ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

上梓

2011年12月26日 | 千伝。
二十代の頃、編集者として仕事をしていた。

当時は、当然パソコンも無い時代なので、すべてが手作業による編集業務だった。

トリーミングと言って、記事の中に写真やイラストも入れるのも定規を用いての手計算。

文字数の級数や文体も・・すべて個人的な感覚で選択するのである。

印刷所に行っては、・カラー刷りの場合は何枚かのビニール(何ていう名前だったか忘れたが・・)を重ねて、色抜き、脱稿はないか・・原稿用紙と刷り上がった誌面をみながら、校正していたのを思い出す。

今は、パソコンでどのような編集機能があるのか判らないが・・。

おそらく、あのような編集作業ができる方は、今の時代は、皆無になりつつあるのではないかな?

そして、すぐにでも誌面に自分の文章を書けると思い入った仕事だったが・・。

上司だったTさんからは、なかなか許可が降りなかった。

Tさんは、小生にとっては天才的な編集者であり、社会流儀のイロハを教えてくれた恩人でもあった。

まずは、必要なモノ(筆記道具、カメラ、録音機等々の取材道具)を自分で選ぶようにと・・自由に領収書を切ればよいと言ってくださった。

それから、タクシー代、飲食代、食事代・・これまた、すべて領収証を自由に切ればよいと言ってくださった。

今では、信じられない鷹揚な時代であった。

何かの取材の人物ソースで、某新聞社の記者と口論になった時、「その人物名からするとユダヤ系ではないか?」と指摘された博学には驚かされた。

まだ、親殺し、子殺しが珍しい時代であった。

金属バットで一流企業勤務の父親を殴り殺した浪人生による東京での金属バット殺人事件が大きなニュースになった。

殺された父親は、Tさんの同級生だった。

Tさんは、中学生だった息子さんを病気で亡くした。

Tさんから教えられたことは・・「絶望しない自分まかせの人生」である。

Tさんから、よく外国の話を聞かされたものである。

東京の生活を抜け出して、海外で暮らしてみたくなった。

1年間の休職期間を頂いて、英国ロンドンに行くのを決めたのもクリスマスの日だったような気がする。

その1年が過ぎて、いろいろな出来事も事情も加わり、結局、3年も海外で暮らすようになった。

30代となり、その後、紆余曲折もあり・・ドイツの外資系企業に勤めるようになる。

小生の上司は、ドイツ人に変わった。

日常の仕事業務もコミュニケーションも英語使用。

英語力を試される日々に変わってゆく。

中国語もドイツ語も学ぶ日々に変わってゆく。

そして、いつのまにか・・

独身から結婚を経て、家庭を持ち、夫となり、父親になった。

もう会えないTさんのもとで働いていたならば・・

どんな人生になったのだろうか・・と時々思う。

合掌。