ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

少年時代 8 ~新しい世界~

2010年05月18日 | 人生航海
私が乗った客船は、確か尼崎汽船の天正丸で、夕方に尾道港を出港して、途中いくつかの港に寄港して、翌朝には宇部港に着きました。

会社の人が迎えに来てくれたので、私は「お願いします」とお辞儀をしたものの、急に不安になり、両親を思い出しては寂しくて堪らなかったのを思い出します。

その日は、旅館に泊めていただきました。

翌日には、私が乗る船が入港する予定でしたが、時化で遅れて、二~三日待つことになりました。

その間、宇部の街を見物も出来て楽しく、当時の宇部の街には、故郷の百島出身の人たちも多く住んでいるということも知らされたのです。

いよいよ、乗船する日がきました。

私が乗る船名は、東兼丸・・宇部の建設会社の所属船でした。

曹達会社の専用船として、航路は、大分県津久見と山口県宇部との間を定期的に石灰石を積んで運行する機帆船でした。

航路は、ほとんど変わることはなく、いつも同じでした。

田舎者が、初めて社会に出て、人の名前や職名を呼ぶのは照れ臭くて・・船員の名前を呼ぶ時に「おまえ」と呼んで、よく叱られたものでした。

百島では、「おまえ」と呼ぶ事は、敬語だったのです。

目上の人にも、学校の先生にも、「おまえ」と、そう呼んでいたのです。

「おまえ」と言ってもアクセントが違い、「おまえ」ではなくて「おまぁー」であります。

百島の人ならば、懐かしく感じる方言です。

注:「おまえ」は、「お前」←「おん前」←「御前」につながり、敬語から派生したのは、
間違いないと考えます。

少年時代 7 ~旅立ち~

2010年05月18日 | 人生航海
小学校の高等1年の頃、私は身体が小さいので、父が漁船乗りにするのは可哀想だと言って、汽船に乗せたいと考えたようで、いろんな知人に相談したみたいです。

当時、男たちは、ほとんどが網引き漁船乗りで、汽船乗りは少ない頃でした。

そんな時、父の知人から山口県宇部の機帆船の船長の奥さんが百島出身という縁で、早速親戚の方を通じて、見習いでもいいからと頼んでもらうと、運よくちょうど「賄い員」が欠員なので「いつでも来い」との事であり、話はすぐ決まりました。

それまで、飯を炊くことは経験していたので、その点は何の心配もありませんでした。

船員としての就職も決まり、小学校の高等2年は卒業もせず、途中で働くことになりました。

当時の義務教育は、小学校6年まででしたが、百島の一般の家庭では進学する子供は少なく、とても裕福な家庭か、または勉強ができる子供以外は、進学する者は少なかったです。

ましてや、将来の事を考える余裕もなく、その場の生活が精一杯で、一日でも早く働いて、お金を貯めて土地を買い、家を建てる事が、何よりの親孝行で、当時は、それが夢だと信じていました。

そして、百島をあとに・・父母に連れられて尾道の中央桟橋から中国航路の客船に乗って、宇部港に向かって行ったのでした。

あの時、父がボーイに頼んで、宇部港で「この子を降ろしてくれ」とチップを渡した事。
桟橋の売店で店屋物等をいろいろと買ってくれた事。
客船が、桟橋を離れる際に・・両親の眼に涙があふれていた事。

