九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

ポピュリスト河村たかし名古屋市長の策謀敗れる  ネット虫 

2010年11月24日 20時27分54秒 | Weblog
 わが国の地方自治体の代表的なポピュリスト首長のひとり、名古屋市長の河村たかし氏が主導する市議会
の解散請求(リコール)運動で有効署名数が法定数に届かず、住民投票は行われないことが確実になっ
た模様です。

河村たかし氏のポピュリズム(根拠の乏しい俗うけのする安易な政策をちらつかせて市民を扇動する)の手
法をひとまずは防げたこと、また、その悪しきポピュリズム政治の拡散にひとまずはストップをかけたこと
はよろこばしいことです。しかし、大阪には橋下がいて、東京には石原、そして鹿児島には竹原(阿久根
市長)が依然として居座っています。わが国の悪しき俗流ポピュリズムとの戦いはこれからさらに正念場
を迎えるというべきでしょうか。
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これぞ役所!

2010年11月24日 18時22分21秒 | Weblog
 夕方、いつもは新聞受けに入れてある回覧板を持って、隣家のお祖母さんが来られました。何かな、と思ったら次のことを言いたかったからのようでした。

 =市議会リコールの署名をしたら、「貴方は誰に署名を求められましたか」という封筒が役所から送られてきました。
 署名したのは金山のバス停で、それは誰か分かりません。しかし、誰か判らないという所に丸を打ったら無効になるかもしれないと思ったので、「受任者」の所に丸を打ちました。
 先程のテレビで、無効が多くてリコールは成立しないと言ってましたが、私の返信は有効、無効どちらになっているのでしょうか=
 
 そこで私は、「その確認は、区役所に行けば出来ると思いますよ」と答えると、お祖母さんは、「はぁ、区役所に行かないと駄目なんですか、はぁ」と首うなだれて帰られました。
 
 「誰か判らない」という欄に丸を打てば有効ということらしいですが、この回答欄の作成は、まこと知能犯そのもので呆気にとられるばかりです。
 
 
 
 
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 ”東条英機首相への熱狂ぶりと、その源泉”  文科系

2010年11月24日 12時00分40秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
はじめに
 本日ネット虫さんが興味深い記事を載せて下さった。41年12月8日、この日を当時の子どもがどう覚えていたか。これを一気に読んで、すぐに表記の記事を書こうと、僕は思い立った。当時の子どもたちの心にさえ深く刻み込まれた「戦争への感動」、その象徴的存在であった東条首相への熱狂ぶりについて書いてみようと。僕の同人誌にも軍国少年、軍国少女がお一人ずついらっしゃる。お二人とも、その後の人生はなかなか優秀だったろうとお見受け出来る方々である。今は多分、その正反対の人生観をお持ちのはずだが。
 東条英機は、A級戦犯の象徴的存在。41年12月8日開戦時の首相にして内相であって、陸軍大臣までを兼務した、現役の陸軍大将である。また、陸軍参謀総長も兼任していたから、大元帥・天皇の大本営の幕僚長でもあった。彼の前歴には、関東憲兵隊司令官というものもあった。満州国の治安の要に位置する機関であって、35年9月から37年2月のことである。娑婆、「地方」(軍隊は軍隊の外の世界をこう呼んだのでした)、世相にも、よく通じているのである。
 彼は、天皇の信任は篤く、水戸黄門まがいの「民衆査察」を行い、ラジオ、新聞を上手く使って民心を躍らせ、掌握した。ヒットラーにも劣らないその掌握術を、ご紹介したい。種本は例によって、岩波近現代史シリーズ10巻本の第6巻「アジア・太平洋戦争」。この巻の著者は吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授である。【 】がほとんどであるが、ここからの抜粋を示している。 

1 人々の東条支持熱
 その人気は、一時の小泉旋風などという次元のものではない。戦争の英雄たちの、そのまた大元締、空前絶後の国民的大英雄なのである。そういう大英雄が、マスコミによって実に身近な存在に描かれるところがまた、お見事というほかはないのである。
 【 東条首相は、各地で国民に熱烈に歓迎された。42年7月27日、大阪の中央公会堂で開催された「大東亜戦争完遂国民総力結集大講演会」の折には、講演を終えて退場する東条首相を熱狂した群衆がとりかこんだ。28日付の『朝日新開』は、その場の状況を、「熱狂した数千の聴衆は帽子、扇子を打ち振り打ち振り、〃万歳々々″と歓声をあげ、(中略)あつといふ間に東条さんを取り囲む。「しつかりやります、やりますとも」「米英撃滅だ、東条閣下お願ひします」「東条首相万歳」と群がる市民は熱狂して全く感激のるつぼだ」と報じている。これが誇張でないことは、同日の首相秘書官の記録に、「公会堂発」、「総理自動車会衆の圧倒的歓迎に取り囲まれ約十分、会衆の中を徐行す」とあることからもわかる(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)。
 さらに、東条に関するすぐれた評伝をまとめた作家の保阪正康も、この頃の東条について、「東京・四谷のある地区では、東条が毎朝、馬に乗って散歩するのが知れわたり、その姿を一目見ようと路地の間で待つ人がいた。東条の乗馬姿を見ると、その日は僥倖に恵まれるという〈神話〉が生まれた」と書いている。東条は、一般の国民にとって、「救国の英雄」だった(保阪『東条英機と天皇の時代(下)』) 】

 当時、東条報道を新聞がどう行ったかもなかなか興味深い。【例えば、42年8月18日付の『読売報知』は】として、こんなことが抜き出されていた。
【 「忙中忙を求める東条さん」、「割引市電で街の視察 鋭い観察力と推理力の種は正確なメモ 拾った民情必ず”決済”」という見出しの記事を掲載し、「キビキビした政務の処理、そして電撃的な民情視察・・・国民は曾てこれほど”首相”を身近に感じたことはなかった。・・・とにかく、そこに新しい一つの”指導者の形”が打ち出されているのは確かだ」と論じている 】

2 民心操縦術
【 総力戦の時代は、多数の国民の積極的な戦争協力を必要不可欠なものとする。そうした時代にあっては、力強い言葉と行動で、直接国民に訴えかけるタイプの指導者が求められる。東条は、そのことをよく理解していた。43年9月23日、東条は側近に次のように語っている(伊藤隆ほか編『東条内閣総理大臣機密秘録』東京大学出版社1990年)
  国民の大多数は灰色である。一部少数の者が批判的言動を弄するものである。そこで国民を率いてゆく者としては、此の大多数の国民をしっかり摑んでぐんぐん引きずつてゆくことが大切である。大多数の灰色は指導者が白と云へば又右と云へばその通りに付いてくる。自然に白になる様に放つておけば百年河清を待つものである。
 東条の芝居がかったパフォーマンス、特にたびかさなる民情視察は、識者の反発と顰蹙をかった。特に、東条が住宅街のゴミ箱をチェックしてまだ食べられるものや再生可能なものが捨ててあると非難したことは多くの国民の失笑をかった。首相として他にやるべきことはないのかという批判である 】

