官僚支配の大量破壊兵器こそ、その記者クラブなのである。今回のこの事件ほど、このことが如実に示されたものは珍しのではないか。経産省が政府の原発賠償方針を支配しようとして内閣を相手に起こした反乱オフレコ発言。それを長谷川が暴露して起こった、経産省と長谷川幸洋の壮絶バトル! その意味を、長谷川幸洋は、こう語る。
【 都合の悪い記者を排除するための制度
もしも懇談禁止処分が本当であるとしたら、とんでもないことだ。 まず、新聞社の編集取材部門と論説部門は相互に独立している。それは論説の主張内容が編集取材部門に影響を及ぼしてしまうと、取材報道の客観性、中立性が損なわれる恐れがあるからだ。 社によって多少のニュアンスの違いはあるが、少なくとも東京新聞は完全に相互の独立を保ち、尊重している。責任者も組織も違うし、編集の人間が論説の討論会議に出ることも、その逆もない。論説は担当役員を通じて事実上、社長直轄でもある。
だから、論説委員の主張内容が原因で編集取材部門の活動に影響を及ぼすような事態、あるいはその逆も、少なくとも東京新聞の側にはありえない。 役所の広報責任者ともなれば、それくらいは常識である。 ところが、経産省は私の記事内容を理由に現場の取材記者に懇談禁止処分を課した。「編集と論説が独立している事情」は百も分かっていて、あえて断行したのである。それはなぜか。
簡単に言えば、同じ会社の人間を処分することによって、私に圧力をかけようとしたのである。サラリーマンなら分かるだろう。「お前のせいで、とんだとばっちりだ。どうしてくれるんだ」というさざ波を誘発し、黙らせるという戦法である。上司に文句を言っても効かなかったから、今度は仲間たちから文句を言わせようという話だ。分かりやすいが、卑劣である。誤解のないように明言しておく。私は社内でいっさい、そうした苦情や文句は受けていない。ただ、こういう展開になって私に忸怩たる思いがあるだけだ。 同じ会社の縦と横から記者に圧力をかけ、黙らせるという手法はたいていの場合、きわめて有効である。なぜなら記者もサラリーマンだからだ。
役所の側から言うと、こうした手口を有効にするためにも、マスコミ対応というのは「役所vs新聞・テレビ」というように組織同士の枠組みにしておくのが絶対原則になる。相手が組織の人間でなければ、縦横の圧力は効かせようがないからだ。だからこそ「記者クラブ」という制度は、なによりも役所側の事情で本質的にフリーランス記者を排除する。それでは、なにかあったときに記者を干し上げようにも干し上げようがないからだ。記者クラブという制度は記者の側が取材を便利にする仕組みである以上に、実は役所が政策宣伝をする仕組みでもある。記者に都合のいい記事を書かせ、都合の悪い記者は排除する。そのための制度なのだ。
論説委員懇談会という体裁は違っても、役所にとっては初めから政策宣伝の場に変わりはない。だから論説委員がオフレコ破りに出れば、記者クラブから記者を締め出す。どちらにせよ「オレたちに都合のいい記事を書け」という話なのだ。
ジャーナリストの原点
かつて小沢一郎元民主党代表が土地疑惑事件で結局、不起訴処分になったとき、検察には説明責任があると考えて、私は小沢不起訴を発表する記者会見への出席許可を求めた。すると検察は「記者クラブ向けの会見なので、クラブの同意をとってほしい」と言ってきた。それで別途、検察の責任者にインタビューを申し込むと「質問があれば、東京新聞の記者を通じて質問してほしい」と逃げた。(コラム『小澤問題で問われるマスコミのビジネスモデル」』)
これも同じである。役所は個々のジャーナリスト、論説委員を相手にせず、記者クラブという枠組みを通過させることで、いざといういうとき、組織に縦横から圧力をかける余地を残すのである。これでは言論に「会社の枠」がかかってしまい、本当に自由な言論が成立しない。
オフレコ破りかどうか、という話も「ルールを破ったかどうか」が本質ではない。それでは、まったく表面的にすぎる。「そのルールがだれのために運用されているのか」という根本から考えるべきなのだ。先のコラムで書いたように「官僚のオフレコ」は官僚が姿を隠して、世論誘導する手口である。役所の利害優先であって、国民の利害優先ではない。私は「オフレコ話の内容が国民の側に立っている」ならルールを守る。役所の利益を守るためなら、初めから無視する。「これを出所不明にして書けば、官僚が喜ぶだろうな」という話を喜々として書くような記者は「ルールを守った記者」ではあるだろう。だが、それではジャーナリストの原点はどこに行ってしまうのか。
それにしても、あらためて思うのはネットの威力だ。新聞やテレビというマスコミは言うまでもなく組織のメディアである。ところがネットは、ごく少人数で情報発信できてしまう。こういうメディアで発信するジャーナリストには社内の縦も横もない。したがって役所が陰湿な圧力をかけようにもかけられないのだ。
フリーランス・ジャーナリストたちの努力には頭が下がる。組織メディアの一員として、せめて戦うチャンスが来たときくらいは精一杯、戦っていきたい。(文中敬称略) 】