今でも、忘れられません。

船が、次第に遠ざかっても、いつまでも手を振って見送ってくれた両親の姿が、だんだんと小さく遠くになるにつれて、私も悲しくて涙があふれて止まりませんでした。

そして、この旅立ちが、親と子の永遠の別れになろうとは、夢にさえも思っていなかったのは当然の事でした。

少年時代 6 ~旅立ち前~

2010年05月18日 | 人生航海
それにしても辛いと思ったことは一度もなく、その後も学校には余り行かずに家の為にと思い、方々へ働きに出るようになりました。

兄もどこかで働いていたと思いますが、その頃に、父が山口県宇部新川の鯛網の仕事に契約して、兄も呼んで三人の前金を借りて出稼ぎに出たことがありました。

私が、まだ12歳か13歳の時でした。

父の身体は余り良くなかった頃です。

今になって思い出すと当時の事情もよく分かります。

親子三人の前金として30円を借りて働くことになりました。

ところが、父が、その後まもなく「胃が痛む」と言い出して、仕事が出来なくなり、仕方なく船を降りて、途中で百島に帰ることになりました。

父が帰ると、兄が、どこかへ逃げて行ったのです。

そのため、私一人が残って、前金を返すために最後の網揚げの日まで辛抱して、三人分の前金の精算が終わるまで働き続けました。

そんな情けない想いをした事もありました。

この島では、漁業の出稼ぎが多く前金を借りて働くのが習慣で、その金を家族に残すのが普通でした。

出稼ぎの人達は、盆と正月を区切りに働いていたのです。

その盆と正月に必要なお金を借りるような雇用の契約だったのです。

各船団には、それぞれ「雇い頭」という役付きがいて、よい漁夫を雇うために、時にいろいろと問題が起きることもあったようです。

人の出入りが毎年変わって、せまい島内でも、さまざまなトラブルが生じていたようです。

そんなこともあるので、父は、私を漁船乗りにさせないつもりだったのでしょう。

少年時代 5 ~出稼ぎ~

2010年05月17日 | 人生航海
火災で家を失い、また一から出直しになったので、両親は、それまでよりも一層仕事に専念しました。

母の魚の行商は、毎日多忙となって、父もまた、遠方まで買い付けに行くことになり、私も時々一緒について行きました。

魚が多い時は、島内では全部売り切れないと判断して、舟底のイケスで生かして置くこともありました。

母が売り歩いて帰ったあと、翌朝の夜明けを待って、父が潮の流れを見計らい、尾道の魚市場に朝一番で間に合うように、三人で櫓を漕いで行ったこともありました。

その頃の我が家は、祖父母と両親と子供四人の八人暮らしなので、窮屈な生活でも皆が辛抱していました。

祖父は、まだ元気でガゼ網という地引網漁をして、年寄り子供相手の僅かな収入の仕事でしたが、いつまでも続けていました。

時々、サイ分けとか言って、捕った魚を全部皆で山分けにして、皆から喜ばれていました。

当時の百島の大半の人達が、生活のため一生懸命がんばっていました。

衣食住にも不自由なぐらい貧しかったのです。

洗濯も十分出来ず、お風呂は貰い湯で毎日入ることもできず、そのうえ一軒のお風呂に何十人も入ったので、あとの人は湯は少なく白く濁っていました。

水を入れて沸かす焚き木さえ乏しくて、勝手に焚いてお風呂に入ることも出来ませんでした。

そんな不自由で不衛生な生活をしながら、よく生き延びてきたものだと今更ながら不思議に思います。

あんな環境では、多くの子供たちが、小さい頃に亡くなったのも当然の帰結かもしれないと考えるのです。

いづれにしても、この島の習慣として、小学生になれば家の手伝いは当然です。
六年生の夏休みともなれば、福山市の沖合いにある走島や香川県の伊吹島まで出稼ぎにゆき、鰯網の櫓漕ぎに雇われて働かされました。

私は、学校を休んで大阪湾のスズキ網の飯炊きとして雇われて働いたこともありました。

少年時代 4 ~空しい海~

2010年05月16日 | 人生航海
生活も何とか落ち着いた矢先に突然の火災で我が家を失い、両親の気持ちは、どんな思いであったか・・子供心に大きな痛手を受けたのでした。

