九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

祝、JリーグMVP家長昭博   文科系

2019年01月22日 12時09分20秒 | スポーツ
 川崎の家長昭博がJ1リーグMVPを取った。彼については特別に嬉しい褒め言葉、内容がある。
「川崎というチームがあって、そこに来られて、本当に良かったね」
「もう一度、君が貴重な時代が来たんだよね!」
 さて、この言葉、内容について、以下サッカー雑誌などからの抜粋などを試みたい。僕のその問題意識はこういうものだ。ガンバ大阪の育成始まって以来の天才宇佐美はまだ燻り続けているのに、その前のガンバの天才・家長は何故これほどの復活ができたか。そこには、世界と日本の近年サッカーの激変が関与していると、僕は理解している。

 そもそも今の川崎で、家長が、仲間からこれだけの高評価を得られたのは何故か。彼が川崎に溶け込める走力を持っていたことに加えて、彼の能力が「今のサッカーのゴール前で凄まじく生きる」ように時代が変わってきたからだと考えた。宇佐美ならこうはいかない。ゴール前能力でも家長ほどの当たられ強さはない上に、走力が不足するはずだ。そして、この走力、内循環機能は主として中学時代に育つものであって、20歳過ぎて大きくは育むことの出来るものではないという運動生理学上の理屈も付け加わってくる。ただし、スタートダッシュ力はこの例外で、プロになってからでもかなり育つものだ。これは、清水時代の岡崎から知ったことである。岡崎は、元オリンピック短距離選手、杉本氏に師事して走り出しの体の使い方などを身につけるとともに、あっという間に代表レギュラーFW、南アW杯の予選段階世界得点王に成り上がった。

 ともあれ、川崎における家長の評価は、かつての所属チームよりも遙かに高いはずだ。それは、彼がボールを持てる力が、川崎の得点戦術ゲーゲンプレスのゴール前で限りなく生きるからだろう。ドリブル名手だし、相手を抜くことも上手い。ゴール前混戦で敵をハンドオフする力も、倒されない体幹も限りなく強い。このような力は、ゲーゲンプレス時代のゴール前では、繋ぎサッカー全盛時代とは比較にならぬほど大きな宝物になったのだ。加えて、家長は走れるから、出場時間も大変長い。
 川崎でやっていける以上を通り越して大活躍できたのには家長自身の予想も遙かに超えていたはずだが、逆に同時に、「この程度なら、俺にはそんなに難しいことでもなかったな」とも思ったはずだ。だからこうなる、「まだまだ俺は伸びるぞ!」。

 さて、こういう全てが選手育成にとって何が大切かを、新たに示してくれたと思う。何よりも、プロの対人スキルと、広く身方組織を見る目、視野は小学生まで。次いで、走力は、基本的に中学までしか身につかない。身体の強さは高校からでも遅くはないとは、ガンバジュニアで家長に負けていた本田圭佑の今の体力や、憲剛や俊輔が示してきた通りだと思う。
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「サピエンス全史」書評で起こった論争  文科系

2019年01月21日 09時40分50秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 「サピエンス全史」書評の旧稿紹介は、既に(2)(3)をご自分で当ブログを検索されて読まれた方がおられるようだ。ここのアクセスベスト10に(2)が入ってきたからこれが分かった。よってもう、後続編の紹介はしないでこれを初めて紹介した時に起こったある戦争論の論争をご紹介しよう。日本人なら常識になっているような、「人類史論から見たら誤った戦争論」を反論された方がおられたからだ。
 なお、続編(2)(3)は各17年5月3、7日に掲載されている。
 さらにまた、以下の僕は厳しい言葉で応えてはいるが、このお相手SICAさんにはとても感謝している。しっかりした、内容も簡潔明瞭な文章を書かれて、この書の内容の深さを掘り起こして下さったとも言えるからである。げに、人間、人類の明日に臨むに際して、過去の歴史を正しく知る事が大切かという事だろう。ただし、歴史をきちんと知る事はものすごく難しい。それはどうしてなのか。その秘密の最大の柱をこそ、以下の論争からお分かりできるようにと願っている。


【 Unknown (sica)2017-05-03 16:00:44
『現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。政治家も、実業家も、知識人も、芸術家も、戦争は悪であり、回避できると心底信じている』
これには「一般国民」は入ってないんですよね・・・
左翼勢力特有の傲慢さを感じるのは私だけでしょうか

Unknown (s)2017-05-04 04:34:16
私は
『現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。政治家も、実業家も、知識人も、芸術家も、戦争は悪であり、回避できると心底信じている』
に疑問を呈しただけで、「政治指導層が平和を愛する心を持ったから戦争が少なくなった」より「戦争は損になる割合が多くなった」「核による恐怖の平和」という現実を認めているのなら、それほど反論もありません】


【 反論 (文科系)2017-05-04 19:05:49
 この文章に反論。
『私は「現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。政治家も、実業家も、知識人も、芸術家も、戦争は悪であり、回避できると心底信じている」に疑問を呈しただけで、「政治指導層が平和を愛する心を持ったから戦争が少なくなった」より「戦争は損になる割合が多くなった」「核による恐怖の平和」という現実を認めているのなら、それほど反論もありません』
 これも、この歴史家が述べているような人類の過去の史実、人間の真実を知らなくって、現代の感覚で過去を見るから言えること。だからこそ、「この点に関して、過去の人類がどうだったかを貴方知っているのですか?」と怒って詰問した訳でした。
 貴方が嘲笑った文章のすぐ前にこう書いてあります。
『歴史上、フン族の首長やヴァイキングの王侯、アステカ帝国の神官をはじめとする多くのエリート層は、戦争を善なるものと肯定的に捉えていた』
 つまり、民主主義はもちろん、広範囲な統一国家も少ない時代では、我が部族だけが「人間」で、他は獣なのです。獣に対する人間の勝利は「我が信ずる神の栄光」も同じこと。こう理解しなければ奴隷制まっ盛りの時代なんて到底分からない訳です。
 こういう大部分の人類史時代に比べれば、「人種差別は悪」というような「民主主義のグローバル時代」では、どんな為政者も「戦争は悪」、万一必要と理解したそれでさえ悪となるわけ。つまり必要悪。


 追加です (文科系)2017-05-05 17:02:16
 追加します。
 こういう大事な史実一つを知っているかどうかで、現代史とその諸問題の見方もかなり変わってくるはずだ。現代世界政治で最も重要な民主主義という概念の理解でさえもこうなのだから。つまり、今の民主主義感覚で過去の人間も観てしまう。
 現生人類どうしでさえ、「自分の感覚で相手を捉えて,大失敗」とか、長年の夫婦でさえ、『相手がこんな感覚を持っていたとは今まで全く知らなかった。人間って、違うもんだなー』なんて経験は無数にあるのだ。そして、相手と自分が違う点が認められた特にこそ、人間理解、自己認識が一歩進む時なのだ。ソクラテスが喝破したように「自分を知るのがいかに難しいか」と同じように「(過去の感覚との違いを認めてこそ)その時代の感覚を知ることができる」ということがいかに難しいかという問題でもある。
 だから僕は、このブログにこんなことも書いてきました。僕は時代劇なんてまともには観ない。すべて嘘だからだ。現代の感覚で過去の人間を見ている。現代人に、「士農工商」が華やかだった江戸時代前半の人々の対人感覚が分かるはずがない。
 時代劇なんて全て、当時の感覚からすればリアルさに欠けるはずである。
 むしろ、それをいい事に、現代のリアル感覚を書けないストーリー作家が時代劇を書くのだろう、などと。

 反論が書けなかった? (文科系)2017-12-21 18:14:17
 SICAさん、反論が書けなかったでしょ? ご自分の判断基準が、世界史から見たらいかにちっぽけな、狭いものかが、お分かりになりましたか。(この場合は僕が自分を誇っているのではありません。この著作それに顕れた人類史を誇っていると言えるでしょう。・・・これは今回付けた文章です)
 このエントリーがベスト10に入ってきて、改めて読み直したもの。それでお返事。
 民主主義とか、一般的殺人が悪などとなったのでさえ、たかだかこの200年程のことです。200年前など、今のアメリカでは黒人を殺すことなど何ともありませんでした。人間ではなく、所有物だからです。ジャンゴという映画見たことがあります?

