九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―⑦―

2011年05月12日 23時00分43秒 | Weblog

(8)もし「本土決戦」が行われていたら

 「本土決戦」とはどういうものであったか?国民の前にはどんな運命が待っていただろうか。戦争があと半年、1年続いていたらどうなっていたかということです。それは「狂気」の時代でした。

 1845年6月、連合軍には「沖縄戦」以後の作戦計画が出来上がっていました。「ダウン・フォール作戦」と呼ばれています。

 作戦は2つに分かれていました。1つは45年11月に九州へ上陸するという「オリンピック作戦」、もう一つは46年3月に関東平野に上陸して日本を分断するという「コロネット作戦」です。

 一方、日本側はこのことを知っていました。対抗する作戦を、陸軍は「決号作戦」、海軍は「天号作戦」と名づけていました。国民には「本土決戦」・「一億総特攻」・「一億玉砕」というスローガンが呼びかけられました。

 具体的にはどんな対策だったのか、その一部を紹介します。

 45年6月に「義勇兵役法」が制定されました。「国民皆兵」です。終戦の2ヶ月前でした。中を見ると、「勅令」という言葉がやたら目立ちます。天皇の命令ということです。

 何しろ《人間の姿をした神様》の命令ですから、拒否すれば罰則が付きます。どんな罰則か。2年以下の懲役と言うことになっていますが、現実性が全く無い。戦争が1年も2年も続くと思ったのでしょうか?しかも全土が戦場です。どこへ収容するのか。

 全員が「軍人」であるから、「陸軍刑法」が適用されて「死刑」判決を受け、その場で「銃殺」されたのではないかと思います。 

 大本営陸軍部は「国民抗戦必携」という小冊子を配布していました。そこには国民が用意すべき武器が書かれています。→刀剣、槍、竹槍、鎌、玄能、出刃包丁、鳶口・・・・。

 出刃包丁を手に、槍ぶすまのように並んだ機関銃や火炎放射器、さらには戦車に向かって突撃して行く姿を想像してください。地獄です。

 特攻攻撃機としては「剣」甲型(キー115)や「タ号特別攻撃機」の生産を急がせていました。主翼以外の材料は鋼管、ブリキ、ベニヤ板などの簡単に手に入るもので作られました。1回使えばよいのです。

 離陸したら車輪が脱落してしまうようになっていました。着陸など必要なかったからです。操縦性は最悪で、とても扱いきれるものではなく、実用化のための改修中に終戦になりました。

 海軍も考えました。潜水服を着用した兵士を海中に忍ばせ、棒の先に爆薬を装備し、侵攻して来た敵の上陸用舟艇を下から突き、自分もろとも爆破させようという作戦です。爆雷の数発も投下されたら全滅です。

 なお、作戦決行の前に、足手まといになる赤子、幼児、老人などは「殺害」する計画もありました。45年4月に大本営陸軍部が出した「国土決戦教令」に明記されています。

 「青酸カリ」を飲ませるのです。私の町内ではそれが配られるのを見ています。そのときは分からなかったのですが、大人になってから分かりました。

 こんな作戦が真面目に検討されました。「1億総玉砕」だから、国民の命などどうでもよいのです。「民族抹殺作戦」です。

 これは決して架空の話ではありません。戦争があと半年、1年と続いていたらこうなった筈です。私など、1946年以前に生まれていた人は今日、全員生きてはいませんね。それ以後に生まれた人は・・・・生まれている筈がありません。

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憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―⑥―

2011年05月12日 22時58分27秒 | Weblog

(7)学童疎開の体験

 空襲があった後、学校ごと「疎開」という引越しをしました。子どもは邪魔であるということと、食糧が足りないというのがりゆうだったようです。

 親戚などを頼って個人的に引越しをする子もいました。こちらを「縁故疎開」、学校ごと「疎開」することを「集団疎開」と呼んでいました。

 私の場合、「集団疎開」でした。三重県の一志郡のある村ですが、この村へ分散して生活するわけです。学校は現地の学校に入るのですが、ここではひどい目に遭いました。

 四男の兄が入れ替わりに卒業して名古屋に帰ったのですが、これがどうも相当な「いじめっ子」だったらしい。”○○の弟がやって来やがった”ということで、今度は私がひどい虐めに遭いました。