3 政治的力の源泉、宮中工作など
 マスコミ総動員で作ったこういった東条の「表の顔」の他に、政治家としての裏の顔があるのもまた当然。
 【 政治資金の面でも、東条首相は有利な立場にあった。陸相として陸軍省の機密費を自由に使うことができたからである。この点については、いくつかの証言がある。例えば、元陸軍省軍務局軍事課予算班長の加登川幸太郎は、「何に使ったかわからんけど、東条さんが総理大臣になった時、(中略)三百万円という機密費三口を内閣書記官長に渡せ、と来るんだね。(中略)あの頃二百万円あったら飛行機の工場が一つ建ったんだから」と回想している(若松会編『陸軍経理部よもやま話』)。 (文科系による中略)
 なお、臨時軍事費中の機密費の支出済額をみてみると、42年段階で、陸軍省=4655万円、海軍省=2560万円、44年段階で、陸軍省=1億2549万円、海軍省=1865万円であり、陸軍省が機密費を潤沢に使用していたことがわかる。
 東条首相の政治資金の潤沢さについては、44年10月15日に、反東条運動の中心となっていた政党政治家の鳩山一郎が、近衛文麿と吉田茂(戦後の首相)との会談の中で語っている内容が参考になる。同席していた細川護貞は、その内容を次のように記録している(『細川日記』)。
  一体に宮内省奥向に東条礼賛者あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話〔鳩山より〕出で、例えば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官それぞれのイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野〔伸顕元内大臣〕の所には、常に今も尚贈り物ある由。
 この後、鳩山は、「東条の持てる金は16億円なり」と語り、近衛は東条の資金源は、中国でのアヘンの密売からあがる収益だと指摘している。アヘン密売との関係については確証がないが、46年7月の国際検察局による尋問の中で、近衛の側近の富田健治が、東条はアヘン売買の収益金10億円を鈴木貞一陸軍中将(興亜院政務部長)から受けとったという噂があると指摘している。興亜院は、アヘンの生産と流通に深くかかわった官庁である。皇族への「附け届け」については、史料的に確認することができる。42年12月月30日付の「東久邇宮稔彦日記」に、「この度、陸軍大臣より各皇族に自動車をさし上げる事となれり」とあり、この日、東久邇宮のところには、陸軍省関係者から、アメリカ製の自動車が届けられているからである 】
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投稿HP「私の十二月八日」から         ネット虫

2010年11月23日 21時59分11秒 | Weblog
★日米が開戦してもうすぐ六十九年になる。歴史の風化というが当時のことを記憶している人は七十代の後半老人たち達である。
 此の事を予測して忘れ去られる前に記録しようとしたのが、このHP「私の十二月八日を立ち上げた方である。彼はこの紙面を公開し「私の十二月八日」に記録するよう働きかけた。
 それに応えてかなりの数の方々が手記を寄せている。
 この手記をプログで紹介しようと思い立った。是非お読みいただきたい。
                        ネット虫

「私の十二月八日」からは、http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/19411208.htm         
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 緊張で身震い
                          塚田 茂
                           (当時:中学校2年生)

開戦の日、私は大阪市立東商業学校の2年生でした。学校へ行くと、すぐ校庭に全校生徒は集められ、校長からわが国がアメリカ・イギリス軍と戦争状態になった話がありました。今でも鮮明に思い出します。 私は緊張で身震いしました。

結局、戦争に敗れて、我々は大変な困難な時代を過した訳ですが、軍閥、(特に陸軍)が権力を振り回していたことを思えば、戦後、日本人が自由を得てよかったと思います。

同時に、東南アジアの諸国が、英仏蘭の植民地から解放されたのを、何時の日か後世の歴史が語ってくれることでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 母はご飯がのどを通らなかった

                             宮下春子
                                (当時:5歳)

 十二月八日は小学四年生の姉の懇談会があり、姉が通っている小学校に行きました。午前は授業参観、午後は個人懇談会がありました。午前の参観が終わり畳敷きの裁縫室でお弁当を食べていました。

 そこに先生が入ってきて何か話したのですが、話の内容が日米の開戦であった事は勿論分かりませんでした。

 ずっと後になって母からその時の思い出話を聞きました。
「叔父さん(母の弟、当時27歳)が戦争に行くんじゃないかと思うと、ご飯がのどを通らなかった」

 母子家庭でラジオがなく母はお昼に先生の話を聞くまで開戦を知らなかったのでしょう。  

 興奮した調子の放送

                         指方英佑
                               (当時:国民学校2年生)

国民学校(小学校)2年生の冬、すなわち昭和16年(1941年)12月8日にあの忌まわしい、真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争に突入した。このときからの数年間は正にこの国の暗黒の時代であった。

この日の朝のことはいまだに鮮明に覚えている。確か早朝にラジオで開戦の放送が行われた。とても寒い晴れた日であった。ラジオは「今朝?わが軍は太平洋上にて米国と戦闘状態に入れり、戦果は○○‥」と非常に高揚したアナウンスの声を何度となく繰り返し流していた。

なぜか何時は職業柄(出版物編集者)早起きはしたことがない親父が飛び起き、縁側のガラス戸や座敷の障子を全て開け放したのだ。寒気がどっと流れ込んできた。寒いのでフトンにもぐりこんでいた私は「一体何事だ!」と思ったが、たたき起こされてしまったのを覚えている。

ラジオ放送は興奮した調子で同じことを繰り返していたと思う。なんだか判らないが、ただならぬものを感じ、子供心にも厳粛な気分になった。インテリの端くれだった親父が何故こんな行動を取ったのか分からないがその時の気持ちを率直に表したかったのだろう。

この頃から後年、ウソの代名詞になった「大本営発表」がラジオや新聞で軍部の戦果の発表として行われ、我々はそのでたらめな内容に惑わされることになるのだが、この時のアナウンスの調子や内容は、今北朝鮮のテレビなどでキャスターが勿体つけてオーバーなアクションでしゃべっている調子にそっくりであった。

日本語と韓国語発音は非常に似通っているのでなお更である。北朝鮮の国民が騙されないことを心から望むものだが所詮ムリな話だろう‥。



 父の出征中に

                          福井厚子
                                (当時:国民学校4年生)

