数奇な流転の運命をたどった秋田藩主佐竹家秘蔵の「三十六歌仙絵巻」、その数奇な流転の歴史は、そのまま大正・昭和の日本の激動の歴史と重ね会う。この絵巻物の歴史をたどってみよう。
この優美な佐竹本の模写本(これも極めて貴重で高価)が、斎宮歴史博物館という名古屋人にとっては身近なところに存在している。
写真版で見るかぎり、極めて優美で保存がよい。徳川美術館所蔵の源氏物語絵巻のような色褪は極めて小さい。佐竹家がいかに大切に扱っていたかが想像できる。
大正8年12月21日の「東京朝日新聞」は次のように報道した。
「信実の三十六歌仙
遂に切り売りとなる
総価は三十七万八千円
最高は『斎宮女御』の四万円
昨日、益田邸に数奇者四十余名集合して抽選で分配 あわれ佐竹家の名物も遂に切売の悲運に陥った」 (注:貨幣価値は約1万倍、37万8千円は約40億円に相当する)
日付は忘れたが相当昔に、NHKの特集番組が、この佐竹本の切断事件を取り上げていた。断裁された36枚の歌仙絵のその後の運命をたどった番組であった。私はその数奇な流転の歴史を、大正・昭和の激動の歴史と重ね合わせ、興味深く見たのだ。その取材の裏話も含めて、この番組の内容を記した「秘宝 『三十六歌仙の流転』 絵巻切断」がNHK出版から刊行されると、直ちに購入して読んだのだ。
平安中期、藤原公任によって選ばれた36歌仙、その歌仙一人一人の肖像画の「やまと絵」を藤原信実(と推定されている)が描き、その歌と歌人の略歴を書家後京極良経が書いた鎌倉時代の絵巻が、佐竹本の「三十六歌仙絵巻」である。あまたの歌仙集のなかで最古にして、最高傑作の評価を得ているのが、この佐竹本である。国宝に指定されて当然の貴重な文化遺産である。
この絵巻を佐竹家が手放し競売にかけたのが大正6年、一人で購入できる者がいないので、古物商9人が35万3千円の価格で落札した。売りに出たこの絵巻を海運業・貿易商山本唯一郎氏が購入したが、第一次世界後に破産し売りに出す。しかし、当時、個人で購入できる者はいなかった。
この「三十六歌仙絵巻切断」事件の起こった大正2年、1919年は、第一次世界大戦中の好景気から一転して、不景気の予感に不安を感じ出していた時期である。1918年に米騒動がおこり、1920年に戦後恐慌に入っていく。そうした時代であったのだ。その不安の故に、一人でこの佐竹本を購入できるだけの富豪は見当たらなかったのであろう。
切断され、ばらばらに個人に所有されてしまうと、絵巻としての元の姿は二度と見ることはできない。それゆえ、平家納経の復元模写にあたった第一人者の田中親美が2年の歳月をかけて作成した模写本が100部、皇室、主な皇族や関係者、美術館に寄贈された。
36歌仙の一人、斎宮女御にあやかって伊勢神宮に寄贈されたものが、斎宮美術館に展示されているのであろう。今でも模写製品としては破格の価格で取引されるそうだ。
益田隆は財界のドンであると同時に、古美術界、茶道界に君臨する帝王とも言うべき存在であった。興福寺の仏像77点を買い上げ、知人に譲るなどして、古美術の海外流出を防ぐ努力もしていた。その益田隆(号、鈍翁 元三井合名理事長、三井物産創設者)の1万坪といわれる広大な敷地のなかにある、書斎と茶室のある応挙館(床の間、壁、ふすま、に円山応挙の絵が描かれている。現在、東京国立博物館の裏庭へ移築)に集ったのは、鈍翁のお眼がねにかなった茶道好きの財界人37名である。
団琢磨(三井合名理事長)、原富太郎(富岡製糸・生糸王)、野村徳七(野村證券)、藤原銀次郎(王子製紙設立・製紙王)、高橋義雄(三越初代社長)、馬越恭平(大日本麦酒・ビール王)、住友吉左衛門(住友家当主)、関戸守彦(名古屋の大富豪・大地主、東海銀行の前身関戸銀行創設)、有賀長文(三井合名理事)、岩原謙三(東芝社長)など、錚々たる顔ぶれである。
事前に、合計で購入価格に見合うよう36歌仙の断片に値段をつけた。最高価格は、斎宮女御の4万円(現在の4億円)、次いで小野小町が3万円、小大君2万5千円、柿本人麻呂・藤原敏行と伊勢1万5千円と続く。これを抽選によって分けたのである。有名な歌人紀貫之は破格の安さ3千円(現在の3千万円)である。これは、狩野探幽の補筆が入っているからである。あの狩野探幽の筆(詞書に)が入ると、逆に安くなるというのをどう見ればよいのか。
この断片の最初の所有者から、あまたの変転・流転を経て、現在の所有者の手元に移るのである。そこには大正、昭和の激動の歴史の流れが、そのまま反映されているのだ。その流転の歴史がきわめて興味深いのだ。
特に、太平洋戦争後の財閥解体や過重な財産税のなかで、旧財閥系財界人が急速に富を失っていくなか、新興の富豪たちや地方で堅実に成長していく企業の経営者の手に、移っていったのだ。
「いろ見えで うつろふものは 世の中の 人の心の はなにぞありける」
(口語訳:色にさえ見えないうちに、いつの間にか、はかなく移ろってしまうものは、人の内側に咲いている心の花なのですね)
断片に記されている小野小町のこの和歌の意味を、「心の移り変わり」から「世の中の移り変わり」と拡大解釈(?)すると、この佐竹本「36歌仙絵巻」の流転の歴史を、そのまま歌っているような気がするのである。こじつけすぎだが。