しかしながら、いつまでもそんな気持ちでおられず、貧しくても生きてゆかなければなりません。

両親は小さな空き家を借りて、しばらく住んでいましたが、狭くて不便であったので、再び祖父母の家で一緒に暮らすことになりました。

私は、祖母のそばで一緒に暮らすのは嬉しくもありました。

母は、魚の行商を以前に増して毎日休むこともなく懸命に働きました。

父も祖父とともに漁をすることになり、鰯網やガゼ網で生活を支えていました。

漁業といっても、規模も小さく収入も少なくて、大家族のためには、祖父もいろいろと仕事しなければならなかったのです。

例えば、当時の百島といえば、大根が有名で、そのため四国の善通寺まで大根を帆走して、連隊の漬物用として、毎年納めていたのです。

さらに芋や麦とともに大根も多く作って、方々へ出荷していたようです。

弘法大師 空海の故郷・・讃岐まで、その当時を想像すると、祖父は、あんな小さな船に大根を一杯積んで、百島から四国の丸亀まで(現在の広島県尾道市から香川県丸亀市まで)、伝馬船のような小さな舟を一人で操り往復するような過酷な運行をしていたのです。

昔の人の行動は、現在の人では考えられないほどであり、感心するほかありません。

そして、祖父は、善通寺で大根を揚げ終えると、その運賃を貰い、多度津や丸亀に立ち寄り、家具屋や骨董品等の雑貨を買って来て、その品物を百島の人達に安く売り、喜ばれていたようです。

祖父も家計の助けになると考えたのでしょう。

売り切ると、また注文を受けたようでした。

こうして、我が家は、いろいろと頼まれ事をしながら、家族で力を合わせて、生活のためには、辛抱して過ごしたのです。

その頃の私は、やっと10歳を過ぎた、まだまだ遊び盛りの子供でしたが、友達と一緒に遊びまわることもなかったです。

それでも、家のため家族のために働くと思うと、辛いと思うことは一度もなくて、嬉しいと思いながら一生懸命働いていました。

しかし、このまま百島に暮らすならば、いづれ私も、祖父、父に続いて貧しい漁船乗りになるのかと思うと、少年時代の秘めた胸の中で情けない想いがあったのも事実です。

少年時代 3 ~我が家の火災~

2010年05月16日 | 人生航海
あれは確か、私が小学校4年生の時でした。

父母は二人で隣の島まで魚を買い付けに行って、晩遅く帰ってきた2月の寒い日でした。
そのため、両親は疲れが出たのか夕食後、ぐっすりと眠り込んだのでしょう。

隣家のおばさんが、大声で「火事じゃ。火事じゃ!」と叫ぶ声に吃驚して、外に飛び出しました。

その時は既に、隣りの火元の家は物凄い勢いで屋根が燃え上がり・・その火照りが強くて熱く、どうすることもできませんでした。
当然、家具類は一切持ち出すことも出来ず、誰かの「早く逃げろ」という大きな叫び声が聞こえました。
とっさに、私は何かを持ち出そうと一人で裏口から我が家の中に入りましたが、両親の行動は何も分かりません。
その後のことは、記憶が飛んで詳しく憶えていませんが、学校の本やカバンと、店の帳簿などを持ち出して、夢中で地区の倶楽部(集会場)の方に走りだしました。

家を出た時には、我が家の藁葺き屋根の上に、燃え上がる炎の勢いが強く火の粉が飛び散っていました。
とても恐ろしいと感じた記憶は忘れられません。

後に知った事は、父は、不意なことで急に胃が痛み出してどうにもならず、母も吃驚して何も出来ずに末っ子を一人だけ背負って箪笥の引き出しの下着類を少々しか持ち出せなかったということでした。

大阪から帰って来て、折角建てた家が、近所の家とともに丸焼けになりました。

寒くて遠いあの日、倶楽部(集会場)で一夜を過ごし、近所の人達の厚意で炊き出しやいろいろな差し入れをして頂き、その親切な気持ちは嬉しかったものの、これから先はどうなるのかと思うと、悲しくて涙が止まりませんでした。