 こうして・・・ (文科系)2017-12-25 07:10:34
 こうして、例えば200年ほど前から民主主義がどう変化、発展してきたかが分からなければ、今後50年など何も見えてこないわけです。そういう人がまた「戦争は人間の自然、必然」などと語っているのでしょう。僕は、そのことが言いたかった。
 過去の世界変化がきちんと見えなければ、未来は予測も希望も出来ないということ。特に日本だけを見ていたり、20世紀になって初めて出来た世界の民主主義組織・国連も見えなければ、日本の明日も見えて来ないでしょう。】
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書評「サピエンス全史」(1) 文科系

2019年01月20日 10時35分51秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 この世界的ベストセラー本の著者、ユバル・ノア・ハラリは最近NHK・BS1スペシャル特集番組に出たりして、かなり名が知られてきた。ちなみに、日本でも100万部を達成したとか。よって旧稿を再掲する事に決めた。特に戦争というテーマを重視して、三回に分けて内容紹介をしてみたものだ。


【 書評「サピエンス全史」(1)野心的人類史  文科系  2017年05月01日

 例によって、要約付きの書評をしていくが、なんせこの本は題名が示すとおりハードカバー2冊合計500ページを優に超えてびっしりという大部なもの。ほぼ全部読み終わったが、人類史をその通りの順を追って紹介してみても仕方ないので、この本の特徴とか、目立った章の要約とかをやっていく。その第1回目として、この本の概要と特徴。

 オクスフォードで博士号を取った40歳のイスラエル人俊秀の歴史学者が書いた世界的ベストセラー本だが、何よりも先ずこの本の野心的表題に相応しい猛烈な博識と、鋭い分析力を感じさせられた。中世史、軍事史が専門とのことだが、ネット検索にも秀でていて、古今東西の歴史書を深く読みあさってきた人と感じた。ジャレド・ダイアモンドが推薦文を書いているが、このピューリッツァー賞学者のベストセラー「銃、病原菌、鉄」や「文明崩壊」(当ブログにこの書の書評、部分要約がある。06年7月8、19、21日などに)にも匹敵する守備範囲の広い著作だとも感じさせられた。両者ともが、一般読者向けの学術書をものにして、その専門が非常な広範囲わたっている人類学者の風貌というものを成功裏に示すことができていると思う。

 まず全体が4部構成で、「認知革命」、「農業革命」、「人類の統一」、「科学革命」。このそれぞれが、4、4、5、7章と全20章の著作になっている。
「認知革命」では、ノーム・チョムスキーが現生人類の言語世界から発見した世界人類共通文法がその土台として踏まえられているのは自明だろう。そこに、多くのホモ族の中で現生人類だけが生き残り、現世界の支配者になってきた基礎を見る著作なのである。
 「農業革命」は言わずと知れた、奴隷制と世界4大文明との誕生への最大の土台になっていくものである。
 第3部「人類の統一」が、正にこの作者の真骨頂。ある帝国が先ず貨幣、次いでイデオロギー、宗教を「その全体を繋げていく」基礎としてなり立ってきたと、読者を説得していくのである。貨幣の下りは実にユニークで、中村桂子JT生命誌研究館館長がここを褒めていた。ただし、ここで使われている「虚構」という概念だが、はっきり言って誤訳だと思う。この書の中でこれほどの大事な概念をこう訳した訳者の見識が僕には疑わしい。哲学学徒の端くれである僕には、そうとしか読めなかった。
 第4部は、「新大陸発見」という500年前程からを扱っているのだが、ここで語られている思考の構造はこういうものである。近代をリードした科学研究は自立して深化したものではなく、帝国の政治的力と資源・経済とに支えられてこそ発展してきたものだ、と。

 さて、これら4部を概観してこんな表現を当てた部分が、この著作の最も短い概要、特徴なのである。
『さらに時をさかのぼって、認知革命以降の七万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか?・・・・もしそうでなければ、農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?』(下巻の214ページ)


 日本近代史の偏った断片しか知らずに世界、日本の未来を語れるとするかのごとき日本右翼の方々の必読の書だと強調したい。その事は例えば、20世紀後半からの人類は特に思い知るべきと語っている、こんな言葉に示されている。
『ほとんどの人は、自分がいかに平和な時代に生きているかを実感していない』
『現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。政治家も、実業家も、知識人も、芸術家も、戦争は悪であり、回避できると心底信じている』

 と語るこの書の現代部分をこそ、次回には要約してみたい。こんな自明な知識でさえ、人類数百年を見なければ分からないということなのである。げに、正しい政治論には人類史知識が不可欠かと、そういうことだろう。第4部「科学革命」全7章のなかの第18章「国家と市場経済がもたらした世界平和」という部分である。

(続く) 】


 この書評は三回続くが、あまりにも予想通り、予想した箇所で(上記文中の最後の太字部分などで)、右らしき方々から社会ダーウィニズムにどっぷりとつかったと言える反論が出てきた。書評、内容紹介文言自身への反論だから、この作者への反論になるのだが、そこから起こった討論も4回目に紹介してみたい。
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記録映画「チリの闘い」3部作を観た  文科系

2019年01月19日 18時11分17秒 | 文芸作品
 昨日名古屋のシネマテークでのこと。アメリカが起こした1973年9月11日の世界史的クーデターを図らずも前段階から目撃、撮影することになった噂の3部作である。2回の休憩を挟んだ合計上映時間は、4時間を優に超えたと思う。選挙で生まれた史上初の社会主義政権、大統領を、軍部クーデターで倒したという、その結末を記録した映画である。要所の報告という形式で、以下を進める。

 チリにアジュンデ大統領が自由選挙によって生まれたのは、1970年11月。その時から映画監督パトリシオ・グスマンは史上初めてのこの「政治的実験」を記録映画に収めるべく、各方面へのインタビュー撮影などを始めた。第一部はまず、右派が総力を上げたアジュンデ政権不信任投票とその政権側勝利から始まる。この敗北から右派が政権破壊工作をどんどん強め、これがことごとく失敗した末に、最後に大統領府への軍部突入、大統領殺害クーデーターで終わるまでを描いていく。

 僕のメモには、これを書くために残したこんな記録がある。
①アメリカが、この国への輸出を急速に止めていき、最後には往時の15%程度になっていたこと。これはつまり、国民生活を困難に陥れる目的、反政権感情の増大を狙ったものだったということ。
②アメリカCIA工作員が、最多時40名入っていたこと。また金銭面では最高時500万ドルの政権転覆工作資金も流れたということ。
③軍が、公然と政権反対を唱え、はなから文民統制違反を広言していたこと。アメリカが軍将校などをパナマの軍事訓練学校に招いて、ずっと教育、訓練してきたということ。
④GNPの2割を占める銅鉱山操業を反革命ストライキで75日間も止めて、最大の外貨獲得手段を妨害したこと。これも、国民生活を困難にする政権妨害工作なのである。
⑤運輸業経営者団体がそのトラック使用を許さないというロックアウトを敢行して、物流を止め、国民生活を困難に陥れたこと。
⑥軍隊が勝手に出動して、労働組合事務所などを徹底的に捜査して、人民が武器を持っていないかを調べ尽くしていったということ。結局どこにも何も武器はないということを確認し続けただけだったのだが。
⑦一度大統領官邸を戦車で包囲して22名の警護警察官を殺し、国民の反応を伺うという、様子見をしていること。
⑧アジュンデ政権が和解の相手に選んで連立政権が成功しかけたカトリック教会(キリスト教民主党)の動きを潰したと言うこと。
⑨最後に、あの細長い国の沿岸部に4艘の米駆逐艦を集結させて、その上で軍部が大統領府爆撃を始めて、その後に官邸突入、大統領殺害が起こったということ。

 選挙で出来た政権を倒す。その大統領府に突入して、大統領を殺すことまでして。20世紀後半に起こった最大の政治的悲劇の一つだろう。


 追加の一言  この政権を混乱させ、疲弊させるまでと同じことを、今アメリカはベネズエラにやっている。世界のドル基軸通貨体制死守と結びついた、原油独占価格制度を守るために。ベネズエラとイランがアメリカの仇敵のようになってきたのは、このためである。アメリカの原油政策に従わない2国だからだ。ベネズエラ、イランはそれぞれの原油埋蔵量で世界1位と4位の国だ。今で言えば、シェールガス経由原油がまだ高値だから、何とかそれ以上の価格に保ちたと懸命なのである。日本は当然、アメリカの言うがままの価格になっている。世界一高い高速道路料金を取られたうえに、猫の目のように上がる高いガソリン代も税金のようなものだ。
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ランニング賛歌  文科系