 惨めだったのは、近くの寺の本堂で一斉に食べる食事です。少ない量なのに、それを上級生たちが”少し頂戴ね”と言って、入れ替わり立ち替わりに取って行ってしまう。しまいには1口分しか残りません。すぐそばに先生がいたのですが、何も言ってくれません。知っていたはずだと今でも思っています。

 もっと惨めだったのは、親たちが時々日用品や食べ物を持って見舞いに来たときのことです。全員の親が来るのではないのです。見舞い品を持って来られる家だけです。

 3間か4間続きの部屋の真ん中に親が車座になり、横に座った自分の子に持ってきたものを食べさせる。食糧難の時代ですから、我々にくれるはずがありません。来てもらえなかった子たちは空腹のまま外へ行くのです。見たくはないからです。

 夜は最も悲惨です。彼らは見舞いの品の食べ物が亡くなるまで、連日のように車座になってパーティを開きます。

 リーダーが”乾杯!”と叫び、一口ごとにわれわれに見せびらかしながら食べるのです。

 われわれは壁を背にして座ったままそれを見ているのです。仲間入りのできなかった6年生の上級生が”見るな!見るな!”と囁くように怒鳴るので、パーティが終わるまで、じっと下を向いたまま過ごすのです。

 4年生に荻野君という子がいました。いじめられっ子だったのか、よく上級生に殴られていました。この子がよく私を庇ってくれました。

 先生の居室には「乾パン」の入った箱が一杯あったのです。配ってもらった記憶は全くありません。彼は先生の部屋に忍び込んでいくつかを盗んで来るのです。私の手を引い近くの畑の中に入り、そこで食べさせてくれました。こうやって少しではありましたが、飢えを凌いだものです。

 私の様子を知ったのか、母が迎えに来てくれました。しばらく名古屋にいた後、島根県の母の実家へ姉と疎開しました。ここで終戦を迎えています。

 そこでも嫌な体験をしました。田舎の学校で1年生1学級だったのですが、ある日、学級に「雨合羽」が3着支給されたのです。籤引きの結果、1着が私に当たったのです。雨降りの日には藁で作った「蓑」を被って通学していた私にとって、これは天にも上るような嬉しい気持ちでした。

 途端にクラスの子たちから抗議が出されたのです。曰く、”町から来たばかりの者が貰って、前からいた者が貰えないのはおかしい”ということです。

 1着分について直ちにやり直しになりました。私は籤引きに参加できないのです。《よそ者》という扱いだったのです。このような仕打ちをたびたび受けました。

 戦争は人間の心をこんな風に歪めてしまうのです。これも思い出したくない出来事の一つです。

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憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―⑤―

2011年05月12日 22時55分55秒 | Weblog

下前津あたりがまだ燃えていないので、そこを通り抜けて鶴舞公園を目指しました。と友、家々の前にあった防火用水を何度も頭から掛けられました。ものすごく臭かった印象です。機銃掃射を受け、何度も汚い溝の中に突き落とされたような記憶もあります。

 後に読んだ本で、空襲した地域の1ヶ所だけをわざと空けて、そこを通り抜けようとした人に機銃掃射を浴びせるという記事があったことも覚えています。

 やっと、鶴舞公園に来たもののl、長兄はここへ入ることを許しませんでした。”ここは高射砲陣地がる。爆撃されるかもしれない。”ということです。

 北の方へ逃げ、東新町まで来ました。この辺りは少し前に空襲を受けたのでしょう。焼け残ったビルがいくつかあったのですが、ここなら安全と思ったのか、その中の一つに入りました。