少年時代 2 ~ままかり~

2010年05月15日 | 人生航海
当時の百島の男たちは、一年間を通じて、ほとんど漁船の出稼ぎをしていて、家庭に残っているのは女子供と老人だけでした。

その為に日頃は、出来るだけ節約して平素の食生活も至って質素で、主食は薩摩芋と麦でした。

一年分の副食は時季に応じて各家庭で作り、食生活の助けにしていたのです。

沢庵、らっきょう、梅干、味噌等で、味噌はナメモンと言って、麦と大豆で作る味付け味噌で独特なものでした。

また、麦飯にママカリ(別名モウカリ)を一緒に食べると特に美味しいと皆言ったものでした。

島の恵みと言うべきなのか・・当時、潮時を見て浜に行けば、アサリが湧き出るくらい多く無限と言うほどに掘っても掘っても絶えることなく自由に掘ることができたものでした。

他に、ハマグリ、まて貝、おう貝、しろ貝等も多く、貧しい家庭には、神様からの贈り物であったかも知れません。

それが、確かな生活の助けになったものでした。

日常生活においては、畑仕事は勿論ですが、貧乏の小作人たちは、傾斜地の山を開墾して畑を作り、薩摩芋や麦等を作るため苦労をしたものでした。

土地の無い人は地主から畑を借りて、幾分か年貢を払い、細々と毎日を一生懸命に頑張って食べるために暮らしていたのです。

家族を守るためには、大変な苦労をよくしたもので、働くほかに何の楽しみもない島の人達は、そんな生活のなかでも、よく辛抱したものだと思うのです。

とりわけ女性たちの苦労は大変でした。

朝早くから夜遅くまで働き続けても貧しさは変わらず、屑芋や鍬切れ芋を薄く切り天日で干して、カンコロ芋を作り主食代わりにしたりしていました。

それをいつも蓄えて置き、何も無い時期に備えて主食代わりにしていましたが、小豆に砂糖を入れて炊いて、おやつ代わりにすると、とても美味しいものでした。

その当時は、砂糖は貴重品で、いつも炊いて貰えなくて、あの時の私たち子供にとっては、大変嬉しかったものです。

学校が休みで、暇があれば私たち子供も海岸に出て漂流物の藻葉や木切れを広い集めるのも大事な役目でした。

海辺には種々の漂流物も多く、例えば板切れや木の根等・・いろいろな焚き木になるものを、大人も子供も皆拾い集めて家に持ち帰り、自然の内に、生活の為にと協力しあったものでした。

また、その当時は藻葉(もば)舟と言って、百島の周辺や松永湾、鞆の浦のあぶと観音付近まで潮流に乗って行き、集まった藻葉を探し求めて、炊事用具を積んで2~3日がかりで舟一杯になるまでがんばって採ったこともありました。

藻葉は、芋畑のは特に効き目があり、島に帰ると畑の近い浜辺に下ろして、広げて干して、丸い山をいくつも並べて作ったものでした。

そして、乾くと必要に応じて肥料として使用しますが、とりわけ薩摩芋には良く効いたものです。

あの頃を思い出してみると、貧しかったが、苦しさも辛さも、今は懐かしく甦り不思議なものです。

あの頃の百島は、半農半漁の家がほとんどで、男たちは全国各地の鯖巾着漁船に出稼ぎに行くことが習慣になりつつありました。

風が吹けば、海岸だけではなく、山にも行き、枯枝や落ち松葉を集めて、また松傘等が多くあったので、山も海も同じように、いつも綺麗に掃き掃除した様でした。

そのせいか、山は木々が少なくて、他所の人からは、百島の山は木の少ない禿山と言われたものでした。

(そのためか、戦後、そんな場所に砂防工事を行い、アカシアを島の山々に植林をして歩いたこともありました。)

少年時代 1 ~島の生活~

2010年05月14日 | 人生航海
大阪での入学時には、私が唯ひとり着物姿で恥ずかしい思いをしましたが、百島では、まだ殆どの生徒は着物だったのです。
大阪で着慣れた学生服にランドセルを背負い、大阪弁を喋る私は、威張っていたようです。

