なぜ科学が豊かさにつながらないのか?(矢野誠・中沢正彦・編)
という本を読んでいます。
自由な質の高い市場があるか、どうかがポイントである、という問題意識の本です。
そのなかの一節に、原発事故の責任は理科系にあるのか?文科系にあるのか?
という面白い分析がありました。
事故の後、理科系の学者からは事故を防げなかった責任を感ずるという声がありました。
しかし社会学者からは自らの責任を云々する声が一切ありませんでした。
これはオカシイというのが著者の主張です。
その理由はこうです。
モノづくりの際には、対応する費用が高すぎる事故の原因は
想定外とするべきであるというのが経済学の教えるところ。
つまり、経済学的にみれば、事故の原因をつくったのは、
津波でも原発をつくった技術者ではない。
では誰に責任があるのか?それは使い手側にある。
使い手側とは文科系。経済学や政治学・法学の社会科学です。
社会科学が社会に浸透しておらず、大きな危険を伴う
科学技術を有効に利用できる社会がつくれていなかった。
それは文科系の、社会学者の責任である、と。
どうも今ひとつピンときませんが、面白い論点なので紹介しました。
という本を読んでいます。
自由な質の高い市場があるか、どうかがポイントである、という問題意識の本です。
そのなかの一節に、原発事故の責任は理科系にあるのか?文科系にあるのか?
という面白い分析がありました。
事故の後、理科系の学者からは事故を防げなかった責任を感ずるという声がありました。
しかし社会学者からは自らの責任を云々する声が一切ありませんでした。
これはオカシイというのが著者の主張です。
その理由はこうです。
モノづくりの際には、対応する費用が高すぎる事故の原因は
想定外とするべきであるというのが経済学の教えるところ。
つまり、経済学的にみれば、事故の原因をつくったのは、
津波でも原発をつくった技術者ではない。
では誰に責任があるのか?それは使い手側にある。
使い手側とは文科系。経済学や政治学・法学の社会科学です。
社会科学が社会に浸透しておらず、大きな危険を伴う
科学技術を有効に利用できる社会がつくれていなかった。
それは文科系の、社会学者の責任である、と。
どうも今ひとつピンときませんが、面白い論点なので紹介しました。