(8)もし「本土決戦」が行われていたら
「本土決戦」とはどういうものであったか?国民の前にはどんな運命が待っていただろうか。戦争があと半年、1年続いていたらどうなっていたかということです。それは「狂気」の時代でした。
1845年6月、連合軍には「沖縄戦」以後の作戦計画が出来上がっていました。「ダウン・フォール作戦」と呼ばれています。
作戦は2つに分かれていました。1つは45年11月に九州へ上陸するという「オリンピック作戦」、もう一つは46年3月に関東平野に上陸して日本を分断するという「コロネット作戦」です。
一方、日本側はこのことを知っていました。対抗する作戦を、陸軍は「決号作戦」、海軍は「天号作戦」と名づけていました。国民には「本土決戦」・「一億総特攻」・「一億玉砕」というスローガンが呼びかけられました。
具体的にはどんな対策だったのか、その一部を紹介します。
45年6月に「義勇兵役法」が制定されました。「国民皆兵」です。終戦の2ヶ月前でした。中を見ると、「勅令」という言葉がやたら目立ちます。天皇の命令ということです。
何しろ《人間の姿をした神様》の命令ですから、拒否すれば罰則が付きます。どんな罰則か。2年以下の懲役と言うことになっていますが、現実性が全く無い。戦争が1年も2年も続くと思ったのでしょうか?しかも全土が戦場です。どこへ収容するのか。
全員が「軍人」であるから、「陸軍刑法」が適用されて「死刑」判決を受け、その場で「銃殺」されたのではないかと思います。
大本営陸軍部は「国民抗戦必携」という小冊子を配布していました。そこには国民が用意すべき武器が書かれています。→刀剣、槍、竹槍、鎌、玄能、出刃包丁、鳶口・・・・。
出刃包丁を手に、槍ぶすまのように並んだ機関銃や火炎放射器、さらには戦車に向かって突撃して行く姿を想像してください。地獄です。
特攻攻撃機としては「剣」甲型(キー115)や「タ号特別攻撃機」の生産を急がせていました。主翼以外の材料は鋼管、ブリキ、ベニヤ板などの簡単に手に入るもので作られました。1回使えばよいのです。
離陸したら車輪が脱落してしまうようになっていました。着陸など必要なかったからです。操縦性は最悪で、とても扱いきれるものではなく、実用化のための改修中に終戦になりました。
海軍も考えました。潜水服を着用した兵士を海中に忍ばせ、棒の先に爆薬を装備し、侵攻して来た敵の上陸用舟艇を下から突き、自分もろとも爆破させようという作戦です。爆雷の数発も投下されたら全滅です。
なお、作戦決行の前に、足手まといになる赤子、幼児、老人などは「殺害」する計画もありました。45年4月に大本営陸軍部が出した「国土決戦教令」に明記されています。
「青酸カリ」を飲ませるのです。私の町内ではそれが配られるのを見ています。そのときは分からなかったのですが、大人になってから分かりました。
こんな作戦が真面目に検討されました。「1億総玉砕」だから、国民の命などどうでもよいのです。「民族抹殺作戦」です。
これは決して架空の話ではありません。戦争があと半年、1年と続いていたらこうなった筈です。私など、1946年以前に生まれていた人は今日、全員生きてはいませんね。それ以後に生まれた人は・・・・生まれている筈がありません。