百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

とある百物語。

2014年09月05日 | 百伝。
妖怪アニメ・ソングが、流行る昨今。

恐ろしく、切なく、美しく・・怪談と言えば、江戸時代から伝わる「百物語」です。

・・「百」という縁起のよい文字に、何故、悲しさが潜むのか?

随分若い頃、「百丸」というペンネームを考えていた時分がありました。

しかし、少しだけ・・怪談気味に妙な部分が気になり、江戸時代の武家の幼名を調べたことがあるのです。

松千代、竹千代、梅千代は・・縁起がよさそうですね。

しかし、「百」が付く名が、ほとんど無いのです。

それで、何故なのか?・・と調べたことがありました。

とても悲しい事件でした。

時は、安土桃山時代。

時の天下人は、豊臣秀吉。

子のいない秀吉は、関白の職を甥を養子として豊臣秀次に譲ります。

その時点で、秀吉亡きあとの天下人は、豊臣秀次となるはずでした。

ところが・・秀吉には、淀君(茶々)との間に、秀頼という子ができました。

その時、秀次の子には、幼名を「百丸」という次の次の天下人になる子どもがいたのです。

おそらく、「百」は目出度く、豊臣秀吉に下った小早川一門の村上桃島は、百島と名を変えたはずです。

秀頼を溺愛する秀吉・・養子である関白職の秀次は、既に邪魔者?・・歴史の定説でもあります。

豊臣家崩壊の序章です。

豊臣秀吉は、狂気の沙汰か・・関白豊臣秀次の一家を根絶やしに全員を処刑しました。

豊臣秀吉に刃向う者は、誰もいません。

幻のような「天下人となる幼き百丸」も殺されたのです。

その悲劇の抹殺事件以来・・「百」がつく名前が激減しているのです。

その後の歴史の表舞台に出るのは、淀君と秀頼・・石田三成、そして徳川家康です。

あの北の庄(福井)の落城で、柴田勝家公、お市の方共々、その子ども三姉妹(茶々、初、お江)も全員自害していれば、淀君・秀頼親子の誕生もなければ、関ケ原の戦いも、徳川家光の誕生も無かったのです。

幻の幼名「百丸」が、天下人となっていたはずなのです。