私は当時国民学校4年生でした。開戦当日のことは記憶も大分薄れましたが当時の周辺の様子などを思い出しながら書いてみます。

亡父は開戦前の昭和16年夏に私を頭に幼子3人と亡母を残し出征しました。平服、頭はそのまま丸坊主不可、隣近所の挨拶もなし、風呂敷1つで見送りもない淋しい出征でした。すべて軍の命令で秘密裏の開戦準備です。

昭和12年の日中戦争にも応召しましたが、祝い酒、祝応召の幟、道路整理のお巡りさんと、まるでお祭り騒ぎで母の心中はいかばかりであったろうと思います。

間もなく北満のハルピンより軍事郵便が届くようになりました。筆まめの父からの便りが暫く途絶え心配していたら12月8日の大本営発表です。同時に真珠湾攻撃の大勝利の発表で鬼畜米英、一億一心の言葉が巷に溢れていました。子供心にも戦争に向かって押せ押せの時代で世の中の殆ど人々は気持ちが高揚していたと思います。子供心にも「欲しがりません勝つまでは」と言うような気持ちでした。暫くして南方派遣からの便りが届くようになり後に当時の昭南島今のシンガポールと分かりました。開戦と同時にマレー半島に上陸して南下、かなりの激戦地だったと思います。

当時は出征兵士の家庭は珍しくなく銃後の守りと誇りにし又学校でも父に恥じないようにとすぐに言われました。表向きとは違い父の居ない家庭は淋しい限り父は遠く離れた家族に思いを馳せていたと思います。


12月8日朝、横須賀軍港に帰港

                         菊池金雄
                        (海軍徴用船・次席通信士)
         
 当事私は海軍徴用船「恵昭丸」(大同海運の貨物船、5800総トン)の次席通信士として乗り組んでいた。この船の任務は南洋群島の島々に散在する海軍航空隊の基地に、ドラム缶入り航空ガソリンの輸送だった。

 現地に着いたら、各島々が不沈空母的に飛行場が設営され、まるでトンボが群れるように海軍機が離着陸し、戦争がはじまったような錯覚にとらわれた。

 各小島には大型船の荷役桟橋もなく、はしけでの陸揚げ作業に長時日を要し、約一ヶ月後に横須賀向け帰路につき、12月8日朝東京湾口にさしかかった。そして開戦のラジオ放送があり、横須賀に入港したら軍人たちは殺気だっていた。

 同船は任務がら、遠からず開戦予想はしていたが、まさかこの日とは意外だった。実は前夜(7日)東京湾の入り口で触雷した日本の貨物船から国際遭難電波である500キロサイクルでSOSが発信された。まさか翌日開戦するとは部外者は知るはずもなく。船内でも「いったい日本海軍どうなってるの?」と不審感をかもしたのは当然であろう。

 ところが、くだんのSOSは一回発信されただけで尻切れとんぼになった。通常なら最寄り陸上海岸局や、近在の各航行船舶から救助のための通信が殺到するのであるが、そんな気配もなく、全く不可解なSOSであった。

 後日、本件を検証するに、翌日の開戦に間に合うように海軍が東京湾口に防潜機雷柵を敷設中に前記貨物船が触雷したため、海軍側があわてて各方面に無線封鎖を厳命したものと推察される。例えば、銚子海岸局には海軍から情報将校が駐在し,この種機密情報は即時封印されたものと思われ、同局OBに本件感知の有無を尋ねたが、耳にしたことなしとのことであった。若しこのSOSをキャッチしたOBが居られるなら是非お知らせくださるようお願いします。

「硝煙の海」
http://www.geocities.jp/kaneojp/



ほとんど覚えていなかった

                        和田喜太郎
                          (当時:国民学校5年生)

 たしか国民学校に呼称が変わって5年生でしたが、1941年12月8日のことはほとんど覚えていません。ただ、級長の西岡君が「やったやった」「今朝お父さんと話したんだ」などと、一人ではしやいでいたことだけは覚えています。

 アタマのいい級長の開口一番のせいか、みんなは白けていました。校長や担任が朝礼などで何か言った筈ですが、これも覚えていません。だいたいが私ら、みんなアホでしたから、親と天下国家の大事について話すこともなく、級友や近所の子ども仲間とも、日米開戦を期待する論議など全くしなかったのでないかと思います。

 ラジオは金持ちの家しかありませんでした。新聞くらいはどの家でもとっていましたが、私ら子どもがそれほど読んでいたとは思えません。

 西岡君はどこか都会からの転校生で、父親は実業学校の教師でこの町の学校に赴任したわけです。西岡君は男前で、しゃべる言葉も標準語で持ち物だって私らのような安もんと違っていました。6年を卒業すると、彼のようにエエトコのぼんぼんで頭のいいもんは旧制の中学に進学しましたので、その後の消息は知りません。

 年齢や思考力の問題もありますが、「大東亜戦争」開戦当時はまだのんびりしていました。しかしそれからが、物不足、召集や徴用、勤労動員など戦時色が次第に強くなり、戦争のなかにいることを実感するようになりました。



でも古参兵とかで無事に帰還しました。60年余前のことですが涙が出そうです。

                
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[県知事選]この静けさは何だろう 沖縄タイムス社説から

2010年11月23日 16時16分15秒 | Weblog
★本土の我われの中には「えっ 沖縄知事選なの?」と驚く人も多い。地元紙によれば当の沖縄でも選挙戦の盛り上がりがないという。沖縄タイムスの危惧を紹介したい。  ネット虫


県知事選挙が盛り上がらない。沖縄の針路を左右する極めて重要な選挙であるにもかかわらず、選挙の意義に見合うような熱気が、感じられない。一体、どういうことなのだろうか。

 県知事選は復帰後、10回行われているが、11回目の今回は、過去のどの選挙と比べても、特異さが際立つ。

 2人の有力候補が米軍普天間飛行場の移設問題で、「県外」「国外」への移設を主張し、争点がぼやけてしまったことが、この選挙の最大の特徴である。

 辺野古移設の姿勢を変えていない民主党本部は、どの候補も推していない。沖縄の県知事選で政権与党が自主投票を決めるのは初めてだ。自民・公明推薦の候補が、自民党本部に推薦の申請をしないのも例がない。

 普天間問題がもたらした複雑な「ねじれ」が、有権者を戸惑わせ、選挙運動の盛り上がりにブレーキをかけているのは明らかだ。

 菅直人首相はオバマ米大統領との首脳会談で、「5月の日米合意をベースに沖縄県知事選後に最大の努力をする」と語った。知事選は現職の仲井真弘多氏と、前宜野湾市長の伊波洋一氏による事実上の一騎打ちとなっているが、誰が当選しても、選挙後の政府との交渉は難しいものになるだろう。

