老老介護・・最近は、認認介護という言葉が出回っています。
老いた子供が老いた親の介護をしたり、認知症になりかけた伴侶が認知症の伴侶を介護をしている現状が多く見受けられるようです。
医師、看護師、理学療法士、作業療法士、介護福祉士、社会福祉士、ケアマネジャー等々が、チームを組んで各患者さんのケアプランを作成しても・・現場にいると痛感するのが、組み立てている優しい思いやりケアプランが、サービス業務に映るのです。
そのサービス業務も変化しつつあるのでしょうが、時間内に終えないとどうにもならない流れ作業的なものに、どんどんと押し潰されてゆくようにも思える現状です。
言うなれば、工場の品質管理の届いた生産過程が受注過剰になりすぎて・・もう悲鳴をあげて、安かろう良かろう主義的な変化を伴いつつある生産現場です。
ただ・・製造業のように受注が多ければ売り上げも増え、従業員の給料アップという報酬の可能性もありますが・・医療福祉・・とりわけ介護現場は、人間の命を扱いながら薄給という理不尽な扱いを受けているような日本社会の矛盾を抱えているような気もします。
勿論、医療や看護や介護に従事する方々は、皆、善意溢れる人間ではありません。
なかには、自覚もせずに、言葉の暴力、肉体虐待を平気で日常茶飯事に施す従事者も多くいます。
また、老いた患者さまたち・・これまた問題のある方々が増えている昨今です。
来月は、音楽療法やら古武道を活かす介護技術等々の研修会が数回あり、参加するつもりですが・・
病病介護という深刻な言葉が、近いうちに、生まれるかもしれません。
腰痛のような身体だけではなく、心に病いのある医療、福祉従事者が、どんどん増えてゆくような気もします。
幸せな介護とは、幸せな人間に介護されない限り、不幸な介護となります。
人生の終焉が、来る日も来る日もベッド一畳分の世界で介護されるだけの生涯最後のピリオドにはしたくないです。
政府厚生省のお役人は、17年後の800万人にもなるという要介護者の対応として、事前の介護予防を重視して、自宅で看取ってほしいという政策を掲げていますが、これほど核家族化された日本社会では、既に無理無策に尽きると言っても過言ではありません。
日本の裁判制度の判決に国民参加の導入義務化を設けましたが、介護制度においても国民参加の導入義務を盛り込むべきだというのが個人的な考えです。
裁く人と介する人は対等であるはずであるという国全体での早い認識がない限り、社会保険庁のような無能さを、この国の施策としては繰り返すのでしょう。
最近、遺体焼却場が足りないという自治体が増えたようです。
介護や葬儀が、ビジネスであるという考え方でいる限り、電気や水と同様に老後問題は、サービスに属します。
豊かな生活は、サービスを受ける事が前提になっている考え方です。
そのサービスが崩壊された場合、遅かれ早かれ、まず自然と対峙していない不自然な都会生活の豊かな老人を抱える住人から悲鳴にも似た不安な声があがると思います。
小生、個人的には、老後に介護が必要となった場合、安楽死という自殺の権利もあってもよいという考え方に傾いています。
便を流して怒鳴られてしまうような終焉の幕を閉じたくありません。