農村で終戦を迎え、日本の戦後復興のために活躍した。
天才でイケメンで金持ちでオシャレ、こんだけかっこいいのに白洲さんが他の同時代の偉人のように有名にならなかったのは、もしかしたら彼の人生に悲劇がなかったからかもしれない。日本人て悲劇好きじゃないですか。判官贔屓っての。それほどかっこいい。口が悪くて政治家にはならなかったせいもあるかもしれないけど、政治家の道を選ばなかったことすらクールに思える。

著者の白洲さんに対する愛が全編にみちみちていて、読んでてすっかりぐりも白洲さんファンになってしまいました。武相荘こんど行ってみよっと。
まあしかし男なら誰でも憧れる生き方だろうし、女性からみてもすごく素敵な人だったろーなと思う。熱血漢でありながら常に広い視野を持ち、長いものに巻かれず、それでいて弱いものに優しく、礼節を重んじ、仕事と遊びを等しく愛した。歴史の表舞台にたつことなく国を支え、嫌われること・否定されることを決してを恐れず、常に改革を好んだ。
ぐりがとくにいいなあと思ったのは晩年の白洲さんを描いたパート。ケンブリッジ時代からの親友と78歳で再会して別れるとき、二度と生きて会えないかもしれないのにろくに別れの挨拶もしなかったというくだりや、毎月の健康診断ではいつも検査を受けずに帰ってしまったなんてところとか、亡くなる直前、病院に行く迎えの車を待ちながら、TVの大相撲中継を見て「相撲も千秋楽、パパも千秋楽」なんて弱音を吐いたというのも、なんかカワイイなあと思ってしまった。
どんなに強くてもかっこよくても、人間やっぱし愛嬌が肝心です。かわいさも味。
にしてもアタシゃどんだけじいさん好きなんだ。重症?


関連レビュー:
『近衞家の太平洋戦争』 近衞忠大・NHK「真珠湾への道」取材班著
『プリンス近衞殺人事件』 V.A.アルハンゲリスキー著
『オリンポスの使徒 ─「バロン西」伝説はなぜ生れたか』 大野芳著

Brûlée vive !

2010年03月07日 | book
『生きながら火に焼かれて』 スアド著 松本百合子訳

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イスラエル領ヨルダン川西岸地域の農村に生まれたスアドは、17歳のとき近所の男性と恋に堕ち、数回のデートで妊娠してしまう。
まったく教育も受けず、生まれてからずっと家事と農作業に酷使され、虐待され続けて来た彼女には、避妊を含めて性の知識はいっさいなかった。
彼女の郷里では、夫以外の男性と目をあわせたり言葉を交わしたりするだけで「ふしだら」とみなされ、死に値する罪を負う。結婚前の少女ならなおさらである。女がそうした罪を犯した場合、死刑を執行するのは親族の義務であり、それは「名誉の殺人」と呼ばれ罪には問われない。
義兄に火あぶりにされ瀕死の重症を負うものの、欧州の人道支援団体に救出され、海外で第二の人生を歩みだすことができたスアドの回顧録。

「名誉の殺人」の犠牲者は今日でも年間に5000〜6000人の犠牲者がいるといわれている因襲である。
主に中東から北アフリカ、南アジアなどイスラム圏で行われているため、イスラム教徒の慣習と認識されやすいが、実はコーランの教えとはまるっきり関わりのない、土着の習慣でしかない。女性器切除と同じく、イスラム教がひろまるかなり以前から、厳格な家父長制とともに存在し続けてきたといわれている。
スアドの村の女性に課せられた運命は「名誉の殺人」だけではない。
というか、ここでは女性は人間として扱われない。スアドは自分の誕生日を知らない。時計をもったことがない。学校に行ったこともない。自分の名前を書くこともできない。親のいうことは絶対で、父親は毎日なにがしかの理由をつけて彼女を虐待する。母親も決して彼女を守ろうとはしない。母親も父親に毎日暴力をふるわれているからだ。
着るものは親が与える地味でみすぼらしい民族衣裳のみ。靴も履いたことがない。髪や肌を手入れすることは許されていない。
彼女の世界は家と畑と牧草地だけ。それ以外の何ものと接することも、彼女には叶わなかった。
麦畑は緑豊かに生い茂り、空は青く、レモンやいちじくやぶどうのとれる美しい村で、彼女は孤独だった。

そんな村で生まれ育ちながら、それでも彼女は自分が受けている仕打ちに適合しようとは思わなかったらしい。
外へ出たい、綺麗になりたい、誰かに優しくされたい、優しくしたい、愛されたい、愛したい。ごく当り前の人間の感情として彼女は心の自由を求めてやまず、そしてついにそれを手に入れる。世にも苛酷な宿命とひきかえに。
こういうことをいうのが適当かどうかわからないけど、そこまでひどい社会に生まれついたなら、その社会のルールも自分にとって当り前のものとして適合してしまった方が得かもしれない。だってどこの世の中にもルールはあるから。
でも、スアドはそうではなかったし、おそらく、適合しない人はいくらでもいるだろう。なぜならこのルールがあまりにも非人間的すぎるからだ。人は生まれながらに自由と幸福を求める生き物で、誰にもその渇望は押しとどめられるものではない。もし、人が自由と幸福を望まなくなってしまったら、そこで人類の発展は終わったも同然である。そういう人間に生きる意味はどこにあるだろう。

スアドの訴えは、素直に正直に自由と幸せを求めて生きた少女の、つらく悲しい告白である。
そして、今も続いている悪習の無数の犠牲者の声を代表してもいる。
彼女たちにわれわれができることがあるのかどうかはわからないけど、せめて、ひとりでも多くの人に、このような暴力の存在を知ってほしいと思う。


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