家でも親戚の人や近所の人達にも、得意げに野菜等を見ると、「おばちゃん。これは、お人参やで。これはお大根やで。又これは、お芋はん云うんや」とか「そうやさかい」と喋りながら、皆を笑わせていたらしいとの事でした。

祖父も、その頃はまだ元気で、小規模ながら鰯網漁を続けていましたが、その祖父母と同居は、家も狭いうえに人数も多く不自由でした。

両親は、その後の生活を考えたのでしょう・・大阪で少々お金を貯えていたのか、少し離れた場所に、藁屋の家を別に建てる事になりました。
その頃の百島の家屋は、殆どが藁葺きでした。
藁と云っても麦藁のことを言い、小さいながらも家は出来て、祖父母とは別に住み始めることになりました。

父の病は、相変わらずで、今思えば、胃癌だったのかもしれません。
当時は、まだ重病とまでは言えませんでしたが、時々痛みが出たので、仕事は当然あまり出来ませんでした。

そのままでは我が家の生活は、どうにもならず、その頃から、母が魚の行商をして家族を支えなければならなくなりました。
母は、始めは慣れない仕事ゆえにつらい思いもしたようですが、次第に慣れると親しみも湧いて、馴染み客も多くなってゆきました。
特に、学校の先生が上得意先で、そのうちに次第に売り上げも伸びていったのでした。

そうなると、百島の漁師からの仕入れだけでは、物が足りなくなったのです。
やがて、父も手伝うことになり、近隣の離島の横島や田島方面にまで出向き、好い魚を求めて、舟で買い付けに行くようにまでなったのです。

その後も、母の売り上げは次第に伸び、生活も少しは余裕も出来て暮らしも楽にもなり、家では、父が生活の足しにと思ったのか、駄菓子類や雑貨を売る小店を始めました。

しかし、父の病気の方は余り良くはならず、十分な仕事は出来るはずもありませんでした。
その頃、兄は、もう小学校の上級生だったので、家の仕事を手伝い、時には漁の手助けをして、私も一緒に手伝っていたこともありました。

他にも、時々、父や兄と一緒に「文鎮漕ぎ漁」に出て魚を捕って来て、家計の手助けをして子供ながら、よく働いたものだと思います。
その文鎮漕ぎ漁とは、長い鉄棒に一尺間隔に四つ又の鍵針をつけて海底の魚を櫓で漕いで引っ掛けるものであって、カレイ・コチ・オコゼ等の高級漁が捕れましたが、水上署の取締りが厳しくて怖かったものです。

その他、私たち子供の仕事は、芋洗いでした。
学校から帰ると、先ずは芋つぼに入って、その日に炊くだけの芋を芋つぼから出して洗っていたものです。
道具は、古い酒樽桶に二本の棒を縛った叉木を使い、時々、水を替えながら洗っておくのも子供の役目でした。

それが終わると、次は近くの井戸から水を汲み、台所の水がめを一杯にしたのでした。

そして、暇があれば、山や海に行っては焚き物を探して、日頃から蓄えて置く事も日常生活の知恵として自然に身についてゆくのでした。

芋つぼは、ほとんどの家庭にあって、座の下か縁側の下に大きなつぼを掘り、一年間の食べる量の薩摩芋を麦藁等で上手に囲って貯蔵しておくのが、どこの家庭でも同じように慣習的になされていました。

畑のない家では、多く作っている家に頼んで薩摩芋を売ってもらい、同じように一年分の食べる量の芋をつぼに入れて保存していたのです。

幼年時代 ~大阪での生活~

2010年05月13日 | 人生航海
おばあさん子の私は、百島を離れてからも当分泣いていたようです。

大阪では、両親と兄と家族四人の生活が始まりました。
その頃には、父は、現在の係長のような職になっていたのだと思います。
何人もの部下の人達と一緒に働いていたようです。