この優美な佐竹本の模写本(これも極めて貴重で高価)が、斎宮歴史博物館という名古屋人にとっては身近なところに存在している。
写真版で見るかぎり、極めて優美で保存がよい。徳川美術館所蔵の源氏物語絵巻のような色褪は極めて小さい。佐竹家がいかに大切に扱っていたかが想像できる。
大正8年12月21日の「東京朝日新聞」は次のように報道した。
「信実の三十六歌仙
遂に切り売りとなる
総価は三十七万八千円
最高は『斎宮女御』の四万円
昨日、益田邸に数奇者四十余名集合して抽選で分配 あわれ佐竹家の名物も遂に切売の悲運に陥った」 (注:貨幣価値は約1万倍、37万8千円は約40億円に相当する)
日付は忘れたが相当昔に、NHKの特集番組が、この佐竹本の切断事件を取り上げていた。断裁された36枚の歌仙絵のその後の運命をたどった番組であった。私はその数奇な流転の歴史を、大正・昭和の激動の歴史と重ね合わせ、興味深く見たのだ。その取材の裏話も含めて、この番組の内容を記した「秘宝 『三十六歌仙の流転』 絵巻切断」がNHK出版から刊行されると、直ちに購入して読んだのだ。
平安中期、藤原公任によって選ばれた36歌仙、その歌仙一人一人の肖像画の「やまと絵」を藤原信実(と推定されている)が描き、その歌と歌人の略歴を書家後京極良経が書いた鎌倉時代の絵巻が、佐竹本の「三十六歌仙絵巻」である。あまたの歌仙集のなかで最古にして、最高傑作の評価を得ているのが、この佐竹本である。国宝に指定されて当然の貴重な文化遺産である。
この絵巻を佐竹家が手放し競売にかけたのが大正6年、一人で購入できる者がいないので、古物商9人が35万3千円の価格で落札した。売りに出たこの絵巻を海運業・貿易商山本唯一郎氏が購入したが、第一次世界後に破産し売りに出す。しかし、当時、個人で購入できる者はいなかった。
この「三十六歌仙絵巻切断」事件の起こった大正2年、1919年は、第一次世界大戦中の好景気から一転して、不景気の予感に不安を感じ出していた時期である。1918年に米騒動がおこり、1920年に戦後恐慌に入っていく。そうした時代であったのだ。その不安の故に、一人でこの佐竹本を購入できるだけの富豪は見当たらなかったのであろう。
切断され、ばらばらに個人に所有されてしまうと、絵巻としての元の姿は二度と見ることはできない。それゆえ、平家納経の復元模写にあたった第一人者の田中親美が2年の歳月をかけて作成した模写本が100部、皇室、主な皇族や関係者、美術館に寄贈された。
36歌仙の一人、斎宮女御にあやかって伊勢神宮に寄贈されたものが、斎宮美術館に展示されているのであろう。今でも模写製品としては破格の価格で取引されるそうだ。
益田隆は財界のドンであると同時に、古美術界、茶道界に君臨する帝王とも言うべき存在であった。興福寺の仏像77点を買い上げ、知人に譲るなどして、古美術の海外流出を防ぐ努力もしていた。その益田隆(号、鈍翁 元三井合名理事長、三井物産創設者)の1万坪といわれる広大な敷地のなかにある、書斎と茶室のある応挙館(床の間、壁、ふすま、に円山応挙の絵が描かれている。現在、東京国立博物館の裏庭へ移築)に集ったのは、鈍翁のお眼がねにかなった茶道好きの財界人37名である。
団琢磨(三井合名理事長)、原富太郎(富岡製糸・生糸王)、野村徳七(野村證券)、藤原銀次郎(王子製紙設立・製紙王)、高橋義雄(三越初代社長)、馬越恭平(大日本麦酒・ビール王)、住友吉左衛門(住友家当主)、関戸守彦(名古屋の大富豪・大地主、東海銀行の前身関戸銀行創設)、有賀長文(三井合名理事)、岩原謙三(東芝社長)など、錚々たる顔ぶれである。
事前に、合計で購入価格に見合うよう36歌仙の断片に値段をつけた。最高価格は、斎宮女御の4万円(現在の4億円)、次いで小野小町が3万円、小大君2万5千円、柿本人麻呂・藤原敏行と伊勢1万5千円と続く。これを抽選によって分けたのである。有名な歌人紀貫之は破格の安さ3千円(現在の3千万円)である。これは、狩野探幽の補筆が入っているからである。あの狩野探幽の筆(詞書に)が入ると、逆に安くなるというのをどう見ればよいのか。
この断片の最初の所有者から、あまたの変転・流転を経て、現在の所有者の手元に移るのである。そこには大正、昭和の激動の歴史の流れが、そのまま反映されているのだ。その流転の歴史がきわめて興味深いのだ。
特に、太平洋戦争後の財閥解体や過重な財産税のなかで、旧財閥系財界人が急速に富を失っていくなか、新興の富豪たちや地方で堅実に成長していく企業の経営者の手に、移っていったのだ。
「いろ見えで うつろふものは 世の中の 人の心の はなにぞありける」
(口語訳:色にさえ見えないうちに、いつの間にか、はかなく移ろってしまうものは、人の内側に咲いている心の花なのですね)
断片に記されている小野小町のこの和歌の意味を、「心の移り変わり」から「世の中の移り変わり」と拡大解釈(?)すると、この佐竹本「36歌仙絵巻」の流転の歴史を、そのまま歌っているような気がするのである。こじつけすぎだが。