地元の新聞に「ハナモモふっくら」という記事を見つけたのです。
JR越美北線の小さな駅構内に、桃の花が咲いているのです。
電車が、2~3時間に一本ぐらいしか来ないので、写真愛好家や行楽客が、堂々と線路上を渡っています。
・・こういう人の集まりって、何だか凄いなぁ。
百島小学校の校庭半分にもみたない敷地に咲く小さな桃源郷です。
桃の花は、不思議な力を持っています。
今日は、百島の曹洞宗西林寺を思い浮かべながら、曹洞宗に関して書いています。
ひたすら座禅に打ち込むこと、只管打坐(しかんただ)が、仏行であり達磨の道であるとのこと。
その黙照禅を、中国から日本に持ち込んだのが曹洞宗の祖(高祖)である道元禅師なのです。
何故、道元禅師が、世界で注目されるのか?
道元禅師が著した「正法眼蔵」・・欧米の哲学にも影響を与え、日本が生んだ最高の哲学書だとの評価があるからです。
その系譜が、狐雲懐奘、螢山(太祖)、良寛等々へと続きます。
曹洞宗には、一仏両祖として、大本山が二つあります。
・・その歴史的な経緯や詳細は、省きます。
1.道元禅師を高祖とする・・福井にある永平寺です。
系列の学校法人は、駒澤大学、東北福祉大学等。
2.瑩山禅師を太祖とする・・横浜にある総持寺です。(明治時代に石川県から神奈川県へ移転)
瑩山禅師は、越前(福井)の国に生まれて、八歳で永平寺に入り、曹洞宗が発展する基礎を築いた人物です。
系列の学校法人は、愛知学院大学、鶴見大学等。
(故石原裕次郎氏の菩提寺でもあります。)
曹洞宗を企業組織に例えるならば、永平寺は本家本店、総持寺は本社機能という組織図になります。
現在、曹洞宗に所属する寺院所は、約一万程度とか・・?
身近な寺では、百島の西林寺、尾道にもある全国の天寧寺かな・・。
その他、全国的にも著名な曹洞宗の寺院として、恐山の菩提寺、とげぬき地蔵の高岩寺、東京の青松寺と忠臣蔵の泉岳寺、伊豆の修禅寺、京都の詩仙堂・・等々。
・・集客力抜群の支店、出張所みたいな気もします。
・・さて、話をタイトル名の「日本曹洞第二道場」に戻します。
何故、最初に日本という言葉がつくのかと言えば、もともと曹洞宗は、中国の禅宗五家のひとつだからです。
禅宗といえば、臨済宗があります・・中国から栄西が伝え、一休、白隠、沢庵、無学祖元、夢窓疎石と云った名僧を輩出しています。
今日は、奥越の大野市郊外にある宝慶寺に参りました。
こんな道が延々と続き、4~5キロ先に、宝慶寺に辿り着きます。(標高500M)
大野は、同じく奥越の勝山と違って、行けば行くほどに、味わいのある町並です。
個人的にも、大好きな町、大野です。
奥越の小京都とも呼ばれて、さまざまな宗派の寺院も多い大野ですが、宝慶寺は、別格のような存在感があります。
・・古刹、宝慶寺。
その起源は、700年前に遡ります。
宝慶寺は今から約700年前、寂円禅師によって開かれた。開山寂円禅師は、中国宋朝の人であり、明州慶元府の太白山天童景徳寺で、日本から入宋した道元禅師「日本曹洞宗永平寺の開山」とともに、如浄禅師のもとで参学を続けられた。その後、安貞2年「1228」さきに帰朝した道元禅師を慕って来朝し。常に随侍した。道元禅師ご遷化の後、弘長元年「1261」この銀杏峰の麓に入り、石上に座禅すること18年。たまたまこの山奥に遊猟した下野守藤原氏と出会った事で、今日の宝慶寺があります。
(大野観光協会HPより)
宝慶寺への参拝・・日本曹洞第二道場としての曹洞宗の起源だけでなく、日本の仏教界、社会全体の未来をも考えさせられた道程でした。
かつては、この界隈は、宝慶寺の門前村が存在したのです。
僕の知り合いに、この門前村出身の方がいて、昔話も教えていただくことがあります。
豪雪地帯ゆえの過疎、限界集落・・そして、昭和38年の大豪雪で、廃村が決定的になりました。
今では、この地域には、檀家も無ければ、誰も暮らしていないのです。
宝慶寺だけが、この山中に残り、孤立無援の状態になったのです。
宝慶寺しか存在しない宝慶寺という名の集落なのです。
当時、地元出身の代議士福田一氏から、宝慶寺の運営維持管理について、観光客を呼ぶための施設を増やしたらどうかという助言もあったそうです。
その時の住職の言い放った言葉が、重いです。
「宝慶寺は、修行の寺です。観光客を呼んでは、修行の妨げになります」
「宝慶寺は、葬式寺でなく、祈祷寺でなく、観光寺でもない。一途に修行を以って立っていく寺なのです」
そして、宝慶寺が生き残るための坐禅と托鉢による生活・・それが開祖寂円の教えです。
今では、年間140万人近い観光客で賑わう第一道場の永平寺を避けて、この宝慶寺を選んで修行する雲水もいます。
海外からの外国人の雲水もいます。
よいお寺と巡り会えました。
感謝、合掌。