2019年01月19日 18時06分36秒 | 文芸作品
 五十九歳からランニングを始めた僕は、五月が来ると七四歳になる。ランが老後にこれだけの恵みを与えてくれるとは、想像もつかぬことだった。
 膝が痛い? 新聞広告に満載される、コンドロイチンにグルコサミン? 若い頃椎間板ヘルニアで手術をしたこの身体なのに、その腰ばかりか膝にも、何のサプリメントも要らない。そもそも肩や首など、こったことがない。だから、パソコンに向かい続けていて、ふと気がつくと四~五時間なんてことはざらである。痩せるための健康器具? 体質もあるだろうが、僕が二十代に作った式服を着られるのは、スポーツ好きと今のランニングのおかげと確く信じている。身長一六九センチ体重五七キロで、二八インチのジーパンをはいている。ずらずらとこう書くとこの時代には特に自慢にしかとられないのは承知だが、まー一生懸命やってきたランニングの絶大な効果を伝えたいのだと、ご理解願いたい。
 医者たちからはこんな話も聴いている。「時速七キロ以上で歩ける人は長生きする」。当然、そうだろう。血管も含めた循環器系統が健全ならば、成人病も逃げ出すというもの。歯医者さんでこんなかけ声が行き交っているが、同じ理屈関連とも教えられた。「八〇歳まで自分の歯が二〇本ある人は、長生きする」。「健全な循環器系は細菌に対して免疫力があるということ。虫歯菌にも歯槽膿漏などにも強いのです」と教えられた。

 さて、こう考える僕だったから、六九歳新春に起こった慢性心房細動には、対する心臓カテーテル手術・ランニング禁止では、僕の人生が終わったと感じた。手術以前も、つまり慢性心房細動になる直前までは、不整脈を抱えてずーっと走り続けていたのである。それが手術の後には、無期限でもう止めなさいと医者に宣告されたのである。そんな未練からなのだが、七一歳の夏に医者に隠れて走り出し、「大丈夫」という実績をほんの少しずつ作っていった。秋には、主治医からの公認も取り付け、ジムに通い出す。以降故障や事故や試行錯誤等々も重なったけれど、今は心房細動前六六歳ごろの走力に戻っている。この一月七日、一時間の走行距離が念願の一〇キロに達した。僕にとっては六〇歳台半ばの走力に回復して、数々のメリットを改めて体感しているのである。最も嬉しかったのはこんなことだ。
 階段の上り下りが楽しいのである。地下鉄などの長い階段を一段飛ばしで登り切っては、脚の軽さを味わっている。一時無理がたたってアキレス腱痛に長く悩まされたが、試行錯誤を重ねつつこれを克服し終えた時に、新たに生まれた脚の軽さ、弾み! スキップが大好きだった子ども時代を思い出していた。

 昔の自分の小説で思いついて書いた僕なりのランニング賛歌を最後に加えて、結びとしたい。自分ながら好きな文章なのである。 
『ボスについて走り続けるのは犬科動物の本能的快感らしいが、二本脚で走り続けるという行為は哺乳類では人間だけの、その本能に根ざしたものではないか。この二本脚の奇形動物の中でも、世界の隅々にまで渡り、棲息して、生存のサバイバルを果たして来られたのは、特に二本脚好きの種、部族であったろう。そんな原始の先祖たちに、我々現代人はどれだけ背き果ててきたことか?! 神は己に似せて人を作ったと言う。だとしたら神こそ走る「人」なのだ』


(2015年春に所属同人誌の月例冊子に掲載)
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小説 「死に因んで」(その3 終わり)   文科系

2019年01月18日 11時40分30秒 | 文芸作品
〈同窓会は仕事社会ではなく、楽しむ場所。老年期の男としてみれば話題が多くて面白いはずの人間が、なおかつ正直、潔癖を現しただけと言えるその行為が、社会的礼儀だけを振りかざしてこのまま拒まれるはずはない〉
 今振り返ってみれば「改めて、出てくれと言ってきたら」と彼女が語ったのには、そんな見通しが含まれていたのだ。こんな発想は、俺が思うには今の日本の男からはなかなか出てこない種類のものだろう。相手の格とか、自分への”扱い”とか、公の”顔”など下らないことばかりに慣れてきたからだ。それでその時の俺も、出てくれなどと言ってくるわけがないと思い込んでいたのである。そんな剣幕であの場を飛び出し、皆を蹴っ飛ばしてきた、その剣幕、威力は自分が一番よく知っていることだし。その点まーまーの女は、公的な場所にいてさえ自分の文化、好みのようなものを必ず同伴させている、と俺は観てきたのだった。
 さて、笠原から折り返しのように、こんな表現が入った手紙が来た。
『大個性の貴兄がいての楽しい会です。貴兄が怒ったのも、貴兄の”素”であって、何も謝る必要はありません。飲んで語るのも、文章朗読で自己を表現するのも同じ事。まして、貴兄のように同人誌をやっているとすれば』 
 この手紙にしばらく応えないでいたら、間もなく吉田からも小島からも電話があった。吉田はこんなことを言う。「あの話はいけないとかー、この話もいかんよとかはいかんよなー。それと同じで、朗読をやれと言った以上はぁー、聞いていないとーやっぱりまずいよねー」
 小島の口調は明らかに笠原と連絡を取っている事をうかがわせた。そして何度も、おずおずとのように慎重な言葉選びで「出てくるよなー?」と聞き返してきた。さて、小島とのこの電話の時には、俺はもうこんな心づもりになっていたのである。その時には、全く口に出さなかったのだけれども。
〈謝る必要がなくなったから、もう出られる。卑屈になる必要は全くなくなっただけではなく、ちょっと勿体ぶるぐらいにして出てやろう。あの随筆も次回にさっそく、最後まで読んでやるぞ〉
 すべてが望む通りに運んで、何か不思議な思いだった。この時、次のこの会と友人たちに対して武者震いの汗をかいている自分を発見して、驚いた。

 こうして、次の会が始まった。いつもの部屋で、いつものように肴を一渡り注文する役目を果たす間も、どこか腰の辺りの座りが悪く、何かをしゃべる気にもならない。顔はきっと、シリアスで作ったようなもんだったろう。皆も俺の顔を見辛いような感じだし、こりゃ早く決着付けなくっちゃ………。アルコールの二杯目に入る前の辺りで、「じゃこの前のをもう一度読むからな、聞いててくれよ」。いつもよりさらに抑揚少なく、棒読み同様に読み進んでいた。今度は、最後までみんな静かに聞いてくれた。読み終わって、小島が言う。
「これからは、プリントしてきてくれないかなー」
 俺が「分かったそうする」と応える。すると堀が太い声で、微笑みながら言った。
「ごちゃごちゃせんでも、こーいうときは『ご免』の一言持って出てくればえーんだ」
 これには、俺としては是非一言返しておかねばならない。
「また飛び出したらまずいだろ。俺は大事なことしか書かんけど、ここで読むのは特に大事なものばかりでね」
 こうして、その次以降も自作随筆をあれこれと読んで行った。翌年の初夏のころにはこんなのを読んだ。

