■恋の59号通り / Harpers Bizarre (Warner Bros. / 東芝)
さて、ここ2~3日書いている洋楽邦題ネタの中でも、サイケおやじがちょいと苦しめられたのが、本日掲載したハーパース・ピザールのシングル曲です。
実は結論から言うと、これはサイモンとガーファンクルの人気演目「The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」と同一曲なんですが、そこで「59番街橋の歌」とされていた邦題が、こちらでは何故か、「恋の59号通り」にされているんですねぇ……。
まあ、現実的には発売元レコード会社が違うんですから、相手に合わせる必要なんか無いわけですが、このあたりの事情を本国アメリカでの発売状況と照らし合わせてみると、まずサイモンとガーファンクルが「The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」を世に出したのは、おそらくは1966年11月発表のアルバム「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」に収録してだと思います。一方、ハーパース・ビザールのバージョンは1967年早々のデビューシングルで、春にはチャート上位のヒットになっていますから、その我国での発売も同時期だったのでしょう。
そしてサイモンとガーファンクルがアメリカでの最新シングル曲「夢の動物園 / At The Zoo」にカップリングする形で、再び「The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」を持ち出したのが1967年2月とされていますから、この流れを我国の洋楽状況に合わせてみると、おそらくは「恋の59号通り」の邦題が先だったという推察も可能なのですが……。
今となってはサイケおやじに確認する術がありません。
というよりも、告白すれば、サイケおやじには「ハーパース・ビザールの恋の59号通り」をリアルタイムで知る事が出来ず、実は昭和43(1968)年の正月すぎにラジオで唯一度だけ、それを聴き、サイモンとガーファンクルのオリジナルバージョンとは完全に異なる、もうひとつ別世界のウキウキ感にハッとさせられたものの……。
実はその時は、演じている肝心のグループ名が分からず、しかし曲は確かにサイモンとガーファンクルの「59番街橋の歌」と同じである事しか確認出来なかったんですねぇ。つまり曲は最初から聴けたのに、担当DJの某氏は曲名もグループ名も伝えてはくれず、お終い方はフェードアウトでCMが被ってしまったという、如何にも当時の民放ラジオではありがちな顛末だったのです。
しかし、その歌と演奏、つまりハーパース・ビザールの「The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」は本当に鮮烈な印象としてサイケおやじの洋楽心を刺激してくれましたから、以降はひたすらに探索を続けたのですが、その道程は遠かったですねぇ。
なにしろ今も同じ状況ではありますが、当時のレコード店は中古屋も含めて、その販売の現場にある所謂エサ箱は「あいうえお順」か「アルファベット順」にミュージシャン優先の分類でありましたから、結局は歌手やバンドの名前が不明だと標的がイマイチ定まりません。
ですから、ようやくハーパース・ピザールのこれを発見入手した時の喜びは、本当に筆舌に尽くし難いものがあるんですねぇ~♪
しかも、さらに真相を告白すれば、件のカパーバージョン「The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」が「ハーパース・ビザール」というグループによって演じられていたという事実を知り得たのは、なんとっ! レオン・ラッセルという、1970年代前半のトレンドであったスワンプロックの立役者の履歴によっての事であり、そこにはレオン・ラッセルが1960年代はハリウッドポップスの裏方として活動し、多くのヒット曲作りに関わった仕事のひとつとして、「ハーパース・ビザールのデビュー曲」=「恋の59号通り / The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」がそのひとつ! という驚愕があったのです。
それがサイケおやじにとっては1972年の事であり、いゃ~~、これは大袈裟ではなく、本当に吃驚仰天!!?!
だって、当時のスワンプロックをやっていたレオン・ラッセルは無粋な長髪に不気味なメイク、濁った声質で粘っこいパフォーマンスをウリにしていたのですから、まさか昔の事にせよ、ハーパース・ビザールで聴けるような浮世離れしたドリーミーなサウンドを作り出せる要素とは決定的に掛離れたイメージだったんですからっ!!
しかし、確かに残されている現実は否定出来ません。
そこには本当に浮足立つが如きポップスフィーリングがどっさり凝縮され、ソフトなボーカル&コーラスと幾分古臭い映画音楽の様な演奏パートが見事に融合されているんですねぇ~♪
もちろんサイモンとガーファンクルのオリジナルバージョンを極力大切にする姿勢も潔く、基本の4ビートグループとコーラスの掛け合い輪唱の妙が、似て非なる拡大解釈で演じられているところに、ハーパース・ビザールの個性が確立されています。
ちなみにグループのメンバーはテッド・テンプルマン(vo,ds)、ディック・スコバトーン(vo,g)、エディ・ジェイムス(g)、ディック・ヤント(b)、ジョン・ピーターソン(ds) とされていますが、もちろん演奏は当時の慣例を引くまでもなく、提供された「音」と「雰囲気」を聴けば、それはスタジオミュージシャンを動員して作られたものと知れますし、全体のサウンド作りが既に述べたとおり、レオン・ラッセルに主導されたというポイントは恐ろしいばかりの完成度だと思います。
また同時に痛感させられるのが、1967年というサイケデリックロック&ポップスの全盛期に、何故か極めてロックっぽくない、丸っきり1940年代の映画音楽のようなサウンドが作られている現実です。
これは本当に不思議なんですが、あえてヒットが欲しくて逆を狙った?
なかなか「あざとい」仕掛でもあり、また極言すれば制作発売元のワーナーブラザースの本家が映画会社という事とも無関係ではないのかもしれません。
そして実は、これも後に知った事なんですが、ハーパース・ビザールは本来、決してここで聞かれるような音楽性のグループではなく、普通のフォークロックをやっていたらしいのですが、所属していたレコード会社がワーナーに買収された事により、何か成り行きで契約が続行され、これはサイケおやじの完全な妄想ではありますが、こういう企画プロジェクトをお仕着せられたのかも……?
とすると、ここでプロデュースを担当しているのが局地的に信奉者が多いレニー・ワロンカーという趣味人であることもディープな要因でしょう。
ご存じのとおり、この才人は変人と紙一重の印象が強いほど、その仕事は妙な情熱に支配されていますが、生い立ちとしてはリバティ・レコード創設者の御曹司であり、それゆえにゲイリー・ルイスを売り出したスナッフ・ギャレットやハリウッドの映画音楽関係者の手伝いをした後、フランク・シナトラとリプリーズレコードの下請け仕事をやるようになったのが、この業界での駆け出し時代の姿だと言われています。
そしてハーパース・ビザールとの仕事が、おそらくは最初の自己企画だったとすれば、あえて流行最先端のロック的要素を避け、それまでに培ってきたルーツ的ハリウッド芸能スタイルを確信犯として用いる事こそが温故知新の狙い撃ち!?
いやはや、このあたりについては書ききれないものが非常に多いので、本日はここまでとさせていただきますが、なにやら評論家の先生方によると、こうした恣意的ハリウッドスタイルの温故知新は「バーバンクサウンド」と称されているそうですね??
それもどういう分類方法があるのか、サイケおやじには意味が分からないのですが、とにかく1972年になって、ようやくハーパース・ピザールの「恋の59号通り / The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)」に邂逅して以降、ソフトロックでもジャズコーラスでもない、非常に特異な同グループのスタイルには興味深々♪♪~♪
ところがその頃は肝心のレコードが全然売っていなくて、当然ながら中古も出ないという悪循環の中、チマチマとそれらを蒐集していく過程もまた、趣味に生きる喜びだったのは間違いありません。
ということで、本日は中途半端に長くなりましたが、結論として洋楽の邦題には功罪諸々が確かにあって、それゆえに面白味も倍加しているんだと思います。