九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

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敦煌を訪ねて その1          飛天

2006年11月09日 19時32分12秒 | Weblog
 私の書斎兼オーディオルーム、兼寝室(いびきがひどくなって、寝室を追い出され、やむをえずソファー・ベッドで寝ている)の壁面に、数点の絵が飾られている。そのなかに、李振甫の321窟の復元模写「飛天」がある。仕事や読書に疲れた私をこの絵がどれほど癒してくれたことか。

 敦煌莫高窟の壁画のなかの飛天は、初期にはずんぐりとした体形で衣の裳すそは短い。唐代に入ると、体は細くなり裳すそは長く空中にたなびくようになり、非常に優美になる。
 そのなかでも、321窟の飛天がもっとも美しい。私にとっては、この李振甫の作品は大事な宝物なので、ホワイト・チークの額縁を特注して、それに収めて飾ってある。

 若い頃、私はシルクロードに憧れていた。不思議なことに妻もそうだったようで、シルクロードについての同じような書物を読んでいたのだ。そのころ、普通の日本人が海外旅行に出かけることは、夢のまた夢というような時代であった。
 植民地支配の片棒を担いだ父のこともあり、私は中国への旅はできないと思っていた。が、平成3年に仕事の関係で、上海、南京、揚州を旅した私は、その後、たびたび妻とともに海外旅行とくに中国へ出かけるようになった。その最初に選んだ行先が敦煌であった。
 
 平成4年、私たちは高校生と中学生の息子二人を連れて、敦煌を訪れた。日本の海外無償援助で造られた敦煌記念館の立派な建物の完成祝賀式典が、竹下元首相ら日本からの招待客や中国政府の要人も参加して盛大におこなわれた。その間には、観光客はいっさい敦煌には立ち入れなかった。その翌日に私たちは敦煌に入ったのだ。そして平成6年にも、今度は夫婦二人で敦煌を再訪したのだ。
 
 西安を出発したあとしばらくして、航空機は延々と砂漠の上を飛ぶ。ほんのときたま、小オアシスがあり、人家と畑が見えることがある。そこに住む人たちはどのような思いで人里離れた砂漠のなかに住んでいるのであろうか。
航空機の窓から左手前方に、白く輝く祁連山系が眼に入るようになると、敦煌はもうすぐである。憧れの敦煌に近づいたのだと、気持ちが高ぶり、胸躍るような高揚した気分になったのを覚えている。

 最初の敦煌訪問のときのことである。莫高窟の帰り、駐車場へ向けて歩いていると、肘を横に張り、粗末な国民服を着た中年の男性が原付程度の小型オートバイに乗ってやってくる。颯爽と言いたいところだが、何となく不細工な乗り方で、もたもたとやって来るのだ。すると、若い女性の中国人ガイドが立ち止まり、直立不動の姿勢をとりお辞儀をしている。そしていわく、「あの方が王峯先生です」と。息子二人がゲラゲラ笑い出してしまった。私も可笑しみを感じて、笑いをこらえたのであった。

 井上靖が最初に敦煌を訪れたときの随想的小品を読んだとき、李振甫と握手している写真が掲載されていた。それで、李振甫の名前は私の記憶に留まっていた。王峯の名前も敦煌壁画集で見知っていた。ホテルのそばの画廊で、この絵の作者の社会的評価はどうなのかと聞いたら、店員は「1番目は李振甫先生です。2番目は王峯先生です。この絵の方は3番目です。3番目の方は沢山います」と答えた。その王峯先生なのだ。
 敦煌研究所の直営売店で、李振甫の「飛天」と王峯の「菩薩像」を購入していたので、息子たちも、王峯が優れた芸術家で社会的評価も高いのだということを知っていた。我々の頭のなかのイメージと、現実に出会った王峯の姿とのあまりもの差異というか落差に、ついつい笑ってしまったのであった。ガイドに悪いことをしたと今でも反省している。

 長くなるので、ひとまずここで切ります。次回に、敦煌についてのいろいろな私の想いを記したい。特に私の気に入った場所について記したい。
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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その8       千里眼

2006年11月09日 18時54分51秒 | Weblog
 前回の投稿で記したように、第一次世界大戦はかってない悲惨なものであった。それを受けて戦後処理の過程で、新しい理念が示され、新しい戦後処理が行われた。そして、国際協調が強調され、国際連盟が発足した。

 この第一次世界大戦中に日本は中国に対して、対華21か条の要求を突きつけた。その内容は5つの項目に大きく分けられる。①ドイツの山東省利権を日本が継承する。済南鉄道の支線の敷設権を日本に与える。②南満州と東部内蒙古における日本の特権を認める。この地の政治・財政・軍事に関する日本人顧問を置く。③漢冶萍公司を日中合弁とすること。④中国領土内の港湾・島嶼を他国には譲渡しないこと。⑤中国政府に政治財政・軍事顧問を置くこと。警察を日中合弁とすること。日中合弁の兵器廠を設立し、日本人技師を雇うこと。中国中南部の鉄道敷設権を日本に与えること。以上の5項目である。

 欧米諸国が血みどろの戦争継続中に、まるで火事場泥のように、中国植民地化の要求を中国へ突きつけたのだ。この第5の項目はあまりにもひどく、欧米を刺激するのは必然であったので、秘密条項として要求したのだ。 
 当時の袁世凱政権は当然のことながら、調印を渋ったのに対し、日本政府は最後通告を突きつけて、調印を迫った(そのとき、第5項目ははずした)。袁世凱政権はやむをえず1915年5月、これに調印することとなった。