── よたよたランナーの回春
 メーターはおおむね時速三〇キロ、心拍数一四〇。が、脚も胸もまったく疲れを感じない。他の自転車などを抜くたびにベルを鳴らして速度を上げる。名古屋市北西端にある大きな緑地公園に乗り込んで、森の中の二・五キロ周回コースを回っているところだ。たしか六度目の今日は最後の五周目に入ったのだが、抜かれたことなど一度もない。ただそれはご自慢のロードレーサーの性能によるところ。なんせ乗り手の僕は七十才。三年前に二回の心臓カテーテル手術をやって、去年の晩夏に本格的な「現状復帰」を始めたばかりの身なのである。日記を抜粋してみよう。
『突然のことだが、「ランナー断念」ということになった。二月初旬までは少しずつ運動量を伸ばし、時には一キロほど走ったりして、きわめて順調に来ていた。が、十六日水曜日夕刻、いつもの階段登りをやり始めて十往復ぐらいで、不整脈が突発。それもきちんと脈を取ってみると、最悪の慢性心房細動である。ここまで順調にやれて来て、十一日にも階段百十往復を何の異常もなくやったばかりだったから、全く寝耳に水の出来事。
 翌日、何の改善もないから掛り付け医に行く。「(カテーテル手術をした)大病院の救急病棟に予約を取ったから、即刻行ってください」とのこと。そこではちょっと診察してこんな宣告。「全身麻酔で、AEDをやります」。このAEDで、完全正常に戻った。もの凄く嬉しかった。なのに二五日金曜日、掛り付け医に行き、合意の上で決められたことがこれだったのである。
・年齢並みの心拍数に落とす。最高百二十まで。
・心房細動が起こったら、以前の血液溶融剤を常用の上、AEDか再手術か。
 さて、最高心拍数がこれなら、もう走れない。速度にもよるが百五十は行っていたからである。僕も七十歳。ランナーとして年貢の納め時なのである。』
そんな境地でも未練ったらしい足掻きは続けた。ゆっくりの階段往復、ロードレーサー、散歩、その途中でちょっと走ってみる。すべて、心拍計と相談しながらのことだ。そして、心拍数を少しずつ上げてみる。初めはおっかなびっくりで、異常なしを確認してはさらに上げていく。気づいてみたらこんな生活が一年半。一四〇ほどなら何ともないと分かってきた。すべてかかりつけ医に報告しての行動だ。そして、去年の九月からはとうとう、昔通りにスポーツジムにも通い出し、今では三十分を平均時速急九キロで走れるようになった。心拍の平常数も六十と下がり、血流と酸素吸収力が関係するすべては順調。ギターのハードな練習。ワインにもまた強くなった。ブログやパソコンで五時間ほども目を酷使しても疲れを感じないし、体脂肪率は十%ちょっと他、いろいろ文字通り回春なのである。先日は、十五年前に大奮発したレーサーの専用靴を履きつぶしてしまった。その靴とサイクル・パンツを買い直したのだが、こんな幸せな買い物はちょっと覚えがない。今度の靴は履き潰せないだろうが、さていつまで履けるだろうか。─── 

 この長い文章をみんながどれだけ静かに聞いてくれたことか。いや靜かにと言うよりもっと好意的なのだ。合いの手が入った。笠原から始まった「ふーん」「それで?」まではいーだろう。それがやがてみんなに移って行って「がんばっとるなー」から、「十%!………筋肉ばっかだ!」などともなると、わざとらしいとも感じられて笑えた。でも、凄く嬉しかった。読み終わったとき、吉田がまっ先に、俺の反対側の机の端から長い身体を乗り出すようにして、彼としては珍しい大声を出す。
「これはーっ、非常にーっ、よく分かる! あなたの同人誌小説はー、息子さんの商売のことを書いたやつだったかなー、さっぱり分からんのもあったけどー」
 この声自身もその内容も俺には全く意外だった。けれど、すぐに反論の声が上がったのがまたさらに意外だった。俺の向かいにいた小島が吉田の方に顔を向けて、
「あの息子さんの仕事の小説なら、僕はあれは面白かったよ。意外にと言っちゃなんだけど。山場らしい所もなく何でもない筋なんだけど、気づいたら一気に読めてた」
 これは、この作品に対しては願ってもめったに出てこないぴったりの評なのである。事実俺は、あれをそのように書いたのだ。このやりとりを一人反芻して悦に入っていたら、伊藤がこんな申し出をしてきた。恐い顔を崩し、柔らかいバスをさらに柔らかくして、
「心臓の手術したんだよなー。それでこれだけがんばっとるんだよなー。ちょっとこの場で腕相撲してもらってもえーかな?」
 俺の倍ぐらいに見える腕だったが、俺は即座に応じた。若いときからこういう腕をも相手にして何度も勝ってきたという体験と自信があったし、ランニングのためのジムで上半身を今も一応鍛えてはいる。が、結果は、かなり粘ったが負けた。
「今どきの中小企業の現役社長さんは、やはり苦労が違うんだなー。肉体労働も目一杯やっとるとみえて、強い強い!」
 心からそう叫ぶことができた。嬉しい悲鳴のようにも聞こえたろう。何せ俺は、他人の特技を褒めるのが好きなのである。褒めると言うよりも、良いものは良いというわけで、自然に声が出てしまう。伊藤は伊藤で、俺を励ましてくれた積もりなのだろう。
 すると、遠くの壁際に座っていた吉田が、俺に向かってまたしても、大き目の声を出す。
「あのさー、整体師と一緒にやってきた結果だけどー、見てくれるー」
 そう言って立ち上がると、壁際に背を向けて立つ。そして、腰を沈め加減にする。彼のその体勢の意味が俺にはすぐに分かったので、吉田の後頭部だけに眼をやっていた。腰と胃裏の背辺りとがぴたりと壁に付いた上に、後頭部も膨らんだ髪の毛の先が壁にほとんど着いているように見えた。この光景、いや姿勢に感心したこと! 俺の口からこんな声が出たものだ。
「男やもめが、よくそこまで頑張ったなー。あんたの寿命が半年前より五年は延びたぞ。そんな姿勢が続く間は、ここにもずっと歩いて出てこれるしー……。堀よー、みんなで”吉田を長生きさせる会”でも作ろうかー?」 
 普通にひょろーっと立ち直した吉田が、にそーっと笑って堀の顔を見た。小島と山中さんが同時に拍手を始めたら、それがすぐに全員に広がっていった。

(終わり)
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ゲーゲンプレスのスイッチ、憲剛   文科系

2019年01月17日 15時14分44秒 | スポーツ
 川崎の強さの元がゲーゲンプレスそのものだと観ていたが、それを解説してくれる中村憲剛のインタビューを読むことが出来た。「Jリーグ サッカーキング」2月号、J1、2、3各リーグ優勝チーム特集号である。なお、サッカーキングという雑誌はとても内容がよいと思ってきたところから、最近の僕はもっぱらこれを愛読している。ちなみに、サッカー雑誌も良貨が悪貨を駆逐して欲しいと愚考してきた。この国のサッカーファンの質に関わる問題だと思うから。

 初めに、ゲーゲンプレスの定義をしておく。この得点戦術の元祖ドルトムント時代のユルゲン・クロップ監督の解説はこういうものだ。
①相手陣地に押し込んだ時、相手が自ボールを奪って攻めに出た瞬間こそ、そのボールを奪えればゲーム中最大の得点チャンスができる。これが、この得点戦術そのものの着眼点である。
②そこから、敵陣に攻め入った時にあらかじめ①を意識しつつ攻めることになる。例えば、身方後方になるべくフリーな相手を作らないようにしつつ攻める。奪われた時にボールの受け手になる人間を作らないようあらかじめ意識して準備をしておくということだ。DFラインを押し上げて縦に陣地を詰め、そこに身方を密集させる「コンパクト」が、このための布陣にもなる
③その上で、ボールを奪われた瞬間に敵ボールに近い数人が猛然とプレスに行き、他はパスの出先を塞いで、パスが出せないようにする。この「攻から守への切替」をいかに速くしてボールを奪うかが、ゲーゲンプレスの要になる。言い換えれば、そうできる準備を、敵に攻め入った時いかに周到にしておくか、そういう組織的訓練がゲーゲンプレスの練習になる。

 さて、憲剛の優勝総括を聞いてみよう。
『例えば、鬼木体制になってからの変化として、守備の楽しさを覚えたと話している。・・・・ボールを失った瞬間に、素早く切り替えてボールを取りに行くこと。そして球際の局面で力強さを出すことである。・・・それこそが鬼木監督が掲げているサッカースタイルなのだ。・・・もちろん、守備に楽しさややりがいを見出したと言っても、それが目的というわけではない。守備が目的ではなく、目的はあくまでもゴールである。「攻撃のための守備」というのが鬼木体制における合言葉だ。・・・「相手がボールを取った瞬間に、取り返しに行く。息をつかせない。今は、それがチームの戦術にもなっているし、周りの身方も早く反応してくれる」・・・そんな守備のスイッチ役としてプレッシャーを掛ける仕事には、時に嬉しい見返りもある。相手のボールを狩りに行き、そのままゴールに(この場合は、堅剛自身のゴールに)繋がる形がそれだ。・・・』

 川崎は風間時代にはどうしても優勝できなかった。それが鬼木時代になったとたんに、2連覇。この繋ぎ上手チームの優勝への画竜点睛こそ、以上のゲーゲンプレスの取り入れ、『「攻撃のための守備」というのが鬼木体制における合言葉』であると分かるのである。