 「どうせ動かないのだから」と選挙を棄権する人が増え、投票率が下がるようなことがあってはならない。

 現実を変えることができるのは、選挙によって示される有権者の民意である。

 過去10回の知事選で、例外的に投票率が下がったケースが2回ある。

 革新陣営が分裂し、稲嶺恵一、吉元政矩、新垣繁信氏らの争いとなった2002年の知事選(投票率57・22%)と、大田昌秀氏と翁長助裕氏が争った1994年の知事選(投票率62・54%)である。

 両選挙に共通するのは、大差がついたことだ。選挙に対する有権者の関心が薄れ、投票率が低下した結果、大差がついてしまったのである。

 今回の選挙はそのような状況にはない。そこまで投票率が下がるとは考えにくい。

 ただし、普天間問題の争点がぼやけ、中央と沖縄に「ねじれ」が生じたことは、いわゆる浮動層の知事選への関心を低下させる懸念がある。

 各陣営は他候補との違いを有権者にアピールし支持を訴えているが、現時点では、政策の違いが有権者に十分に浸透しているとは言い難い。

 盛り上がりに欠ける現在の状況を打開するためには、一にも二にも運動量を増やすことである。運動を拡大し、政策をめぐる論戦を深めていくことによって有権者の関心を高めていくことが必要だ。

 日米安保への評価、経済政策の手法、カジノ導入をめぐる姿勢、県立病院の独立行政法人化など、政策の違いは次第に明らかになりつつある。対立軸を鮮明にし、有権者に分かりやすく政策を示してもらいたい。

 投票率を高めることが、政府に対する沖縄の交渉力を強くする。

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「自虐史観」「洗脳」の危うさ  文科系

2010年11月23日 09時05分30秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 僕の「右翼のデマに」に反論を書いてきたある人が例によって、こんな言葉を使った。「洗脳」と「自虐(史観)」。本日はこの言葉について一言。

「洗脳」と「自虐」と、あまりに独善的過ぎる、明白な差別用語だと言いたい。

「洗脳」って「狂気を植え付けられた普通じゃない頭」のことであって、「自虐」って「自分を虐める不自然な人間」。いずれにも「正常な人間」を前提として(「それは自分らだ」として)、それと違うからお前らは異常だと語っていることになる。独善的に人を差別して、しかも憎んで当然だとさえ語っているような、そんな雰囲気で発せられるのが普通の言葉だ。

 さて、こういう雰囲気は、ヒットラーの「ユダヤ人憎し」とどこが違う? ただし、この場合は人種を裁いているのではなく、思想、言論を裁いているのだが。普通じゃない、人として不自然な思想? 他人が他人の思想をこんなふうに裁いてはいけないというのは、近代世界の常識であろう。つまり、こういう言葉を使う人々は、そんな常識さえ持ち合わせていないのである。
 人は人の行為によってのみ裁判で罪になるはずだが、ある思想を持っていることも罪になるのか? ある言論をすることが罪になるのか? この点で日本人は非常に「危ういもの」をいっぱい持っていると言いたい。
 「昭和天皇に最大の戦争責任があった」などと語ると、もうすぐにカッカと来る人がいる。
 「天皇制は廃止すべきだ」などと言っても、同じだろう。
 「太平洋戦争はほとんど日本が悪かったのである」と言うとやはり、我を忘れてしまう。
 「9条を守れ」には、「アホか!」と平気で語るし。

 こんな用語遣いは、一刻も早く止めることだ。人としての品格に欠けると明言しても良いはずだと考えるが、どうだろうか。
 
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「戦前日本の破滅の歴史を思わざるを得ません」と、中日社説  文科系

2010年11月22日 11時30分37秒 | Weblog
 中日新聞、本日の5面社説は深刻すぎる論調になっています。是非ご覧いただきたいのですが、その触りだけを書いておきます。

『内政も外交も行き詰まり感が深まって無為無策の政治へ国民の不安と不満、憤りが高じています。
 戦前日本の破滅の歴史を思わざるを得ません。似ています。
 国家財政の危機と民の貧困、外交対立。閉塞状況下、政党は醜い争いに終始して国民の軽蔑するところとなり、政党政治は瓦解。日本はファシズムへ、無謀な戦争へと傾斜していったのでした。(中略)
 情けないのは、浅はかな身内を手厳しく叱る政治家が自民にも民主にも見当たらないことです。
 政党政治の座標軸が狂っています。こういうときこそ国会が正しく機能すべきなのに、怒鳴り合いと揚げ足取り。与党も野党も非生産的なことこの上ありません』

 僕はこの状況について、マスコミにも同じくらい以上の責任があるとここに書いてきた立場ですが、この文章は今の政治現象を上手く書いているとは思います。小泉を天まで持ち上げて弱肉強食社会を作ったり、その反動なのか今度は自民を引きずり下ろして民主政権を作ることになったり、今度はその民主政権を引きずり下ろすことしたり。マスコミ(も官僚)もそれぞれの狙いに程度の差はあれ、こういうことに腐心してきたはずだと、僕は見ています。国民の窮状、絶望感は確かに戦後かって無く大きくなっているのに、そういうものすべてを、責任ある人たちがそっちのけにしてきたとも見ています。それは、マスコミも含めてのこと。
 社会正義の代弁者であるべき検察が率先してあのザマだし、裁判所もどうやら彼らと連んでいるらしい。彼らの小沢への執着ぶりは、私利に発していることとしか到底思えないのです。小沢の道徳的善悪はともかく、検察が2回も起訴に失敗した人間をあくまでも社会的に葬り去ろうとしてきた、と。官僚機構の中でも特に特権的な検察を改革しようとすることへの妨害。村木厚子免罪事件の動機も第5検察審査会の胡散臭さも、そこから出ている事は明らかでしょう。

 こんなときにこそ、この社説が話を狭めて語っているように日本一国だけではなく世界の破滅が、誰も予期しないうちに、予期しない方向で、急激にやってくる時が多いもの。背景に、先の見えない世界的大恐慌があるのも、戦前と一緒なのです。ヒットラーの登場は電撃的だったと思いますし、近衛内閣から東条内閣へと換わってから12月8日の太平洋戦争開戦までは2ヶ月も経たぬ間のことでした。日米開戦と対米交渉との二者択一では近衛内閣はまだ、後者を継続しようとしていたことも想い出しています。マスコミと世論が、近衛氏ではなく東条をこそ励ましたのではなかったでしょうか。そして、熱狂の祭りが終わってみれば、大の大人が皆、ただ呆然! あの戦争を勝てばすべて良かったのだと語る人がいるとしたら、僕はこう申し上げたい。
「ユダヤ人や朝鮮の方々を歴史的にあれだけ殺してきた政府の世界など、死んでも嫌だ」