 戦後の軍縮交渉には、日本の政党内閣は妥協しながらも、その流れに乗っていったが、結局、日本は対華21か条の路線を継承し、満州事変から日中戦争へと、中国植民地化路線を歩むことになった。この時期には、世界のなかでは、戦争とか紛争はおこってない。まだ、国際協調路線が流れている国際情勢のなかでの、日本の動きであったことに注目する必要がある。

 保守系論客は、こうした国際情勢のなかに位置づけて、日本の歴史を見ることを拒否しているようだ。満州国建国を「五族共和」の理想郷を建設するため、満州系民族のためにやったことだ、国際的に承認されたのだ、と「歴史解釈権」の名のもとに強弁する。第一次世界大戦後の世界史の流れに照らしても、このような「歴史解釈」が成り立つはずがない。

 そこから彼ら特有の東京軍事裁判の評価・認識が生まれていると私は思う。彼らは、東京軍事裁判は「勝者が敗者を裁いたものだ」と口をそろえて言う。「国際法から見ても間違っている」とも言う。そして、その論証のあかしとして、パール判事の無罪判決(少数意見であり、判決ではない。彼らはこの判決なる用語を使用する)を挙げ、ヘレン・ミアーズの著書「アメリカの鏡 日本」を挙げる。
例えば、小林よしのり氏は次のように言う。「軍事力でねじ伏せた相手に、一方的な戦勝国の論理を押し付ける『裁判』のどこが平和主義なのだろうか? それは、野蛮な弱肉強食の国際社会を肯定する『軍国主義』に他ならないではないか」(「パール判事の無罪論」序文)と。

 確かに、ミアーズはアメリカに日本を裁く権利はないと書いた。しかし、それは日本を免罪するということではないのだ。「日本が、『凶暴で貪欲』であったことは明白な事実」として、日本の明治以降の対外進出と侵略戦争を『凶暴で貪欲』と彼女が述べていることを忘れてはいけない。彼女は日本の侵略行為を免罪しているのではない。『凶暴で貪欲』と指摘しているのである。 欧米諸国が近代に入って、他民族を抑圧し、植民地化し、領土を拡大していった「帝国主義的行為」(彼女はそんな表現は使っていないが)を彼女は否定する。そうした行為を働いた国々に日本を裁く権利があるのだろうか、と彼女は言っているのだ。
 第一次世界大戦の戦後処理の歴史事実とその後の国際協調の歴史を、彼女は念頭に置いていない、と私は言いたい。第一次世界大戦前の帝国主義的侵略・植民地獲得の行為と第一次世界大戦後のそれとは、同一のレベルで扱うことはできないと私は思う。ともあれ、彼女は自分の著作が悪用されているのを天国で嘆いていることと、私は思う。

 では、パール判事についてはどうだろうか。11名の判事のなかで、確かに一人だけパール判事が無罪の少数意見を出した。このパールの意見は、この裁判を狭い法解釈論のみで論じ導き出したもので、この裁判を矮小化して捉えていると私は思う。

 長くなるので、このパール判事の見解、およびそれに便乗した保守系論客の見解についての分析は、次の投稿にまわしたい。
コメント (7)
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このブログも今日で一周年を迎えました。    ブロク管理・立上人

2006年11月09日 12時54分49秒 | Weblog
 思い返しますと、去年の今日次の様な一文で始まりました。

 「まもる君。久しぶりのクラス会とても楽しかったな。君は相変わらずで驚いたよ学生の頃とソックリだ。悪く言えば進歩無しだぞ。 特に「護憲・九条まもれ!」の演説には辟易したぜ。  現実をよく見てみろよ。中国・韓国とりわけ北朝鮮の脅威をどうかんがえるのかね。今の自衛隊でも日本は守り切れんぜ。そんな自衛隊さえ認めないの?  確かに自衛隊は君の言うとおり違憲だよ。だったら合憲の存在にしようじゃないの。」

 カエル君のこの投稿に「まもるくん」が答え、「和人さん」も登場して議論がもりあがりました。
 その後「倭人さん」「保守系さん」「文科系さん」「落石さん」「平和平さん」なども常連として参加してもらえるようになりました。
 途中、議論の堂々巡りや、感情的な行き違いなどもあり何度か、このブログの在り方、進め方についてのご意見もあり、提案もしました。
 夏場になり、新しく「へそ曲がりさん」「千里眼さん」「飛天さん」「爺老さん」「九条ひかるさん」などのを迎え、ますます賑やかになり、充実もしてきました。
 内容は、憲法問題ゃ九条の会関連記事や、歴史認識・戦争責任・戦後責任・民主主義の評価歴史観などが中心でしたが、「古代史論考」「反戦詩歌ゃ文学」「スポーツ論」「音楽コラム」「中国文化」など多岐にわたる話題が提供されブログに幅が出来てきました。
 提案によつては、「20人」ものコメントが寄せられました。
 コメントと言えば、寄せてくださった人数は数十人になると思います。「キャッチホンさん」「ありまさん」「猫の九ちゃん」「GAGAさん」「鷹子さん」「青狐さん」「右往左往さん」「世間知らずさん」「淑女さん」などなどユニークで真面目なお客さんばかりでした。
 またこの一年間の「投稿数」は490件を超え一日平均1・3件になっています。延べの閲覧数も週に千件を超えており、毎日四・五十人の方が覗いてくれています。「一年持つかねえ?ブログの90%はブログの墓場行きよ。」との友人の冷やかしを思い出します。続けられた事、ほんとうに皆様に感謝しております。
 今後も平和問題を軸にした自由で幅広い主張・交流の場として発展させたいと考えています。
 さて最後に、この日を記念してのお願いですが、今後「どんなブログにすべきか?」についてご批判や提案、感想などいただけたら幸いです。
 では、来年の11月9日どんな世の中になっているか、否どんな世の中にし得たか?を話し合える事を期待して記念のご挨拶を終わります。
 
   
コメント (4)
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