 一時のACLなど、アジア相手にも当たりが弱かった日本クラブが、これを急激に強め始めた時代が、ちょうどゲーゲンプレスの日本取り入れ時代と重なるのである。最初の森保広島、次いで鹿島、今の川崎・・・。ただ、川崎の時代はまだしばらくは続いていくはずだ。憲剛の後にも怪物・家長がいるし、小林のフォアプレスも止むことはないだろうし。
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小説 「死に因んで」(その2)   文科系

2019年01月17日 12時54分15秒 | 文芸作品
 宴たけなわの頃、前から予告しておいたのだが、ある随筆を読み始めた。もちろんその場でも皆の了承を取って。俺が現役時代から二十年ほど属している同人誌に、ちょうど一年ほど前にのせた作品である。一年前に書いた作品を、予告・了承を取り付けていた初めての朗読でやったのだから、中途半端な気持ちでなかったのは確かだ。ちなみに、全文を書いてみれば、こんな作品である。

── 死にちなんで
 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠っても、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、聞いていたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れない。
 小学校の中ごろ友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。ほどなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な民間福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、親との諍いが、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。
 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りにすぎぬとしても、この苦しみが夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、僕のこの「症状」ははてさて、最近はこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」
 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめてきたからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美の快に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んできた。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページに過ぎぬ曲なのだが、ほぼこの曲だけを日に二~三時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二からの手習だから通常ならとっくに「まー今の腕ではここまででしょう。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。と言っても、希望するだけでこんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。こんな熱中ぶりが、自分でも訝しい。
「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。───

 今思えば、随筆のタイトルのせいもあろうかして、こんな場所の皆がこれを良く聞いていたと思う。朗読の中ほどまでは全く静かだったからほっとしていたのだ。そのあたりから一人二人がお喋りを始め、それが急激に広がっていった。残り三割ほどになったとき、実際はそうでもないのだろうが、俺には誰も聴いていないとしか感じられなかった。この作品が自分にとって大事なものだという気持ちが強すぎて、そう見えたのだろう。とにかく、こんな行動に打って出てしまった。朗読を止め、適当にお札を出して机の上に叩きつけながら、「こんな会、もう出てこん!」とか、「だから日本の男は嫌いだー」とか、何か捨て台詞のようなことを叫びながらそこを飛び出して行った。来たときと同様に電飾などにぎやかな繁華街を引き返していた時もその間中、燃え上がり渦巻いていた怒りを鎮められないでいた。それどころか、逆に懸命に油を注いでいたように思う。唱えるように繰り返したこんな言葉を今でも覚えているから。
〈あんな会、もう、出てやるもんか! 俺には、出る意味が、全くない。あれほど念を入れて予告し、了承も取り付けてきたのに………〉   

 さて、翌日からは、悶々とした日々が続いた。こんなに親しい、あるいは親しくなった連中とのこの場所に出ないならば、全員をしっかり見知った百三十人(中学から高校で入れ替わり分がダブっている)ほどの同期会自身にも出辛いことになる。普通に考えれば俺の態度が礼を失することも明らかだ。謝罪などは、反省点があるととらえたらいくらでもできる性分だが、およそその気になれないのである。そんな数日が続いた後に、笠原から手紙が届いた。この会の成り立ちをせつせつと振り返ったうえで、こう結んでいる。
「ジェントルマンであるのが、最低のルールです。………次回○月○日には皆さんの元気なお顔を期待しています」
 成り立ちを振り返ったのは「お前と二人でやって来たのだぞ」という意味と、「お前も世話役、ホストだろうが」との意味も込められているのだろう。対して、十日ほど悩み抜いた末にとうとう、こんな結論を記した手紙を出したのだった。
「こういう手紙、ご案内をいただいたことに、まず心を込めて感謝したいと思います。『昔からの友達』なればこそとね。あーいう非常識な去り方をした以上そちらからはほかっておかれても普通だと、僕も思いますから。………今後はそこに出ません。そして、同窓会も出ないと決めました。………まー僕もすごく短気になりました。人生が短くなるごとに、生き急いで、見ている世界が狭くなっているのでしょう」

 こうして、俺の中で事が一段落したその夜に、この終始をそのままに連れ合いに持ちかけてみた。問題になっている事柄の内容をもう一歩整理してみたかったからだし、同期生たちと会えなくなるという後悔、未練も残っていたのである。
「この前、同期の定例飲み会に絶縁状叩きつけるようにして席を蹴ってきたって、話したよなー。何回か読んでもらった『死にちなんで』という随筆の朗読絡みだとも。あれからこんなことがあってね………」
 怒りの内容、笠原の手紙、そして俺の返事、順を追ってすべてを話し終わった。と言っても、この頃の俺はすらすらとは話を進められない。言葉を探して言いよどんだり、言い忘れていた話にぶち当たって前に戻ったりで、そんな時は相手の腰や腕がむずむずしているのが手に取るように分かる。さてそのむずむずが溜まりに溜まって、どんな返事が返って来るだろう。思いもしないほどきっぱりとした、明快なものだった。これには、逆に俺が驚いたほどだ。
「あなたのアイデンティティー絡みなのだから、譲りたくなかったらそれでよし。というか、あなたにはむしろ、この外って置く方を勧める!」
 俺は一瞬、彼女の目を見直した。こういう時、場面における連れ合いの迷いのなさには、時に驚くことがある。が、すぐに俺への忠告含みと受け取ることができた。感情が強くて近ごろ特にトラブルを起こしがちな上に、世間への見方がどこか普通ではないかして譲りすぎてしまうことも多く、誤解とか損とかを招いてきた俺を知り抜いているからの忠告なのである。もっとも彼女の方は、家族とごく少ない古くからの友人以外は疎遠になっても一向に構わないという、俺とは正反対の所がある。まー「袖すり合うも多生の縁」という諺などは、金輪際思いつかないような種類の人だ。案の定、こんな達観した説明が追加されてきた。
「この随筆が貴方にとってどれだけ大切なものか、他の人たちに分かるの? あなたって、テレビもサッカー以外は観ないし、同人誌でもこれと関わりの少ないことはほとんど書いてないはず。この随筆のギター場面でも単なる音楽好きとだけ取られることもあるよねー。確かこの作品の合評会でも『問題提起の重さの割に、ギター場面が軽い』とかの声も出たとか。貴方のギター生活を毎日観てる私には、とてもそうは思えないけどね。とにかく、これであっさり謝ったら、単なる礼儀知らずか、酔っ払いと思われるだけじゃない」
 なるほどと思った。流石出会ってこの五十数年、ありとあらゆるケンカをし尽くしてきている仲だけのことはある。世間との付き合い方も対照的だからこそ、こんな的確な判断、表現が出てきたのだろう。そしてさらに、こんな老婆心までが続いたものだ。
「ただね、もし向こうが改めて出てくれと言ってきたら、どうするの?」
 これには即座にこう答えたのは言うまでもない。
「だったら、改めて出席して、あの随筆を読み直すよ」
 そう口に出しながら、こんな思いを巡らせていた。こういう人間がいると主張し尽くすのも、良いことだろう。特に、日本の男たちには。だが、「出てくれ」ともう一度言ってくるだろうか? 対する彼女の方はと言えば、この時はこんな見通しを持っていたようだ。俺には思いつきもしなかったことだが。

(次回終了)
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日韓断絶ここまで、韓国国防白書  文科系

2019年01月16日 12時24分02秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 目立たない記事だが、今日の中日新聞3面に大変なニュースが載っている。日韓断絶がここまで来てしまったかとため息が出るような。18年版国防白書の内容を抜粋してみよう。

 何よりも問題と言えるのは、こんな下り。
『南北関係の改善を受け、北朝鮮を「敵」とする従来の表記を削除した。日本については、「自由民主主義と市場経済の基本価値を共有している」との文言が消えた』
『日本に関しては、周辺国との軍事交流・協力の記述では、16年版は日本、中国の順だったが、中国、日本と入れ替えた』


 北朝鮮を敵とする記述を消して、日本とは基本価値を共有しているとは言わなくなり、軍事協力でも日本より中国寄りに換わったと国防白書に明記したというのだから、その日本関係変化を一言で言えばこんな姿勢、表現になる。日本に対して背中を向けて、中国の方へと、遠ざかって行った、と。
 そしてこのことは、近未来の米中関係予測からして、従来世界政治地図をも塗り替える途轍もない行動だと解釈するほかは無い。隣国韓国は日米に根本的不信を持つに至ったのだ、と。トランプ暴政下になってもなお揉み手を擦るようにしてアメリカに近づいている安倍日本政権に対して、文政権がそんな日本よりも中国との軍事協力を重視し始めたというのであれば、韓国はアメリカからも距離を置く決意をしたということである。