 すでに、何人かの人がいました。ひとりのおばさんが、”持ち出すことが出来たのはたったこれだけだった。”と言ってコンロと食パンを見せてくれました。

 ”坊やたちも食べるかい”と言って、ちぎって焼いたパンをくれました。とてもおいしかったことを覚えています。

 やがて空が明るくなったので、家へ戻ることにしました。私の家はもちろん、辺りの家も全て焼け落ちています。

 防空壕を見てびっくりしました。「ぺしゃんこ」に潰れていました。逃げずにそこにいたら、私の命は7歳で終わっていたでしょう。

 近所に父の兄夫婦がいました。ここも命令で建物が壊されていたのですが、奥の「蔵」だけが残され、伯父夫婦はそこに住んでいました。

 父と母はそこにいました。消火の際の煙と炎のせいか、一時的ですが、母は眼を開けることができませんでした。塞がった目から涙が出ていました。”何もかも無くなってしまった”と泣いていた光景がまだ目に浮かびます。

 島根県の母の実家におくろうと準備をしていた荷物は全て燃えてしまいました。残ったものは避難した際、兄たちが引いていた乳母車の下着などと、空襲の数日前に母が庭の一隅に埋めた食器だけでした。

 父の会社の上司の家が昭和区の高辻と滝子の中間にありました。当面そこの家の一部屋を借りて住むことになりました。

 ところが、この辺りは「日本碍子」などの工場がたくさんありました。当時は軍需工場にされていました。1週間後の3月19日の深夜、この地域が空襲を受けました。

 上司の家は建物の下に防空壕が掘られていました。でも、父はここへ避難しることを許しませんでした。もし、家が燃えたら、中に入った人間は「蒸し焼き」になてしまうからです。

 といって、入るところがありません。少し離れたところにある小さな空き地、小公園ともいえるところでしょうか、そこへ避難しました。

 空が丸見えです。近所の人が運び込んだ家具の間から空を見上げているのです。急降下してくるB29の機体が炎を反射して真っ赤になっていること、焼夷弾が花火のように降り注ぐ光景を覚えています。

 少し離れたところにたくさん落ちたのですが、直撃を受けたら即死です。死んじゃうのかなあと思ったりしました。

 幸いにも助かり、家へ戻ったら、上司の家はほとんど焼けていました。もし、防空壕に入っていたらと思うとゾッとします。

 この空襲の夢は60年以上たった今でも夢に見ます。しかも、カラーです。目が覚めると体中が汗びっしょりになっています。

 わたしの平和への願いのささやかな原点がここにあります。《戦争は2度とごめんだ。何としても「9条」を守りたい》と願うものです。若い人たちがこんな体験をされないよう、心から願っています

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またまた、九条改憲の動き  平 和平

2011年05月12日 19時55分42秒 | Weblog

新聞報道によれば、民主党は10日の常任委員会で、党憲法調査会を設置し、前原誠司前外務大臣を会長にしました。
 前原さんは、民主党内の改憲・タカ派リーダーで、改憲運動をするためにつくられた新憲法制定議員同盟(会長:中曽根康弘元首相)の副会長に2008年から就任、外相当時(憲法99条違反)も含め、現在も副会長に在職しています。
 前原さんは「96条を改正(改悪)してハードルを低くすべきだ」また、「現在の憲法には緊急事態に関する規定がない、有事には個人や地方に従ってもらう必要があり、お願いベースではうまくいかない」などと話し、震災や原発事故を利用して、個人の権利や地方自治を抑え込む、強権的な体制整備(自民党の新憲法草案の考え方)をつくり上げることを明らかにしました。
 岡田幹事長は「前原さんのもとで憲法論議(言うまでもなく改憲)をしっかりしていく」と発言し、民主党関係者は「これで衆参両院の憲法審査会が動くことになる」と語ったそうです。
 民主党は、今週にも参議院で憲法審査会の規定の議決を行う、ことにしており、自民党などは、衆参両院で憲法審査会の委員の選任を進め、両院で審査会を始動させることを狙っています。
 民主党の改憲の動きは、政権交代の時に「自公政治からの脱却」を期待した国民を裏切るものであり、恒久平和を求める「平和憲法」をないがしろにする行為です。
 このような民主党、自民党の≪憲法改悪大連合≫の動きを多くの国民に知らせ、平和の声を大きくしないと、大震災・原発事故を逆手にとり、国民を縛り付ける憲法がつくられ、戦争をする国日本ができあがる恐れが十分あります。
 昭和区九条の会をはじめ、全国の九条の会がより一層、護憲・平和運動を繰り広げ、警鐘を鳴らす必要があるのではないかと思います。
                 