大阪での家は、借家だったと思いますが、二階建ての家で中庭もあったし、松の木や他の植木も多くあり、子供心にも広い家のように映りました。

それからの大阪での生活は、そのうちに慣れて見るものが総て珍しくて、百島での暮らしと全く違って楽しい事ばかりでした。

父の休みの日は、父母に連れられて道頓堀の賑やかな街に出かけたり、その頃の活動写真や芝居を観て、食堂に連れて行って貰ったり、大阪寿司やお菓子など沢山食べて一日中楽しく過ごした事は、本当に懐かしい思い出であります。

大阪での我が家は、九条新道の近くの安治川沿いで、その当時は、まだ護岸もなく、砂浜があって、其処に小さな造船所が何箇所もありました。

近所の子供達に連れられ、安治川でよく遊んだものです。
そこの砂浜に、綺麗でピカピカと光る黄銅鋼が多くあり、いつもそれを拾い集めて、私達子供は、よく遊んだものです。

そんな頃に、大阪では、大きな賑やかな行事があったのを憶えています。
その時は、私には分かりませんでしたが、あとで、それが御大典だったと教えられました。

大阪の街は大変な賑わいで、花電車も走っていて、大勢の人が出て、商店街は、飲み物類は何処も無料でふるまっていました。
それが、昭和天皇即位式の祝典でした。

そして、翌年春、私は、大阪の小学校に入学したのであります。

学校は、市岡第一小学校でした。
入学式は、母に連れられて一緒に行ったのが懐かしく思い出されます。

ただ、その入学式で、母も気軽に思っていたのか、百島での格好はほとんど着物だったので、その着物姿で出席したものの、私一人だけが着物姿で恥ずかしい思いをしたことも覚えています。

そんなこともありましたが、学校は大きく、一年生だけでも何組もあり迷うほどで、1学年で、イロハ別に何組もの教室がありました。
運動場も広くて吃驚しましたが、学校は、家からもそんなに遠くはなかったので、そのうちに一人で登校もできて、その後、いろんな遊びも覚えて、学校の勉強も面白く楽しい日々が続いていました。

子供心にも、こんな生活が、いつまでも続けば良いと思ったりもしていました。

しかし、半年位が過ぎた頃、運命の悪戯なのか・・父が突然体に不調を生じて、当分は家で休んで医者に通うようになり、その後もしばらく通院する日が続いたので、止む無く仕事を断念する事になったのでした。

そして、父も残念であったに違いありませんが、一応百島に帰って、養生する他になくなりました。

楽しかった大阪での生活も、私にとっては、僅か三年足らずの期間でした。
それよりも、両親は、大変残念であったに違いなく、どんなに辛い思いであったろうかと子供心にも察することができました。

所詮、父は病には勝てず、我が家は、多くの夢を残して、大阪を引き揚げて百島に戻ることになりました。

又、いつの日か出直す事を願って、後ろ髪を引かれる思いで、百島に帰ったのでした。

時に昭和七年(1932年)10月の事でした。

生い立ち ~名付けの謂れ~

2010年05月12日 | 人生航海
大正13年1月10日、父藤本善松、母ハルヨの三男として、私は生まれました。

三人も男の子が続いたので、両親たちは、大喜びしたそうです。

その当時は、男の子が三人もいれば、蔵が建つと言われた頃であります。

目出度い時に使う重箱は三重ねなので、名前は、重箱の「重」と男の二字をとって、私の名を「重男(しげお)」と名付けたと・・子供の頃に両親から聞かされていた事をよく憶えています。

そして、私のあとに、女女男女男男と計九人も生まれましたが、当時の事であり、死亡した子達も多く、近年迄生き延びてきたのは半数以下となり、数年前、兄が、つい最近も弟が亡くなりました。