 さて、この韓国外交の大転換には、日米に対するよほどの不信があったのだろうと推察できるのである。すぐに思い出すのがこの二つの世界史的大事件だ。90年代のアジア通貨危機と08年のリーマンショックとで、日米から徹底的に搾取された恨み、不信。この韓国の窮状を、日米に懇願してさらに従属を強める方向で解決しようとした韓国旧朴政権に対して、文政権はこう振る舞ったということではないか。
『もう日米政権には頼らないことにした。中国の方がよほど信頼できる』

 どうだろう、こういう事態が既に実質進んで来たと理解すれば、日韓関係最近の鞘当ての様な事件の数々もよく理解できるというものだろう。慰安婦の「不可逆的解決」、徴用工問題、そして「レーダー照射」と「哨戒機の異常接近」問題・・・。ちなみに、これらの問題で日本に流布している理解に対しては、こんな反論も当然あり得る。

・「慰安婦問題は不可逆的に解決したはず。覆すのは外交慣例違反だ」  外交姿勢が転換する場合が唯一あり得る。国民が政権を大転換するなど前政権に根本的不信を突きつけた時には、民主主義の国ならば当然ありうることだ。一例、革命が起これば、外交も換わる。この変化に対して、まともな国ならこう対処するはずだ。前政権の約束でも、これを国民が新たに破れというならば仕方ない、従おう。こういう理解が出来ず「約束破りだ」とだけ言い続ける国から信頼されなくなるならば、それは仕方ない。ただそんな国については「国民主権」思想が疑わしいと解釈するだけの話になるかも知れない。

・徴用工問題  最高裁判所決定を行政権が拘束しているような日本と違って、三権分立が機能している国ならばあり得て当然のことだ。これをその国の行政権がいつ、どう扱っていくかは自ずから別問題である。それを、外国が「最高裁決定を国として取り下げよ」と対するなどは、他国の三権分立をどう考えているのかという大問題になり得る。国の法解釈を司る最高裁判所の解釈に、他国が異を唱えるという問題なのだから。韓国大統領もこういう内容を反論として語ってきたと、僕は理解している。

・「レーダー照射」と「哨戒機の異常接近」問題  日本が前者を(首相判断で)一方的に公表・告発した時に、韓国から後者が持ち出された。日本の哨戒機が超低空で韓国艦船に近づいていた映像も既に有名である。レーダーを使って北朝鮮の遭難漁船救助活動をしていた韓国艦船に対してなのだから、日本側の嫌がらせとも取られかねない事態であった。日本にとっては拉致問題など憎むべき国連制裁国家・北かも知れないが、韓国にとっては親子、兄弟など親類縁者が無数に相互に居住する同胞の国同士なのだ。


 これからは日米政権が韓国文政権を倒そうと、今流行のネット工作など陰に陽に画策を強めるであろうが、今の中国が後ろに付いていてはこれも思うに任せまい。韓国の経済問題、求人問題を解く力が、今の中国と米日との比較では問題にならないからである。独善的なだけの超保護主義アメリカと、失われた20年・少子化の中では当然起こる「就業率改善」を唯一大々的に宣伝することしかできない日本となのだ。
 ちなみに、ドイツを筆頭とするEUも、インド、中東、アフリカ諸国なども、どんどん中国に接近し始めている。対するアメリカは、中南米諸国を搾取し続けて、政治的にも混乱をもたらして来ただけだ。
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小説 「死に因んで」(その1)   文科系

2019年01月16日 10時41分19秒 | 文芸作品
小説 「死に因んで」(その1)   文科系

 5~6年前に書いた、400字詰め原稿用紙30枚ほどの中編小説です。3回連載でと思っています。ご笑覧下さい。



 例によってかなり早めに会場に着いてしまった。この都心まで三キロほどをわが家から歩いて来た。この大都会の繁華街に、賑わいと電飾などが日々増してきたような晩秋の日暮れのことだ。大きなビルの地下にある宴会場に通じた外階段まで来ると、階段途中の手すりを寄り添うようにゆっくりと下っていく二つの影が見える。見るからにひょろーっとして脚がおぼつかない吉田と、彼の脇で歩を進めているのは、ずんぐりがっちりの堀に違いない。俺はしばらく、二人を上から見つめていた。
 数年前にお連れ合いさんを亡くした吉田は、骨折などもあって歩行困難になっている。早く来合わせた堀と、吉田のリハビリも兼ねてこんな場面になったということだろう。七十歳の今日まで独身という堀が、吉田の左腕を肩で支えながら、彼らしいからっとした笑い顔でなにか応えている。吉田も上機嫌でお得意のながーいおしゃべりを繰り出しているらしい。その音声が、すっかり冷たくなった風の間から聞こえて来る。なかなか良い光景………そう微笑みつつ、二人の段まで下りていく。
「お二人とも、早く来たんだなー」
 ふり返った吉田がいつものように舌が縺れるように語り出す。
「いやぁーね、僕が堀君にちょっとー早く来てもらったんだよー。話し合いたいことがあってさー」
 あーっ、あのことかと心当たりが浮かんだ。堀がこの会で何か気分が悪いことがあったらしいとは聞いていたが、それを吉田が取りなしているのだ。吉田もこんな不自由な身体で毎回よく出て来て、よく気を回すもんだ。思わず浮かんだ苦が笑いを意識しながら、言った。
「堀よー、吉田もお前もいー奴だなー。吉田もちっとは歩けるようになったんだなー」
 人の美点や努力を口に出すのが好きなのである。もちろん批判も平気でするのだが、自分の汚点をも隠さず、自分にも他人にもわざわざ念を押すような人間だとも思っている。所属同人誌で、連れ合いをひどく殴ったという随筆さえ書いたことがある。もっともそんな自己嫌悪とか偽悪に近いものの方は素直に読んでくれない時代らしく、この作品をこう取った人がいたのには驚いた。「妻を殴ったという事を自慢げに吹聴している」と。まー普通に、亭主関白自慢とでも取ったのだろう。多分俺は、亭主関白とは正反対の人間だ。

「吉田も、前とはだいぶ違う。腰から背中までがちょっと伸びたな。聞くとなんか良い整体師に付いたらしいぞ」
 堀って昔たしか、柔道の黒帯だったはず。その堀の野太いような声に導かれるような感じで、吉田の姿勢に目をやった。確かに腰の方は伸びている。あとは首の下辺りかなーと思いつつ俺は聞いてみた。
「吉田ー、腰が伸びたら、あとはどうするんだ?」
 吉田ではなく、これも堀が引き取って応えた。
「頭と首の下と尻のそれぞれ背中側を壁にでも付けて、一直線にできるようになればよい。ここまでがんばったんだから、最後までがんばるよなー」
 立ち止まったそんなやりとりいくらかの後に、こう告げながら、俺は先を急ぐ。
「いつものようにみんなの注文しとくから、先に行くな」
 俺はこの会の言い出しっぺの一人であって、みんなの肴の注文係なのである。地下一階のいつもの店へ、その大きな店の畳一畳ほどの入り口以外は個室のように周りから隔離された特別室様の空間へと、入る。

