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「世界同時多発財政恐慌」に思ったこと  文科系

2011年08月07日 13時08分31秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)

 表題の「恐慌」表現は、7日中日新聞7面、同志社大学の浜矩子教授が寄稿した「真夏の夜の正夢」で焦点に置かれたものだ。要約すると、こんな内容である。
世界同時多発金融恐慌ならぬ、標記の恐慌が今世界に起こっている。ギリシャが国家財政の破綻処理に入っていると言えるし、こう表現されたアメリカ国家はとうとう、その国債格下げを格付けされた。
『もうこれ切りといいながら、親戚一同に繰り返し無心して回る借金男』

 日本はと言えば『借金相手のあらかたが身内である』から『カネ返せとは言われないだろう』が、『こんなことしか当てにできないなら、事実上の禁治産者だ』。こう決めつけられている。

 さて、この寄稿文の結びの直前に、近ごろちょっと珍しい視点、表現がついている。
『リーマン・ショックは世界同時多発金融恐慌だった。世界同時多発財政恐慌と、どっちが怖いか。後者に決まっている。なぜなら、レスキュー隊(金融恐慌を救うための国家財政出動をば、浜が経済的救援隊に例えた表現であるーー文科系の注)が遭難してしまえば、もう誰もレスキューに来てはくれないからだ。かくして、国境無きグローバル時代に、国境を越えられない国家という存在は、消滅の道をたどるほかはないのか』
 さて、ここの後段で述べられている「国家消滅」の視点が非常に興味深かった。ちょうど、古賀茂明の「日本中枢の崩壊」を一通り読み終って感じていた根本的疑問にぴったり合うのである。古賀のこの著作も、「世界同時多発財政恐慌」(への歴史的経過)と闘ってきた報告書といえるものであるが、学者である浜に比べればやはり「実践家の視野だろう」と僕には根本的に不満だったからである。どうしても「一国家の中の視野」「不可能を可能にしようとしているやりかた」という感じが拭いきれなかったのである。「アメリカが借金を返せなくなりそうだ。すると日本は途方に暮れるだろうが、一体どうなってしまうのか」と、こういう論点が存在しないのである。

 経済学の歴史で、ケインズのような「需要」派に対して、サプライサイド(供給側)経済学が優位に立ち始めたのは、1980年代、サッチャー、レーガンの前後からのことだ。レーガノミックスが巨大な財政赤字から失敗に終ったことは歴史的に有名であるが、その後も供給側に立つ新自由主義経済学がわが世の春にあったことには変わりはない。この財政学の下で、各国家財政を駆使して供給側を「オンブにダッコ」で助長してきたことは明らかだ。これも結局不景気、財政てこ入れの連続であって、やがてその破局が、日本の住宅バブル、アメリカのサブプライムバブル。
 このような経過、事態が招いたものこそ、この「世界同時多発財政恐慌」だったのだと言えると思う。
 同じ過ちを何度繰り返すのだろう。発想の転換はできないものなのだろうか。「物が売れていかない」から供給側ばかりを助けなければならぬというわけでもないだろう。餓死する人々が世界に無数にいたり、アフリカや中米のハイチ、アジアなどでは水路や病院などインフラ整備が渇望されているはずだ。今朝の新聞にもこんな記事があって、涙が出てきた。
『(ソマリア)モガジシオにある難民キャンプは先月下旬、国連が飢饉の発生を宣言した地域の一つ。(中略)過去3ヶ月間に幼児二万九千人以上が死亡する非常事態となっており』(7日中日新聞4面)
 こうして「物を欲しい人」「物を買いたい国」は世界に無数に存在する。それも、世界の人が死活を掛けて、渇望している。新自由主義経済はこうして、こういう人々、地域を顧みず、「金持ちが金持ちに物を売ること、そういう商戦しか眼中になかったのではないか」と僕には思われてならない。日米中露の強力軍隊もそういう商品販路とも言える。「経済の軍事化」という概念はなにもヒットラーや東条の専売特許ではなく、自由主義経済に必然的なものとして存在してきた側面もあると言われてきた。
 こんな先進国国家体制ならば世界が総体としてジリ貧になって当然ではないだろうか。時流に乗らない学者らしい心を持った経済学者は、常に必ずこう警告してきたはずだ。
「経済競争原理が正しいとか、人のためになるとかは、何も証明されているわけではない。これは、金持ちが先進諸国国家を乗っ取ったから行われていることに過ぎない」
 こうして、この原理と一蓮托生できた典型的な「強大」国家がどこも、標記の大破綻を遂げたのである。浜のこの言葉を、やはりこういう国家経済原理が招いたことの一つ「福島」を憂うる日本人なら、心静かに考えてみても良いはずだ。
『かくして、国境無きグローバル時代に、国境を越えられない国家という存在は、消滅の道をたどるほかはないのか』
 「世界のドル」が失墜していく今こそ、こんな反省をすべき時ではないだろうか。世界の需要サイドをも考慮に入れた国家・国連運営が望まれるのだと思う。新自由主義は、金持ちの経済学、株主経済学でしかない。それも、結局は、先進国家が、特にその大部分の国民が、金融救命を繰り返すことを通じて中進国の水準へとどんどん疲弊していく仕組みと言えるのではないか。これは、人間の経済学とは言えまい。

 なお、このエントリーについては、どんどんご意見を上げられる事を望みます。その問題提起のつもりで書きました。皆さんと討論がしてみたいです。色々勉強もし直したいと考えています。
コメント (7)
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