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改憲の動き、加速:改憲発議条件の緩和               平 和平

2011年05月12日 19時52分13秒 | Weblog

| Weblog改憲発議を3分の2→2分の1に!

 改憲派の自民党、民主党の改憲推進の国会議員は、5月中に憲法96条の改定をめざす『憲法改正議運』(仮称)を発足させる方向で活発に動きだしました。
 同議運の設立趣意書には「国会の発議要件を緩和することにより、国会が柔軟に憲法改正を提案することができるようにする必要がある」と設立の目的を明記しています。
 今年の憲法記念日では、9条改憲派のいくつかのグループは「96条緩和(3分の2を2分の1)」で足並みを揃えました。
 その理由は「96条改定を先行して提案し、与野党の意見が整わず動き出せないでいる衆参憲法審査会における実質審議を促し、国会に改憲発議をしやすい環境をつくることだ」と議運関係者は述べています。
 同議運の計画では『いまの通常国会に96条の改定案を提出し、今年中の成立をめざす』としています。そして「96条を改正した後、それから総定数500人の一院制(参議院をなくす)、そして憲法9条を改定する。これらを果たしていくのが国会の役目だ」と下村博文元内閣官房副長官は発言し、本当の狙いは憲法9条であることを明らかにしています。
 『憲法改正議運』(仮称)の中心には、靖国派グループの「日本会議国会議員懇談会」、超党派の「創生日本」(会長:安倍晋三元首相)や自民党政策集団「のぞみ」(山本有三元金融担当相)などの改憲グループがいます。同議運は、議運発足に合わせ、改憲提案に必要な衆議院100人、参議院50人の賛同者の確保をはかる計画です。

 改憲派の議員は、未曾有の大災害に中で国民が災害復興や原発事故に関心を持っているうちに一気に「改憲」をしてしまおう、という魂胆のようです。
 私たち、護憲を志す人間は、「大災害で憲法がどんな役割を果たせるのか?」などと善意で悩み、人によってはむなしさを感じている人もいます。しかし、日本を「戦争ができる国」にしたい「改憲派」の方々は、そのような心は持ち合わせていないようで「いまがチャンス」と言わんばかりに改憲の態勢をつくりあげることに腐心しています。
 私たちは、「オトモダチ作戦」で海兵隊を売り込むアメリカ、10万人体制で自衛隊を売り込む(災害支援を評価するが)日本政府、戦争で儲けようとする軍需産業など、隙あらば・・・「戦争の放棄」を葬り去ろうとしている勢力を相手にしていることを忘れてはいけない。のではないでしょうか。

 未曾有の大災害は、「原発の安全神話」などをはじめ、いままでの日本(政府・企業の論理)に疑問を持つ、国民を多くつくりだしました。そのような時だからこそ「憲法の民主的条項(国民の権利)」を大いに活かして日本を平和憲法が輝く国とするための絶好の機会でもあると思います。
 英知を結集し、積極的に日本のあり様を発信することが大切ではないかと思います。
 改憲派が望むような「戦争をする国」にしないためにも、もっと、もっと平和の声を大きくしましょう。

 

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官僚の宝刀と放送法の改定の狙い      らくせき

2011年05月12日 19時32分49秒 | Weblog

なぜ外務官僚は売国的になってしまうのか?