 今の世界、日本も、こんなことでしょう。国民は生活懸かってみんな必死だし、社会に重い責任のある人たちが自分のことしか考えずこういう国民の目線をそれぞれ己の脇の方にそらそうとだけしている。そんな時にはいつも、その合成力が、後から考えた時誰にとってもとんでもないと見える方向へと社会を持って行ってしまうんですよね。
 世界1の財産を形成してきて今なお国を支えている我々、日本の老人たちなのに、孫子にこんな世界、社会しか残してやれぬとは。そして、そういうお仲間が、どんどん無縁死していくとは。返す返すも残念でなりません。
 
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太平洋戦の右翼デマに(天皇、開戦決意の瞬間)  文科系

2010年11月22日 01時32分58秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
太平洋戦争と天皇

 表記のことについて、右翼の方々はこのブログでもこのように語られてきた。天皇の統治権は形式的なものであって、戦争政策においても実際に何かを決めたというわけではない、と。そのことについてこの本(岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」、著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)はどう書いているか。それをまとめてみたい

1 軍事法制上の天皇の位置 「統帥権の独立」
『統帥権とは軍隊に対する指揮・命令の権限のことをいうが、戦前の日本社会では、大日本帝国憲法(明治憲法)第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という規定を根拠に、この統帥権は天皇が直接掌握する独自の大権であり、内閣や議会の関与を許さないものと理解されていた。
 明治憲法上は、立法権、行政権、外交権などの天皇大権は、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっており、統帥権だけが国務大臣の輔弼責任外にあるという明文上の規定は存在しない。それにもかかわらず、天皇親率の軍隊という思想の確立にともない、制度面でも統帥権の独立が実現されてゆく。1878(明治11)年の参謀本部の陸軍省からの独立、1893(明治26)年の軍令部の海軍省からの独立、1900(明治33)年の陸海軍省官制の改正などがそれである』
『一方、参謀本部と軍令部(統帥部と総称)は、国防計画・作戦計画や実際の兵力使用に関する事項などを掌握し、そのトップである参謀総長と軍令部総長は、陸海軍の最高司令官である「大元帥」としての天皇をそれぞれ補佐する幕僚長である。この場合の補佐は、国務大臣の輔弼と区別して輔翼とよばれる。国務大臣は、憲法に規定のある輔弼責任者だが、参謀総長・軍令部総長は、憲法に明文の規定がない存在だからである。
 軍事行政と統帥の二つにまたがる「統帥・軍政混成事項」については陸海軍大臣が管掌したが、国務大臣としての陸海軍大臣も統帥事項には関与できないのが原則であり、参謀本部・軍令部は、陸軍省・海軍省から完全に分立していた。以上が統帥権の独立の実態である』

2 「能動的君主」としての天皇
9月6日決定の「帝国国策遂行要領」
『統帥に関しては、「能動的君主」としての性格は、いっそう明確である。天皇は、参謀総長・軍令部総長が上奏する統帥命令を裁可し、天皇自身の判断で作戦計画の変更を求めることも少なくなかった。また、両総長の行う作戦上奏、戦況上奏などを通じて、重要な軍事情報を入手し、全体の戦局を常に把握していた(山田朗『大元帥 昭和天皇』)。通常、統帥権の独立を盾にして、統帥部は首相や国務大臣に対して、重要な軍事情報を開示しない。陸海軍もまたお互いに対して情報を秘匿する傾向があった。こうしたなかにあって、天皇の下には最高度の軍事情報が集中されていたのである』
 そういう天皇であるから、重大な局面ではきちんと決断、命令をしているのである。本書に上げられたその実例は、9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

前日9月5日、両総長とのやりとりなど
『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。
 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである。
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国民投票法の施行で一体どうなったのか?      ネット虫

2010年11月21日 21時44分23秒 | Weblog
★国民投票法が施行されたというが一体どうなったのか、政治家もマスコミも今となってはほとんど語っていない。そんな中「マガジン九条」に憲法円卓会議の南部義典氏が一文を寄せていた紹介したい。   


不完全施行という現実2010年 5月18日、憲法改正の手続きを定める国民投票法が施行されました。

 施行されたといっても、それは法律の公布日(2007/05/18)から3年が経過し、自動的に施行日を迎えたという意味にすぎません。ご存知のとおり、実質的には「不完全施行」という事態を迎えてしまいました。

片付いていない、3つの宿題 公布日から施行日までの3年間で、法が解決を義務づけていた「宿題」がまったく済んでいません。

 第1に、年齢条項の見直し(引下げの検討)が進んでいません。国民投票の投票権年齢は、満18歳以上の国民とされていますが、政治参加、契約行為等の場面における判断能力の取り扱いに差異が生じないよう、3年間のうちに選挙年齢を定める公職選挙法、成年年齢を定める民法等の改正を行ない、18歳で統一することが前提条件とされていました。しかし、法改正が何らなされていない中、投票権年齢は法律の本則に従って18歳なのか、附則3条2項(※)の拡大解釈により20歳なのか、解釈上の疑義を生むに至っています。

注)以下、国民投票法附則第3条。
1 国民投票法が施行されるまでの間,18歳以上の者が国政選挙に参加することができること等となるよう,民法その他の法令について検討を加え,必要な法制上の措置を講じることとする(第1項)。
2 第1項の措置が講じられ,18歳以上の者が国政選挙に参加すること等ができるまでの間,国民投票法の投票権者の年齢は20歳とする(第2項)。

 第2に、公務員の政治的行為に関する、法的規制の仕分けがなされていません。

 公務員といえども、主権者である以上、憲法改正案に対し、賛否の意見表明をし、または投票の勧誘を行うこと(国民投票運動)は当然、自由に行なうことができます(ただし、影響力を背景に地位を利用する行為は規制対象です)。もっとも、国民投票法でこのことを確認したとしても、国家公務員法、人事院規則、地方公務員法、さらに自衛隊法など職種ごとの公務員法が様々な行為類型を以て政治的行為を規制しています(違反は、罰則、懲戒処分の対象となります)。法制上の不統一をなくすためには、これら既存法の「規制の網」を梳(と)くという作業が必要です。主権者である面を徹底すれば、国民投票に際してあらゆる政治的行為について自由とすべきということになりますが(私はこの立場です)、自民・公明両党の法案提出者が国会審議で答弁したように、公務員には政治的中立性が求められることを考慮すれば、全面自由とすべきではなく、許される行為と許されない行為とを丁寧に仕分けしなければなりません。

 第3に、憲法予備的国民投票の検討が始まっていません。

 憲法予備的国民投票とは、民主党がかつて主張していた国政上の重要政策案件に係る国民投票を、より限定的にテーマを絞り、憲法改正に密接に関連させながら制度化しようとするものです。具体的には、憲法改正について国民がどのような問題意識をもっているのか、という世論調査の方式で行われることになります。

