荒川洋治「霧中の読書」みすず書房(2019/10).
Amazon の内容紹介
*****「何かを読み忘れていないか。そのことがこれまで以上に気になりはじめる。ある年齢を過ぎると、知らないまま行き過ぎることを惜しむ気持ちが高まるのだろうか。」
これまで多くの読者と高い評価に支えられてきた散文集シリーズ。
『忘れられる過去』(講談社エッセイ賞)、『過去をもつ人』(毎日出版文化賞書評賞)につらなる本書もまた、ぶれない著者の発見と指摘に、読む者は胸を突かれ、思念の方位を示される。そのありがたみは変わらない。
風景の時間、ゴーリキーの少女、名作の表情、制作のことば、川上未映子の詩、西鶴の奇談、テレビのなかの名作、など近作エッセイ45編に書き下ろしを加えた。*****
図書館から借用.初めての著者.読書をテーマとする本も初めて.書評本と言ってしまっていいのか,とも思うが,この言葉を使わせていただく.
面白かったのは,読んだ本からの引用とデータ処理.本のどこを引用するかで,書評本の著者が判断でき,この本のように引用が多数のときはどれが記憶に残るかで (書評本の) 読者が判断される.この「霧中の...」と 16 トンの場合
上田敏訳「春の朝」についての,吉田精一「現代詩」学燈文庫(1953) からの引用.
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「一行の音数が五音・七音・十音としだいに増しているのは,七五調のように流麗でもなく,五七調のように重厚でもないが,詩の内容にふさわしい調和的な形式といえよう」.
もう一例,戸川芳郎監修,佐藤進・濱口富士雄編「全訳 漢辞海」第4版,三省堂 (2016) の類義語の欄.「途・道・路は車の通行できるみちを表すが,途は1者分,道は2者分,路は3車分の広さであると (荒川さんは) 初めて知った」.
単に引用するだけでなく,複数本の内容をデータと見て,そのデータ処理の結果が示されることもある.すでに書いたことだが,「現象のなかの作品」の「活字の別れ」と題する項.1980年あたりから,活版印刷からオフセットへの移行が始まるのだが,この時期にあえて活版印刷で発行された文学書が2ページ弱にわたってリストアップされている.
もう一例.著者は「二人」を「2人」と書かれたりすると,言いたいことがいくらかゆがむという.文学者なら気にするだろう.気にしないのが深沢七郎で,時期によって使い方が変わる.
1956年「楢山節考」では「おりんは今年六十九歳だが亭主は二十年前に死んで...」.
1970年「庶民烈伝」収録の「おくま嘘歌」(1962) では「おくまはことし63で,数えどしなら64だが...」.
1980年の「みちのくの人形たち」ではもとに戻って「六十歳以上もの年上の人が...」などとなる.「作品の内容に合わせた感じはない.ただ,戻ったのである (荒川さんの文章).
ここまでていねいに分析して貰えば深沢さんも本望だろう.