ウッキリークスが明らかにした高級外務官僚の
対米従属姿勢は、なぜ、生まれるのか?

外務省のなかには、米・露・中の派閥があり、
それぞれが担当国に人脈を築くことに懸命になる。
それが出世への階段を登ることになるのだから。

自民党政治が長期にわたって、米派閥が出世頭に。

ところが自民党が行き詰って民主党に。
民主党の官僚政策が、彼らの利益を侵犯する方向に。
その粗末さもあって、米・派閥が打倒民主に動き出した。

しかし優秀な官僚には、考えてもらいたい。
国民は民主党を選んだのだ。
最低の愛国心くらい持ってもらいたいものである。

官僚が、なぜ、こんなに強いのか?
その源泉は情報が、まず、官僚のところに集まるように
出来ているから。
世論を誘導するために、よく行われるように、
情報を部分的に出していく。
今回の原発事故でも、情報操作が行われたことは間違いない。
通産官僚たちの利益を守るために。
それによって、国民の生命や財産が危険に陥ったとしても・・・

民主主義の根っ子は、情報の公開にあることを改めて痛感せざるを得ない。

せっかく情報公開制度が出来ても、実態は、依然として
変わらない。むしろ不便になった。
でも官僚は、一向に改善しようとはしない。
彼らの権力の源泉にひとつだから。

これは近代国家が出来た時からの課題。
憲法のひとつの役割は、こうした事態から国民の権利を守ること。
国家の行動の一定の規制を加えるものとして進化してきた。

ところで、ブログを楽しんでいる私達ですが、
現在の憲法の表現の自由に守られています。

戦前の検閲時代だったら、不敬罪で、警察に引っぱられるような投稿も可能です。

しかし・・・

安穏としてはいられないかも知れない事態が忍び寄っています。

それは放送法の改定。

細かいことはよく分かりませんが、おおまかに説明します。

☆これまで、放送はテレビ・ラジオ。インターネットは通信に分類されていました。
 
☆放送は法の規制のもとにあります。通信は私的な通信ということで法の規制を受けることなく、
 表現の自由を保障されていました。

★改定では、結論を先取りしていえば、インターネットも放送のなかに含まれて、
法の規制を受ける可能性が生まれたことになります。

☆と、いっても直ちにではありません。いかにも官僚らしいワナがつくってあるそうです。
まず、放送を①基幹放送(これまでの放送)②それ以外は一般放送。
ひろくいえばインターネットのニコニコ動画などは、この一般放送にあたります。
一般放送のなかの「登録が必要でない」放送。

誰が、そう決めるのか?総務省です。
総務省が登録するかどうかを決める、つまり総務官僚の匙加減次第ということです。
問題があると判断すれば、総務省は登録を求めて、規制を加えることが出来るわけです。

☆さらに狡猾なのは、非放送という項目もあり、これも総務省が定めるということ。
放送か、放送でないのか?この判断も総務省にある・・・
すべてに法の網をかけようという作文です。

ブログを放送であるか?放送でないか?は総務省が決めます。
登録が必要かどうかも総務省が決めます。

自由な言論に法の規制をかけようという狙いがあるようです。

 

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  原発は安くなかった!      只今

2011年05月12日 18時14分47秒 | Weblog

 テレビ朝日「モーニングバード」の木曜日には、「玉川徹のそもそも総研」というコーナーがある。

 12日のテーマは、「原発は安いというが、本当か」。

 ●先ずは小出祐章さんがインタビーに答えて曰く、「とんでもありません」。

 

 ●そこで玉川氏は、かねてから流布されている原発料金について疑義を呈している大島堅一(立命館大)教授を訪ねて判ったことは、次のようなことだった。

 電事連公表の値は、【原子力5、3円】 【火力6、2円】 【水力11、9円】 。

 これは一定のモデルを使ってはじき出した数字であるが、

 