現在(平成13年現在)は、妹と二人が残っているのにすぎません・・早く亡くなった兄弟たちの分迄、幸せに生きて、頑張らねばならないと思うのです。

しかし、生まれながらの運命とでも言うのでしょうか。
肉親との縁が薄いのか、私は、両親を始め、身内の死に目に一度も立ち会うことは出来ませんでした。

それら全てが、人の運命かと思うぐらい、時々不思議さを感じることが多かったです。

大正時代の私が生まれる迄の我が家の事情を知る人達は少なく、百島の古い人達の話では、祖父の代迄は、土地や畑もかなり所有していたらしく、その後、漁業の鯛網をも営んでいたようです。

使用人や漁夫達を、隣県の山口県や岡山県、四国方面からも雇い入れて、大掛かりな操業を行ったらしく、近辺でも、少しは名前も知られていたようですが・・。
その為に、日常生活も派手になり、何時か不魚の年が続いて、借財が増えて、とうとう破産に至ったそうです。

そのような事情で、私が生まれた頃の我が家は、世間からの風当たりも厳しかったようです。

その破産の結末から、両親は、祖父母と別れて暮らすことになり、大阪の知人を頼って出直すことにして、兄一人を連れて、大阪に出ることになりました。

当時、私は、まだ三歳で、連れて行くと仕事の足手まといとなるので、百島の祖母に託されて育てられました。

大阪での父の仕事は、慣れない仕事だったようですが、家族のために働くことに専念したようであります。

私の物心がついたのは、それ以後のことであって、その当時の祖母の苦労も並大抵なことではなかったようです。

大変な想いで私を育てたかと思うと、今でも、あの頃の祖母が想い出されて涙が出るほどですが、それに反して、祖父は、頑固者で、人の言う事は絶対に聞き入れない人として通っていたようです。

祖母は全く対照的な人柄で、祖父からどんなに叱られても、口答え一つしなかった優しい人で、多くの人に慕われていました。

そんな祖母は、幼くして親に離された私を不憫だと思ったのでしょう。
親代わりになって可愛がり、畑仕事に出るときも背中におぶったり、エンボに入れて、遠い畑に連れて行ってくれました。

どんな時も、幼い私を何時も傍に置いて育ててくれた祖母のことが、おぼろげに甦り、80歳に近づくのに、今尚も遠い遠い思い出が、不思議に懐かしく浮かんでくるのです。

その後、大阪での父の仕事は、順調に運んで、思うよりも早く、両親が私を連れに帰ってきました。

そのため、百島を離れ、大阪へ向かう時の祖母との別れ際が辛く、いつまでも泣いて困らせました。

あの時の祖母の姿は、何歳になっても、忘れられず脳裏に焼きついて離れません。

そんな辛い別れでしたが、両親に連れられて、尾道の港から中国航路の汽船の乗って、大阪の天保山に向かっていったのです。

かくして、昭和初期の当時、日本一の商都であった大阪の街で、私は両親と暮らすことになりました。

まえがき ~父からの伝言~

2010年05月11日 | 人生航海
私は、大正時代の末、瀬戸内海のほぼ中央に位置する百島という小さな島に生まれて、昭和から平成にかけて多難な時代を過ごしてきた。

今では既に遠い過去の如く消えんとする昔を想い起し乍ら、偽りの無い事実を述べる。

戦争を知らない今の若い人達に、当時の出来事を伝えたく、出来る限り詳しく書き残すことにしたのである。

私は、まだ14歳の少年の身で、支那(中国)大陸の揚子江に機帆船で派遣されて、国の為にと思い三年間を過ごした。
その後、南方戦線に参加することにもなった。
ジャワ島の敵前上陸にも加わり、各地で危険に曝されながら、運良く今まで生き延びてこられたことが、何故か不思議なことのように思えてならない。

そう気付き、将来の何かの参考にと思い、まだ元気なうちに趣味も兼ねて、呆け防止にもなると思いパソコンを習って書くことにした。
初めは難しいと思ったが、続けているうちに案外楽しくなり、毎日続けているが、幾ら元気
だと言っても年齢には逆らえない。