 この会は、俺ら中高一貫男女半々校同期生八人の飲み会である。〇九年の秋から年五回ほどの割合で持ってきたことになり、もう二年が過ぎた。笠原という中学時代からの俺の仲良しと二人で呼びかけて始まったものだ。一学年に二クラスしかなく、上下の学年も含めて皆が友達みたいな学校だったが、この八人が集まることになった理由はほんの偶然のせいとしか言いようがない。あまり付き合ったことが無い人もいたからである。吉田とか伊藤とかが、俺とはそういう間柄だった。なのに、もう十回目をこえて、俺が確認電話を忘れても全員が参加して来る。誰もぼけていないことは確かだし、それぞれ何かを楽しみにして来ることも確かなのだ。昔のこと今のことなどごちゃごちゃに語り合い、カラオケなどの二次会に流れていく。
〈吉田って、こんなにお喋りだったかな。それにしても、当時の男女関係によくこれだけ通じているもんだ! 昔の彼はよく知らないが、そんな情報集めに励んでたんだろうな。面白い話が多いけど、こんなに長く話す人、見たことない〉
〈伊藤って、カラオケ、歌がこんなに上手かったか? 確か、芸術部門の授業選択は音楽じゃなかった気がするけど。水原弘の「黒い花びら」かー。よく似合って、こんな良いバスも日本人にはちょっと少ないはずだ。音程や声量もちゃんとしとるし。カラオケ教室に入れ込んだ時期があるのか、それとも最近の笠原のシャンソン教室じゃないけど、歌謡教室かなんかに通ったことでもあるのかな〉
 この伊藤がまた歌というイメージからはちょっと遠いのだ。今でも自営業の現役社長さんで、そのごつい体にぴったりの強面は、〈トラブルなどが起こったら、側に立っていただくだけでも助かる〉という見かけである。この人がまたけっこう繊細な所があると最近気づいて、興味がそそられた。昔は全く気づかなかったのだが、ひとりひとりの水割りを作る役を自然に引き受けていて、それぞれその都度濃淡の好みなどを聞き、かいがいしくやっている。その姿がまた、楽しげそのものと見えるのである。俺が無神経な応答でもしようものなら、ちょっとあとにさり気ない探りらしきものが入ってくるし。これなら小島と親友関係が今日まで長く続いてきた理由も分かる。小島とはかなり付き合いもあったけれど、小島が伊藤と在学中からずーっと付き合ってきたとは全く知らなかったのである。小島は昔も今も変わっていない。若い女性たちとテニスに明け暮れているらしいが、若いと言っても中年女性たちだから「青い山脈」舞台の三十年後というところ。彼はさしずめ、あの舞台の先生の三十年あと………よりもかなり上だな。

 肴の注文係の任務をいつものように俺が終えたころには、唯一の女性、山中さんも本川もと八人がそろって、宴が始まる。これもいつものように、こんな調子だ。昔の話は男女のことがほとんど。それも一学年百人ちょっとで、その上下学年までごちゃごちゃにしての昔話だ。よって、それぞれの話の種をそれぞれ誰かがカラスのようにひっくり返していくから、つついてもつついても次から次へと限りがない。〈今現在のそんな話はないのかい!〉、たびたび雑ぜっ返したくなる自分を抑えるのに一苦労だった。そういう今の話の方は先ず、病気のこと。今現在の生活活動などは二の次というか、なかなか見えない気がしたものだ。これが俺にはずーっとイヤだったのだが、ここから始まるひと騒動への、大きな背景の一つになっていったのだろう。

 この日そのあと、盛り上がりのさなかに会場を一人飛び出して来た俺の心中は、どう表現したらよいのだろう。その時と今とでは感じがずい分違うし、あれから二年経った今でさえことの全貌がきちんとつかめているかどうか定かではない気がしている。一方で〈単にその時々の感情に左右されただけだよ〉という声が聞こえる。他方ではこう。〈やはりあの事件は、俺のこれまでのレゾンデートル、つまり存在理由だ。譲れるはずがない〉。と、これは今になって言えることであって、その時の俺の意識が後者一辺倒だったのは言うまでもないこと。言わば確信犯なのだが、その確信に感情の器すべてが占領された状態と言えて、他の感情は一切排除されていたようである。大変困ったものだが、大仰なことでもない。「あの時はその気だった」など誰でもあることだから、今も明日も十年後もその気かどうか、それが自分のためにも肝心なことだろう。こういった問題を抱えることは誰にでもあることだ。
 ともあれその夜、こんなことが起こった。

(続く)
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高校サッカー決勝戦を観た   文科系

2019年01月15日 12時07分52秒 | スポーツ
 昨日サッカーの全国高校選手権大会・決勝戦を観た。青森山田と千葉の流通経済大学柏高校との対戦なのだが、まー面白かったこと。プロと同様に、いやそれ以上に、楽しめたものだ。

 何が面白かったかと言って、青森山田が凄すぎるチームだということ。
 何よりも当たり強い潰し。どれだけ体幹などを鍛えてきたのだろう! 山田の黒田監督もゲーム前に「肉弾戦になる」と語っておられたとのことだが、集団的肉弾戦で完勝という場面の多かったこと! 次いで、強い身体で相手を制しつつ、相手の潰しをすり抜ける足技。加えて、広い視野に基づく長短のパスは意表を突くようなものも多かったし、DFライン押し上げなど、フォーメーションも見事。3対1という得点差以上に大差があったと思う。監督としては柏の本田裕一郎氏のほうが長い実績があるようだが、その本田氏自身が完敗を認めておられる。

 青森山田は何よりも、繋ぎと潰しの練習を徹底してこられたと思う。同じチーム内に良い潰し屋がいれば良い繋ぎ屋が育つのだし、良い繋ぎ屋が生まれればそれを上回る潰しも磨かれるというもの。そんな限りない好循環を繰り返してこられたのだろうと、眺めていた。もちろん、こういう小局面で戦いつつもいきなり大きく展開したり、身方の大きなスペースをきちんと埋めるという視野にも常に留意してきたはずだ。聞けば中高一貫校だそうで、6年間のそんな成果を見せてもらった思いがした。

 有り難う。良いゲームを見せてくれて! ただ、押されてばかりいたせいか、後半の柏、ラフプレーがほんのちょっと気になったとは、申し上げておく。ラフプレーは、若人の進歩を特に大きく妨げるものだから。
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サラーとネイマールの「違い」   文科系

2019年01月14日 12時45分30秒 | スポーツ
 昨日のイングランド・ゲームで、リバプールが1対0で勝って、首位を守っている。その1得点が、プレミア全体で大論議になって、話題を呼んでいる。まず、リバプールのエースでエジプト人のサラーがペナルティーを取って上げた1得点について、シミュレーションという非難が出てきた。これを同僚のある選手がこう弁護したのである。
『彼は「そういう選手」では、断じてない』

 どうだろう。同僚からこう庇われる選手と、世界的有名選手として3本の指に入るだろう、天下のネイマールとを比べてみて欲しい。

 この超有名ブラジル選手は、ブラジル流儀のマリーシア(狡猾という意味)とやらをW杯ロシア大会で世界に見せ過ぎたせいか、全世界から「そういう選手」と観られてしまった。世界の子どもサッカーで「ネイマール!」と叫びつつ、大げさに倒れてみせる遊びまで流行させたというニュースは既に有名である。
 こういうことの結末なのでもあろうが、このネイマールの最も最近の話でこんな事もある。彼が「元のバルサに戻りたい」と言い出したのだけど、古巣バルセロナは「要らない」と応えたと言う事件が起こった。
 彼がサッカー界の伝統的習慣を破って秘密裏に強引に今のパリサンジェルマンに移ったことから、ここでも道義のない汚い選手と観られてしまったのだろう。この移籍は、彼の代理人のようなことをしている父親の仕業、責任が一番大きいとも語られてもいるが、そんなこともあってネイマールの人気はすっかり地に落ちたのである。ダーティーな移籍、入団は、江川卓など、日本の野球界でも幾多の大事件になってきたが、ネイマールの場合はもう、江川のようには立ち直れまい。これでもって彼を取るのは、ブラジルとちょっと似たところがある落日のイタリアサッカー界、クラブぐらいで、イングランドなどはもうネイマールを金輪際取らないはずだ。

 さて、サラーとネイマール、この問題をもう一歩深めて考えてみたい。
 カネと商売がらみゆえ勝ち負けだけに異常に拘ったマスコミ絡みの「興業スポーツ」と真のスポーツとの、スポーツ観の世界的対立の問題なのだと言いたい。そして、「興業スポーツ」には少年たちに憧れさせるという意味でも明日はなくじり貧で、後者こそ国民皆スポーツという理念とも結びついて発展性がある。そんな風に僕は考えて来た。
 日本の真剣なサッカー少年もブラジル流儀とイングランド流儀と二派に分かれるようだが、岡崎や吉田そして香川もイングランドに拘ってきたのは、単に「最強リーグステイタス」というのではなく、以上のような問題絡みなのだと僕はずっと理解してきた。
 例えばイングランドの目の越えたファンに、岡崎はこう観られ、こう語られて来た。
「気品のある選手だ!」

 岡崎のフェアな敢闘精神がこう観られているわけであって、岡崎自身もこう語っている。
「イングランドの激しい走り合いや体当たりがやりたくって、ここに来たんですから・・・」
なお、この「気品ある選手」というのは、英国の新聞が使った表現であって、この事の次第については、以下の拙稿を参照されたい。16年5月3日「気品ある選手」。これの出し方はこうだ。まず、右欄外の今月分カレンダーの下にある「バックナンバー」と書いた年月欄をスクロールして、16年5月をクリックする。すると上の今月分カレンダーがその月のものに替わるから、その3日をクリックする。これで、エントリー本欄がその日のエントリーだけに替わるから、お求めの物をお読み願える)