 これに対して大島教授は、仮定ではなく、40年間の実績(有価証券報告書)をもとに計算。

 その結果は、【原子力10、68円】 【火力9、9円】 【水力7、26円】。

 

 ●次に、原発料金に関する基礎資料を調べているという河野太郎(自民党議員)を訪問。

 太郎議員曰く、「経産省にバックデーターを見せてほしいと言うと、出されてきた資料にはあちこち黒塗りされているので、理由を聞くと、電力会社の企業秘密に当たる所は開示できない、とのこと。これまで放っておいた自民党も反省すべきだが、野党であった民主党もそこを指摘することはなかった。」

 ●玉川徹氏は、「メディアの責任も大きい」

 ●管内閣と民主党は、何故このことを避けているのでしょうか。

 ●多くの人が心配しているのは、玉川氏に圧力がかかること。皆で見守っていきたい、と。

 

 

 

 

 

 

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中日、原発賠償案に「根本的再考を」と   文科系

2011年05月12日 06時16分33秒 | 国内政治・経済・社会問題

中日、原発賠償案に「根本的再考を」と   文科系

  本日12日中日新聞朝刊は、7面社説において標記の主張を書いた。拙稿で昨日述べたのとほとんど同一の主旨であって、当然至極の内容と読んだ。このマットウサを貫かぬ政府は、本当におかしい。歪んでいる。その歪みの出所を、この社説は、末尾でこう結論づけている。
『賠償案は東電と癒着した霞ヶ関と金融機関の利益を優先してつくられた産物だ。根本から再考を求める』
 この内容全体を、要約する。

①先ずこういう。『被災者には十分な補償が必要だ』。次いで、こうも語る。『東電をつぶせば電力供給が止まるわけでもない』。こういう基本方向を示した上で、こんな原則的合理的な解決案を提示する。
②まず『東電と株主、社員、取引金融機関ら利害関係者が最大限の負担をする。それが株式会社と資本市場の原理原則である』。これに関連して、政府案をこう切り捨てる。『株式の100%減資や社債、借入金債務のカットも盛り込まれていない』。
③このように、破綻している東電はもう潰せと語った上で、社説の原則的提案はこうだ。

『銀行再建でも使われた一時国有化の手法は、東電再建でも十分に参考になるはずだ』
『発電分野は新規事業者に門戸を開く一方、旧東電の発電事業は民間に売却する』

 初めにも述べた通りに、至極まっとうな案だと思う。
 こんなまともな案を避けて税金負担というのでは、そんな政府は、東電や霞ヶ関を免罪しているのと同じではないか。結局、彼らにはなんのお咎めもなしと、そうするつもりがありありなのである。資本主義社会の自己責任、「リスクを取れ!」は、一体どこへ行ったのか。

 なお、本日の中日新聞にはもう一つ、今後の原発政策再考に関わってくる極めて重要な記事が載っている。3面の「地震学 覆った常識」である。要約すると
 今回の大地震で、地震学者たちの30年余の常識が覆った。地震が少ない地殻プレート境界は、地震エネルギーがたまっていない場所だと考えられてきたのだが、全く逆であった。
『(そういった)境界は小さな地震も起きないほど強くくっつき、巨大な破壊力をため込んでいた』
 よって、東海、東南海、南海だけではなく、今まではエネルギーがたまっていないと考えられていたプレート境界で、巨大地震の可能性が出てきたと語るのである。伊豆・小笠原海溝や沖縄を含む南西諸島海溝にも、巨大地震の可能性が出てきたということだ。

 とは言え、東海、東南海、南海の地震は明日起こっても不思議はない。そういう事態には、何の変わりもない。しかも、この三つの地震が連動する可能性があることも。すると、今回の地震よりもさらに大きな地殻変動となるということだ。 

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