 例えば、一院制、通年会期制、首相公選制、憲法裁判所の設置など「憲法改正を要する問題」や、女性・女系天皇制、自衛権の意義・範囲・行使のあり方、道州制など、「憲法改正の対象となりうる問題」に関する国民投票制度について、国民の声を事前に聴取するシステムとして、間接民主制との整合性の見地(つまり、国会との関係)から、速やかに検討することとなっていました。

動いていない憲法審査会 国民投票法が公布され、初めに召集される国会の日(2007/08/07)から、衆参各院に憲法審査会が設置されることになっていましたが、未だ始動していません。とくに、施行日までの3年弱の期間は、衆参各院の憲法調査会報告書(2005/04)の内容を精査し、国民主権、人権尊重主義、平和主義、権力分立主義といった「憲法改正の限界」を確認することも含めて、論点を掘り下げ、共通認識を深めることが想定されていました。

 憲法審査会といえば、憲法改正原案の起草、審査に係る権限だけを想像する方がいますが、そうではありません。実体社会において、行政運営において、憲法が機能しているのか否か、「憲法保障」の視点で広汎かつ総合的にチェックすることも重要な役割です。例えば、年金、生活保護など社会保障の分野で、生存権を全うする政治が達成されているのかどうか、条文改正を前提としないで十分な調査を行うことが肝要です。

完全施行をめざして 63年前、日本国憲法は、いくつかの憲法附属法の制定が間に合わない中、不完全な状態で施行されました。帝国憲法改正案として国会で審議されていたときも、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の主導で検討されていた憲法附属法の中身が明らかでないまま審議が進んでいました。衆議院の委員会採決の際には「審議が徹底されず、深く遺憾とするところである」との附帯決議が付されているほどです(1946/08/21)。不完全という意味では、国民投票法も同じ道を辿ってしまいました。

 しかし、どのような立法経緯を辿るにせよ、いたずらに「廃止だ、施行延期だ」と主張すれば、立憲主義の息の根を止めてしまいます。憲法をどう発展させていくかは、究極的に主権者である国民の意思にかかっているからです。

 国民の側から完全施行に向けた早期の条件整備を求め、憲法審査会の審議充実を求め、この国の立憲主義を発展させていくという、主権者としての強い態度、姿勢が求められていると思います。(了)

☆南部義典(なんぶ よしのり)1971年岐阜県生まれ。1995年京都大学文学部哲学科卒業、国会議員政策担当秘書資格試験合格。現在、山花郁夫衆議院議員の政策担当秘書、憲法円卓会議事務局。国民投票法案(民主党案)の起草に携わり、国会審議では二度にわたり公述人を務めた。著書に、『Q&A解説・憲法改正国民投票法』(現代人文社、2007年)がある

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太平洋戦争、右翼のデマに(番外編)  文科系

2010年11月20日 00時57分27秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 しゃにむに、密かに、不意打ち開戦へ

 前回のこのまとめ部分は、日米の戦争責任論議における最重要点だから、説明が要りますね。
「なお、この5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者は解明していました」

 米国務長官ハルの覚書が駐米日本大使に手交されたのが41年11月26日、外務省がこれを翻訳して関係方面に配布したのが28日でした。対して当時の日本政府はその行動を、このように説明してきました。ハルの、この4要求を「最後通牒」で「高圧的」と断定。それゆえ「自存自衛の為」(12月8日、宣戦の詔勅)の開戦を、12月1日の御前会議で決定、と。誰が考えても、国の運命を決めるような大戦争の決断経過としては動きが急すぎて、不自然です。この不自然さを、著者の吉田氏はこう解明していきます。

 そもそも1国務長官の覚書とは、1国の最後通牒などと言える物では、到底ない。よって、10月に退陣した近衛内閣が進めていたように、アメリカとの条件交渉の余地はまだまだ充分過ぎるほどに存在していたのである。対して、入れ替わったばかりの東条内閣が、ハル・ノートを最後通牒と断定し即戦争を決めたように語られてきたわけだが、これは完全に日本のあるタクラミに基づいている。その狙いは、
・生産力で10倍を遙かに超える差がある強大なアメリカの戦争準備が整わぬうちに、戦争を始めたかった。日中戦争進展にともなって臨時に大増強した太平洋周辺戦力はアメリカを上回っていたからだ。
・それも、完全に油断させておいて、不意打ちで開戦したかった。日本側は、十二分に準備を整えておいた上で。
・東条内閣は、発足20日も経たぬ11月5日の御前会議でもう12月初頭の開戦を決めていて、戦争にまっしぐらだったのである。その日に決まった「帝国国策遂行要領」をその証拠として、著者はこう書いている。
『「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際、英米欄戦争を決意し左記措置を採る」とした上で、「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」と決めていた。引き続き外交交渉を継続するとされていたものの、実際には、その性格は開戦決意をカムフラージュするための「欺騙外交」としての側面をつよめてゆくことになる』
 なお、前にも述べたように、この11月5日の御前会議は、東京裁判当初までアメリカには隠されていたものである。以上のように軍人内閣のやり方は、「出来るだけ速く、密かに、しゃにむに戦争へ」「相手とは交渉を続けるふりをして油断させつつ」「それも、相手に知られない不意打ちで」というものであって、このことはその4にまとめた以下の事実によっても証明されている。
【『よく知られているのは、真珠湾への奇襲攻撃である』。開始8日午前3時19分、対米覚書手交4時20分というものだ。この点については従来から、こういう説があった。対米覚書の日本大使館における暗号解読が遅れたとされてきたのだ。これにたいする本書の解明はこうなっている。
『外務省本省は13部に分かれた覚書の最終結論部分の発電をぎりぎりまで遅らせただけでなく、それを「大至急」または「至急」の指定をすることなしに、「普通電」として発電していたことがわかってきた』】
 

 「アジア・太平洋戦争」の開戦原因に関わる経過を、最後にもう一度まとめておく。
1 「日本が、中国侵略から南部仏印侵略へという動きを強行した」
「このイギリス権益の侵害に対してなされた、アメリカによるたびたびの抗議を無視した」
「こういう日本の行為は、ドイツの英本土上陸作戦に苦闘中のイギリスのどさくさにつけ込んだものでもあった」
この間の上記の経過は、本書では結局、こうまとめられている。
『結局、日本の武力南進政策が対英戦争を不可避なものとし、さらに日英戦争が日米戦争を不可避なものとしたととらえることができる。ナチス・ドイツの膨張政策への対決姿勢を強めていたアメリカは、アジアにおいても「大英帝国」の崩壊を傍観することはできず、最終的にはイギリスを強く支援する立場を明確にしたのである』