百島は、山陽筋の中央に位置して、尾道港(市街地)の南東約15キロにある沼隈半島の西南に位置する小さな島である。

山には木々の青葉が多く繁り、自然美溢れる風光明媚な島であるが、未だ本土との架橋もなく、生活は不便で、その上人口の減少は留まらず、畑地は荒れ放題で空き家も年々増える一方である。

昭和30年4月、行政区画により百島は、尾道市に合併された。
その当時の人口は約2500人、戸数は約500戸位であったが、その後、経済成長時代に入るや時代の流れに従って、島民は橋の架かる見込みもない不便な島に見切りをつけて、島を離れて都会に出る傾向で人口の減少は留まらず、現在は700人を割る迄に至った。(平成15年現在)

百島に初めて住み着いた者は誰か・・平家の落人説や、他に嘉吉の乱のおりに、赤松満祐の家臣が逃れて住み着いたという話や百島七人衆あるいは八軒衆と言う説もあり、沼隈郡誌にも、いろんな言い伝えが残っているらしい。
私の先祖も、その中の一人かもしれないが、遠い昔のことは知る由もない。

そんな話は別として、現在は人の寿命も年々延びて、誠に喜ばしい限りであるが、近頃の世相や、ニュースを観ると、政財界の汚職、金融関係の不正事件、青少年の不良化、犯罪の多発、警察関係の不祥事件、景気の低迷、失業問題など、先行きが心配なことも挙げれば限りがないほどである。

しかし、私達老人にとっては、年金制度はある程度充実し、老後生活も子供に面倒をかけず暮らせるのが何よりである。

政治に関して、幾ら述べて見ても仕方ないが、私達の望みとしては今後二度と再び戦争を起さないことが何よりも大切だと思う。

我が国は世界の先進国として、また悲惨な戦争の経験国として、誇りを持って地球上の平和に貢献してほしい。

皆が、安心して暮らせる生活が出来る事を期待するのは当然である。

そんな日の訪れを望んでいるのは世界中の人達の願いである。 
「平成15年(2003年)現在」

人生航路百景

2010年05月11日 | 百伝。
広島市内に株式会社 広島シッピングという海運会社がある。

社長の旗手安夫さん(67歳)は、日々毎日の出来事の人生雑感・・人生航路百景を見事に描いている。

そして、百島で過ごされた少年時代のエピソードを読んでいると大変な秀逸であり感動さえ覚える。

NHKのラジオ深夜便にご登場願ってもよいかと思うぐらいである。

・・父を想い出す。

二年前、子供の頃から船乗りだった父が亡くなった。

父は、「人生航海」という自伝を書き残している。

百島で過ごした貧しい子供時代・・両親を早く亡くし小学校を出ると働き始めて、少年時代には船乗りになって中国大陸や南方までに渡っている。

そんな父は、今考えるとユニークな考え方の持ち主だったかもしれない。

息子たちを船乗りにさせようとしたのかどうかは・・分からない。

私も高校時代の夏休み・・父がチャーターしていた貨物船にアルバイトとして乗り込んだことがある。
横浜から北海道の網走までの海上生活だ。
(演歌歌手の鳥羽一郎さんの叔父さんになる方も甲板員として乗っていたのかな?)
東京の大学に進学した時も、父の貨物船を利用して上京。
上陸したのは東京港豊洲埠頭だった。

今年三月、私は、突然呼吸困難から急性心不全となり、緊急入院・・しばらく入院していた。
病名は、拡張性心筋症・・。
未だに、自宅療養みたいな生活を過ごしている。

この頃は、目が覚める朝に感謝である(笑)。

生きることは、いづれは死ぬということなのである。

父の人生航海への想いを新たにする。

そして、生きる勇気を頂きました。
旗手安夫さんのブログに感謝にしています。