私が乗った客船は、確か尼崎汽船の天正丸で、夕方に尾道港を出港して、途中いくつかの港に寄港して、翌朝には宇部港に着きました。
会社の人が迎えに来てくれたので、私は「お願いします」とお辞儀をしたものの、急に不安になり、両親を思い出しては寂しくて堪らなかったのを思い出します。
その日は、旅館に泊めていただきました。
翌日には、私が乗る船が入港する予定でしたが、時化で遅れて、二~三日待つことになりました。
その間、宇部の街を見物も出来て楽しく、当時の宇部の街には、故郷の百島出身の人たちも多く住んでいるということも知らされたのです。
いよいよ、乗船する日がきました。
私が乗る船名は、東兼丸・・宇部の建設会社の所属船でした。
曹達会社の専用船として、航路は、大分県津久見と山口県宇部との間を定期的に石灰石を積んで運行する機帆船でした。
航路は、ほとんど変わることはなく、いつも同じでした。
田舎者が、初めて社会に出て、人の名前や職名を呼ぶのは照れ臭くて・・船員の名前を呼ぶ時に「おまえ」と呼んで、よく叱られたものでした。
百島では、「おまえ」と呼ぶ事は、敬語だったのです。
目上の人にも、学校の先生にも、「おまえ」と、そう呼んでいたのです。
「おまえ」と言ってもアクセントが違い、「おまえ」ではなくて「おまぁー」であります。
百島の人ならば、懐かしく感じる方言です。
注:「おまえ」は、「お前」←「おん前」←「御前」につながり、敬語から派生したのは、
間違いないと考えます。
会社の人が迎えに来てくれたので、私は「お願いします」とお辞儀をしたものの、急に不安になり、両親を思い出しては寂しくて堪らなかったのを思い出します。
その日は、旅館に泊めていただきました。
翌日には、私が乗る船が入港する予定でしたが、時化で遅れて、二~三日待つことになりました。
その間、宇部の街を見物も出来て楽しく、当時の宇部の街には、故郷の百島出身の人たちも多く住んでいるということも知らされたのです。
いよいよ、乗船する日がきました。
私が乗る船名は、東兼丸・・宇部の建設会社の所属船でした。
曹達会社の専用船として、航路は、大分県津久見と山口県宇部との間を定期的に石灰石を積んで運行する機帆船でした。
航路は、ほとんど変わることはなく、いつも同じでした。
田舎者が、初めて社会に出て、人の名前や職名を呼ぶのは照れ臭くて・・船員の名前を呼ぶ時に「おまえ」と呼んで、よく叱られたものでした。
百島では、「おまえ」と呼ぶ事は、敬語だったのです。
目上の人にも、学校の先生にも、「おまえ」と、そう呼んでいたのです。
「おまえ」と言ってもアクセントが違い、「おまえ」ではなくて「おまぁー」であります。
百島の人ならば、懐かしく感じる方言です。
注:「おまえ」は、「お前」←「おん前」←「御前」につながり、敬語から派生したのは、
間違いないと考えます。