 僕は、一部スポーツ・マスコミが作るスポーツのバラエティー化の風潮をいつも苦々しく思っている。無意識にと言うことも含めてスポーツを大きく汚してきた側面があると考えて来た。
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随筆  「音楽」の友達   文科系

2019年01月14日 00時45分03秒 | 文芸作品
 
 今朝、ギター仲間Nさんからこんなメールがあった。冒頭の文言からして、その嬉しさのほども分かろうというもの。
『おはよう? こんな時間に目を覚ましてしまった。でも善は急げ、朗報です』
 午前二時四四分発送とある。

 【昨日レッスンが終わってからAさん宅に行ってきました。彼から「一度私の『月光』を聴いて欲しい」ということで。大変驚いた。半年くらい前に聴いたのとは違い格段に上達されていたので。ゆっくりたんたんと、そしてしっかりとしたテンポとタッチ。私も要望されて『月光』を弾いたが、確実に私の負け。でも嬉しくって涙が出てきた。絶対に人前で曲を弾かなかった彼が「自分の演奏を聴いて欲しい」という気持ちになったというのが、嬉しかったなぁー。(以下略)】

 この二人、あるギター教室の七十に近い同門生で、Nさんとは同じ歳、Aさんは一つ上。去年の早春、発表会の打ち上げ会で知り合ってから二年足らずのお付きあいだ。そして、打ち上げ会の一二日あとに我が家に三人が集った「ギター遊び・飲み会」以降しばらくして、ある事件が起こった。Aさんが教室を辞めてしまったのだ。この事件の微妙さを部外の方々に分かってもらうのはとても難しいのだが、こんなことだと推しはかってきた。
 まず、Aさんが教室の先生に大きな不満を持ち始めた。どうも、僕たち二人の批評から『先生が、この年寄りとしてはこんなもんだろうとだけ扱ってきた』と思い至ったらしい。僕らの関係もナーバスなものになってきた。特に、僕の古いアルペジオ楽譜二枚にショックを受けたとしきりに語られる。定年後先生につく以前、一人習いの昔から、ちっとも上手くならないのでいつも基礎に帰って弾き込んできてぼろぼろになった二枚であった。これのことも含めて、彼はおおむねこんな思いを抱いていたのではないか。
〈習って二十年。ちっとも前進しなかったのはタッチがいい加減だったからだ。練習時間と熱意とでは誰にも負けぬと自負してきたが、それもどうもあやしい。俺のこのギター、これから一体どうしたら良い!〉
 以降の彼は、僕とは話したくないようだった。今分かるのだが、僕が何気なく口に出した言葉が彼をずいぶん傷つけてもいたようだ。

 そして、彼との接触を委ねたNさんからこう聞いたのが、去年の晩夏。
「別の先生について、音だしの基礎練習だけをやってきたらしい」

 秋には、Nさんの努力で三人の下呂温泉一泊旅行が実現した。Aさんは、僕らが思いもしなかったことだが、Nさん持参のギターでその音だしだけを披露してくれた。見違えるようにしっかりしたタッチだった。Nさんが事実通りに褒めていたし、僕も言葉に注意しつつ何かを言ったと思う。この時の彼の心境! 帰宅翌日のメールにこうあった。
 「正直言ってお二人の前でギターを弾いた時は、清水の舞台から……の心境。緊張感を凌駕した恐怖感。結果、弾き終わって『汗びっしょり』でした。お二人に対する敬意のつもりで弾きました」
 ギター、「音楽」へのなにかとてつもない愛着を僕に感じさせた。
 その後しばらくして「曲の練習に、『月光』に取りかかられた」と聞いていた。

 この三人で出発した「ギター遊びの会」の方は二回目以降もずっと続き、来新春で春夏秋冬ともう二回り、八回目になる。常連出席も男女八名と賑やかなパーティーに育っている。Aさんがここに戻って来ること、これがNさんと僕の暗黙の誓いのようなものだ。その理由は自分でもよく分からないが、こういう「音楽」の場所に彼がいないのは、おかしい。
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掌編小説 「死にちなんで」  文科系

2019年01月13日 12時10分20秒 | 文芸作品
 69歳の年に2回、心臓カテーテル手術をやった。60歳前から始めたランニングが心臓不整脈から、やがて慢性心房細動を誘発したからだ。走り続ければこうなりやすいと知っていたが、同時に、慢性心房細動になっても根治療法のこの手術があることも知っていたから、即手術を決断できた。ここまで、常に心拍計をつけて走り続けてきたのだった。

 麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたった頃、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠ったと思ったら、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識がなくなっていくのだが、またぼんやりと覚醒。そんなことが3度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か指示の大声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、意識していたからでもあろうか。手術自身がちっとも怖くなかった上に、こんな事を考えていたのだ。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れないなと、噛みしめていた。

 小学校の中頃友人を亡くして、それ以来自分が死ぬということを強く意識した。そして、すごく怖かった。押し寄せてくる「永遠の無」という感じが何とも得体が知れず、恐怖だった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時は、大量の冷や汗までかいている有様。ふりかえると、こんな「症状」は、程度に波はあれ初老期まで続いていたと思う。
「人生はただ一度。あとは無」
 これがその後の僕の生き方の羅針盤に。大学の専攻選びから、貧乏な福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと言って良い。4人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、「両親との諍い」が、僕の青春そのものにもなっていった。
 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りであって俺のこの苦しみがなくなるとしたら大歓迎なのだが、この苦しみがその眠りに夢で現れるとしたら、それも地獄だし・・・?」というような内容だった。この伝で言えば、今の僕ははてさて、いつとはなしにこう変わってきている。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」

 どうして変わってこられたのかなと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生がかなり楽しめているからだという気がする。特に老後が、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しかったのが、意外に大きいことなのかなと思う。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてこのブログ。これらそれぞれの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができ、それぞれそれなりに前進も意味も感じられてきた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。大げさに言うと、こんな感じかな。音楽には、いや多分美という領域には、どういうか何か魔力がある、と。シューベルトやゴッホなどを筆頭として、音楽家にも画家にも極貧が多かったはずだが、みんなこの魔力にとりつかれた人々ではないか、と。彼らと僕との隔たりは限りないが、そんな連想さえ起こっている。

「何かに熱中したい」
 若い頃の最大の望みであり、これが、気心知れた同類のような友だちたちとの挨拶言葉のようになってきたものだ。人生らしい人生事へのこの「熱中」が、人並み以上に果たせている。今、そんな風に生きられていると、日々感じている。
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よたよたランナーの手記(242)「走りすぎ=不眠」という好調  文科系

2019年01月12日 12時07分48秒 | スポーツ
 1日に前回を書いてから、好調が続いている。ここまで書いてきたようにピッチを増やすことによってフォームが改善されたからだが、そのことを実感し直している日々である。

 書いてきたようにピッチ数を170ほどと10ほど上げたことによって、明らかに左右両脚の着時時間が均等になったと感じられる。右脚に生じた膝や足首などの軽い痛みはもちろん、それ以前の違和感が全く消えてしまった。
 無意識のフォーム悪化って、年寄りの場合気付きにくい内に何と激しく起こるものなのだろうと、痛感したところだ。そんな感想なども伴って例えば最近では、10日に12キロ、8日には11キロなどと、こんなジム・ラン距離も軽く走れている。いずれも80分ほどで走っているが、10日などはこんなふうだ。まず、1時間を目一杯走って最近のほぼ最高距離9・5キロ超。それからなお20数分のLSDで2・5キロ。これで、翌日になんの疲れも無しという好調ぶりだ。

 時速11キロで10分ほどは走れるという現実的な自信さえ生まれている。10キロ時では30分は優に走り通せる。ただし、ちょっと前までと違って、そんなにまで追い込むことはしなくなった。かなり頑張っても、ちょっと苦しい程度に抑えておく。そうでないとなんか、夜眠れなくなるのだ。これが今の僕の走りすぎの証になっている。
「眠られなくなるのが、走りすぎの日の証拠」

 好調、高調な走りは、交感神経を興奮させるのかも知れない。これが、ランナーズ・ハイの正体だったりして・・・。
コメント (1)
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