2 そのアメリカに対しては、交渉するふりをして、その太平洋周辺戦力が不備のうちに、不意打ち開戦の準備を進めていった。
その直前の様相は、こういうことであった。
『(41年7月28日には、日本軍による南部仏印進駐が開始されたが)日本側の意図を事前につかんでいたアメリカ政府は、日本軍の南部仏印進駐に敏感に反応した。7月26日には、在米日本資産の凍結を公表し、8月1日には、日本に対する石油の輸出を全面的に禁止する措置をとった。アメリカは、日本の南進政策をこれ以上認めないという強い意思表示を行ったのである。アメリカ側の厳しい反応を充分に予期していなかった日本政府と軍部は、資産凍結と石油の禁輸という対抗措置に大きな衝撃をうけた。(中略)以降、石油の供給を絶たれて国力がジリ貧になる前に、対米開戦を決意すべきだとする主戦論が勢いを増してくることになった』
(終わり)
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超人ロックさんの意見について    らくせき

2010年11月19日 19時24分38秒 | Weblog
要は九条でどうやって北朝鮮の核武装や軍拡をとめるのか?
話し合いは大切だろうし、
日本が軍拡しない(軍縮する)ことによって
周辺国の更なる軍拡をストップするという議論だって、
議論する余地はあるだろう。

しかし、問題は能天気な、自衛隊は違憲・日米同盟も違憲
(だからなくしましょう)というふうな議論だ。
結局のところ現実を理想に近づけるよい“アイデア”がない限りは
現実逃避である。

     

この考えは一応スジが通っています。
しかし欠陥もあります。

9条の問題は、それだけで論じては半分しか
論じたことになりません。
自衛隊問題と両方をあわせてひとつのものごと、と
見たら、どう見えるのか?

つまりアメリカや中国から見たら
この矛盾した複雑な日本は、どう見えているのか?

この矛盾した日本だから良い点もあるのでは?



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「日本サッカー・希望の星」と、ザック監督など(24) 文科系

2010年11月19日 12時21分52秒 | スポーツ
香川の最新情報


 香川の最新情報をサイトや雑誌などから、ちょっと詳しく紹介してみる。ドイツで大騒ぎになっている事がよく分かると思うから。

『香川2戦連発、首位死守に貢献』 まず14日のニッカンスポーツ
『ザックジャパンの期待の星は、チームの首位死守と3連勝にも貢献した。後半4分、右クロスを受けると、右足で合わせた。相手DFに当たり、そのままゴールネットに吸い込まれる。待望の先制点に8万人の大歓声を心地よく受けた。後半25分には相手マークをかわし絶妙のスルーパス。確かな戦術眼からバリオスの2点目ゴールが生まれた。
(中略)もうドイツ中で香川の名前を知らない者などいない。ドイツのビルト紙もチーム最高の2点(6点満点で1点が最高)と好評価をつける。 香川「試合をやるごとに成長している。首位に立つだけの力はある。継続が大事」。ブンデスリーガで首位を走るドルトムント、そのエースに香川は堂々と君臨している。』

『香川 2週連続ベストイレブンに選出』16日のスポニチ
 『12日のハンブルガーSV戦で2戦連続ゴールを決めたドルトムントの日本代表MF香川が、ドイツ2大メディアで2週連続ベストイレブンに選ばれた。
 ビルト紙が通算4度目、キッカー誌は6度目。ビルト紙の平均採点2・17(1点が最高、6点が最低)はリーグ1位をキープしている。またルールナハリヒテン紙では「はじめは目立たなかったが時間がたつにつれて存在感が増した。彼の6点目がチームを勝利に導いた」と絶賛された』

『 香川「大当たり!」独専門誌の表紙に抜てき』18日の共同通信
 『18日に発売されたドイツのサッカー専門誌「キッカー」でドルトムント所属の日本代表MF香川真司が表紙を飾った。各クラブの補強選手の評価を特集し、見出しは「大当たり!」―。
 ここまで1部リーグで6ゴールと大活躍の21歳のMFは、対象となった109人のうちの7人に与えられた最高の5点を獲得。記事の約8割が香川に関するもので、香川の代理人を務めるクロート氏が「(以前ドイツでプレーした)高原直泰から『香川というよい選手がいる』とアドバイスがあり、昨年9月にJリーグへ視察に行った」というなれ初めも紹介した』

 さて、最後に彼のチーム、世界3位のドイツリーグで現在首位を走るドルトムントの監督、ユルゲン・クロップの香川評を紹介しよう。以下は、今週号サッカーダイジェスト所収のクロップ・インタビュー記事抜粋である。
 まず香川の特徴
『足下のテクニックのレベルが高く、ドリブル、パス、いずれの精度も高い。それに調子がいいからと言って、わがままなプレーをすることがない。自分の間合いを上手く保ちながら、ゴールを陥れるために最適なポジションにいる味方を探し出して鋭いパスを出す。それにゴール前に飛び出してのシュートも正確だ。枠内に、確実に力強く蹴り込める』

 香川の今の成長ぶりについて
『ウチに来てから、すでにバイエルンなどのビッグクラブに勝つ経験をしている。代表ではアルゼンチンにも勝った。私はビッグチームからの勝利こそが選手を成長させる最大の糧だと考えている。相手が強ければ強いほど、勝つことでメンタルの強さは飛躍的に増す。仮にスランプに陥ってもその成功体験が指針になる。シンジだけじゃなく、日本の選手にはその伸びしろがたくさんあるのだと思う』
『毎日が驚きの連続のようだが、シンジは上手く吸収しているよ。大したもんだって感心させられる。だから私たちも、彼からいろいろと吸収しようとしているんだ。ウチのサポーターなんて、日本だと名前を姓名の順に呼ぶんだと知って、最近、スタンドのコールを「シンジ・カガワ」から「カガワ・シンジ」に変えたそうだよ』

 こんな表現もありましたね。ちょっと面白かった。
『ドイツには「日本人は控えめな国民」というイメージを抱いている人が相変わらずたくさんいる。彼らに、サッカーの世界でこうして大活躍できる日本人がいるのだって、声を大にして言いたい』

 ついでに、クロップの日本代表評も。対アルゼンチン勝利をご存じですかと尋ねられた、その答えです。
『チェックしていたよ。(中略)アルゼンチンは日本を過小評価していたとしか思えない。ザッケローニはヨーロッパでは誰もが知るトップクラスの指揮官だ。彼が監督に就任したことで、日本の選手たちはワールドカップのベスト16という結果に満足せず、再び士気を高められたのだろう。だからアルゼンチン戦の勝利は、決して偶然だとは思っていない』

 
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日本の高齢者不明問題 海外でも強い関心(転載、その3) 文科系

2010年11月19日 10時22分48秒 | 国内政治・経済・社会問題
 
【 ▼タイムズ(英国)

