通貨が同一でも財政統一がないと、財政・銀行などに傷がある国が国際金融に狙われる。ドイツなど豊かな国が結局、そういう国の為に白紙小切手を切るようなものだとも、言われ続けてきた。防ぐ道は財政統一であり、その前段階としての銀行同盟だとも。丁度、住宅バブルが弾けた後の日本が銀行整理をしたようなものなのだろう。だが、日本一国の中でこれをやるのと、銀行同盟が強権を振るって各国銀行の整理統合などを進めていくのとでは、全く意味合い、困難が違うはずだ。ナショナリズムなども絡んで、上手く行くとは到底思えない。貧困国の国民に無制限の耐乏が強いられていくことになるだけだろう。
こんな道よりも、サブプライムバブルを引き起こした空売り、レバレッジという新自由主義グローバリズムという大前提の方が、何故問われないのだろう。持ち金の20倍もの大博打をして国家を揺るがせる「自由」が、そもそもどうして野放しに認められているのか。こういう「自由」こそ世界に失業者の群を生みだし、その結果としてさらに世界の景気を悪くしてきた元凶ではなかったのか。そもそも、ギリシャ、スペインの現窮状でさえ、ドイツ、フランスなども加わった大国の投資銀行が引き起こした住宅バブル破裂が大元なのである。
国家社会は一般国民(の基本的人権)の為に存在すべきものとするならば、新自由主義グローバリズムはこの原理に全く反していると思えてならないのである。G20もそれをめぐる諸論調も、どうしてこの大前提を問わないのだろうかと、不思議でならない。世界の人間たちが血と汗で歴史的に築き上げてきた全ての貴重な原理をば、世界的大金力が蹴散らしているようにしか、僕には見えないのである。
原子力ムラが無数の国民にあれだけの被害をもたらしても、ムラ責任者たちの誰も罰されないというのも、以上の「大前提」と同じ考え方なのだろう。そういう大暴力が大前提として存在しているのだ。僕にはそうとしか思えないのである。
(追加です)
去年8月7日の拙稿『「世界同時多発財政恐慌」に思ったこと』は、その日の中日新聞に浜矩子が寄稿したこんな文章で始めた。
『リーマン・ショックは世界同時多発金融恐慌だった。世界同時多発財政恐慌と、どっちが怖いか。後者に決まっている。レスキュー隊(金融恐慌を救うための国家財政出動をば、浜が経済的救援隊に例えた表現であるーー文科系)が遭難してしまえば、もう誰もレスキューに来てはくれないからだ。かくして、国境なきグローバル時代に、国境を越えられない国家という存在は、消滅の道をたどるほかはないのか』
上に述べた「暴力」の行く末は、本当に浜が言う通りになっていくと思う。仮に、ユーロが統一したとしても、ここと日米中などから次の「弱い国家」の弱点を探し出し、押し広げてでも、空売りレバレッジの対象にせずにはおかないからだ。例えばアメリカはこんなことさえ叫んでいるのだから。
「国家による為替介入操作そのものが『輸出促進の輸入障壁』作りであって、保護貿易主義にほかならない」(本年2月4日拙稿『米の「保護貿易攻撃」、ここまで!』参照)
この理屈をそのまま適応したら、元安を維持している中国などすぐにやっつけられてしまうだろう。「元安為替操作は保護貿易主義の不公正。中国からのこれこれの製品を禁輸とする」と欧米日協力し合って決めるだけでよいのだ。そしてそんな時は多分もう、理屈としては戦争しか残っていないのかも知れない。いずれにしても、残った世界大金融が世界諸国家を統一してしまう? 彼らには、モノの輸出国などちっとも怖くないということなのだから。マネーゲームによる世界統一国家って、どんな光景なのだろうか。いずれにしても、民主主義など欠片もない暴力の世界に思えるが。