昨日、10数年ぶりに安土城址まで参りました。
当時は、まだ観光地として復古区画整理中で受け付け口もなく、入場無料で石段を上がりました。
駐車場も大手道の直ぐ下にあった記憶があります。
かつて、安土城への登城ルートは4ルートがあったとの事。
七曲口道と搦手道は廃道となり、今残るのは、大手道と百々道のみだとの事。
今は観光地として、大手道口が正面口となっていますが、信長が生きていた頃、本来の安土城の正門は百々橋口ではないかという事です。
この事に関して、前回安土城を訪ねた時には、興味が無かったせいか、安土城に百々橋口があり、そこから天守に上る登城道があったという事にも全く気がつきもしませんでした。
これに気がついた(教えられた)のは、昨年同じく近江八幡市の百々(もも)神社参拝した際、宮司さんから聞いた話。
昔は百々(どど)神社という名称だったが、安土城の正門に「百々」が名付けられたので、織田信長に遠慮して、百々(どど)から百々(もも)に名称を代えたという歴史の裏話でした。
さて、昨日は、ほんとうに好天、安土町界隈は散策には絶好日和でした。
現在の安土城跡の正門入り口は、大手道の石段階段。
その石段の両側に秀吉やら前田利家等の家臣の家族が暮らす屋敷が立ち並んでいたとの事。
その大手道から、西側に約500メートルに百々橋口道の入口の石段があります。
大手道と百々道の中間には、南山裾帯郭の虎口(みなみやますそおびくるわのこくち)。
ここは大手道と百々道の両方を見渡せる物見櫓があったとの事。
ここは物資やら大勢の家来の出入口ではなかったのかと想像します。
さらに歩を進めると、百々橋口です。
そして、天主閣に続く石段です。
どう考えても、ここは琵琶湖から最も近い船着き場でもあり、京の都へ上がるのも下るのも安土城の玄関口に当たります。
織田信長は、安土城の天主閣へ迎え入れる天皇行幸を考えていたとも伝わっています。
それにしても、信長は何故、ここを百々と名付けたのか?
個人的な憶測ですが、この時代を歴史上の後付けで「安土桃山時代」と呼んでいます。
しかし、当時の信長にしてみれば、戦国の世は、応仁の乱の続きであったのでしょう。
応仁の乱の勃発地、最大の激戦地と伝わる地点が、京の百々橋(現在、京都市上京区百々町)なのです。
その地点を治めて終息させたという自負が、天下布武をモットーとする信長の考えにあったのかもしれません。
信長の世のあと、秀吉はどうも「百」を避けて「桃」を重用したような雰囲気を感じます。
それにしても、安土城の石垣跡は「世の流れ」を考えさせられる迫力があります。