高い関心「日本の評判ボロボロ」

 100歳以上の高齢者が1万人に達した英国でも、日本の高齢者所在不明問題への関心は高い。4日付のタイムズ紙は「高齢者が暮らしやすいとの日本の評判はボロボロだ」と酷評し、所在捜しによって「日本は高齢者を粗末に扱う国だ」という不愉快な結論が導き出されるだろうと指摘した。
 21日付の同紙は、行方不明者の家族による年金詐取の実態を伝え「日本の家族の価値観に、100歳以上のゾッとするような運命が加えられた」との見出しを掲げた。
 同居する高齢者が亡くなったのに死亡届を出さず、子供を大学に行かせたり、新車やテレビを買ったりするために年金を不正受給。死亡した母親の葬式を出す資金がなく、遺体を切断してリュックサックに詰めて隠していた事件もあった。
 同紙は、300人にのぼる100歳以上の不明者のうち、何人の遺体が天井裏や裏庭に隠されているのか、地方自治体も疑っていると伝える。「日本の国民は正直で役所の記録は正確だと信じられていた。だが、気がつけばどちらも信用ならないことがわかった」と、驚きを隠さない。
こうした問題の要因について、ガーディアン紙のアレクサンダー・チャンセラー記者は6日付で「高齢者が増えすぎて若い世代が注意を払うのが難しくなった」と分析。
 日本では100歳の誕生日に首相からお祝いの手紙と記念杯が届くが、英国ではエリザベス女王から誕生日カードが送られてくる。
 同記者は「今年生まれた赤ん坊の4分の1が100歳以上生きるだろう。カードを送るバッキンガム宮殿は収拾がつかなくなる」と予測する。英国で実施される65歳定年制廃止は良いことだが、逆に寿命を縮めて高齢者問題を解消するかもしれないと記した。(ロンドン 木村正人) 】

 どんな行政欠陥、失策にも事の軽重がある。これは、すべての政策理念が絵空事になる所行であって、どんな弁解も許されないから絶対に起こってはいけないといった種類の問題であると思う。政府や自治体が、国民、市民の死を知らなくて、税金を出し続けるなどとは。人を何人か殺せば、死をもって償うような大罪になるが、政府・自治体関係者の治民の死への無感覚さというこの大罪は、どう裁かれるべきなのか。どうしても白黒付けねばならない事だと思う。
 こういうことこそ大運動を起こせばよいのだ。老人たちが「預金をタンス預金に替えるぞ」とやったら、この政府は直ぐに潰れるのだから。それにこれは、誰に対しても説得力のある「犯罪」である。我々は、こんな情けない政府を作る為に長年税金を納めてきたのではない!
(終わり)


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  トンデモナイ発言なのか   只今

2010年11月18日 17時58分36秒 | Weblog
 国会中継をみていたら、仙石官房長官が「暴力装置の自衛隊」と発言。
 これに対して、あるまじき発言との非難を浴び、訂正、謝罪していました。
 しかしその用語は法的には存在しない、国会という場では適当ではない、といった問題はあるかもしれませんが、「軍隊は暴力装置」との用語は社会科学的には市民権を得た用語であり、このことは、押さえておいたほうがいいのではないでしょうか。
 そうでないと、戦争の問題、9条の問題についての討論は出来ないからです。

 マツクスウエーバは、「軍隊・警察は、国家権力の暴力装置」と言い、
 「ウイキペディア」にはこうあります。
 =軍隊とは、侵略または防衛を遂行する権限と能力を持ち、軍事力及び警察
  の一部の行使機関、暴力装置であり、主権国家の象徴でもある=
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民主党よ、沖縄知事選への応援に規制をかけた自主投票とは?     ネット虫

2010年11月18日 10時52分30秒 | Weblog
★沖縄知事選が始まってから、私の周りの民主党支持者がイラついています。
 昨夜もこんなメールが届きました。
=======================================
民主党本部が、沖縄知事選への応援に規制をかけているため、

国会議員が党員サポーターへ働きかけることも困難となりました。

沖縄の議員だけではなく、県外の国会議員が応援するのも制約されています。

みなさまの良心が、このメールを日本全国の民主党支持者へ送る、唯一のルート
です。

知人、友人へ配信して、このメールを民主党支持者のもとに届くように、ご協力
お願いします。

沖縄知事選は11月28日

このメールが日本中をかけめぐることを信じて

*************


民主党の支持者のみなさまへ


2010年沖縄県知事選に向け、民主党は自主投票という結論を出しました。
私たちはこの自主投票を、政権交代を実現した民主党の支持者が乗り越える課題
であり挑戦であると捉えます。

知事選に向け党の判断を待つ間、繰り返し思い出されたのは、一年前の国政への
願いです。
昨年、私たちは、普天間基地移設問題による地域の分断を終わらせたい、米軍基
地の過重負担を解決したい、くらしを支える政治を実現させたいと票を託しまし
た。

その願いは今も変わりません。

米軍施政下で生活を営んだ時代、日本復帰に揺れ動いた時代、復帰後の開発に夢
を託した時代。
そして米軍基地に対し再び抗議、振興策で県民が分断され、それでもなお基地と
取引の形で経済発展を選んだこの16年間ですら、基地に依存しない暮らしと島
の発展を目指す意思は脈々と続いています。

沖縄選挙区で初めて民主党の国会議員が生まれたのは、民主党に手ごたえを感じ
た県民の願い、意思を託した結果です。
党を支持する私たちがこの意思を忘れず、今回の県知事選に臨むことが必要だと
考えます。
何十年にも及ぶ県民の願いを日本政府に実現させる道筋をつくることが正しい選
択であると確信します。

私たちが託した一年前のビジョンは今も生きています。
あきらめず、沖縄の意思を政治に実現させる、そういう支持者でありましょう。
今後4年間、沖縄の願いの原点を真正面に掲げる県知事と沖縄をつくっていきま
しょう。

私たちは、伊波洋一さんを支持します。

沖縄で、全国で、民主党を支えてきた方々へ、支援の輪を広げるよう呼びかけま
す。


沖縄県内の民主党支持者の方へ、

伊波洋一さんの支援の輪を広げましょう。
選挙で政権交代を果たしながら、沖縄の選挙結果を受け入れない民主党政権の姿
勢と政策を変えるため、党員・サポーターから動き出しましょう。


全国の民主党支持者の方へ、

政権交代の意義から離れていく民主党政権。現在の普天間基地問題はその最たる
例です。
地域主権に向き合わない民主党政権の姿勢を正すため、地元の国会議員・地方議
員にあなたの声を届けてほしい。
沖縄県知事選をスタートに、真の民主主義へと歩みだしましょう。



2010年11月

那覇市在住 民主党登録サポーター
 喜友名智子、大城奈里子
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