《松尾貴史のちょっと違和感・01.05》:静かに地元で初詣 自身への意思確認でいい
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《松尾貴史のちょっと違和感・01.05》:静かに地元で初詣 自身への意思確認でいい
早いもので、この欄を担当するようになって2025年で14年目に入る。毎年同じようなことを書いている気もするが、お許しいただきたい。本稿は24年12月25日に書いた。だが掲載は25年1月5日。年始のあいさつを前もって書くということに、年々抵抗感が増してきた。
読む人に届くのがその時期なのだから硬いことを言うな、と言われればそれまでだ。加齢のせいで性根が意固地になっているのは確かだが、地球の反対側に数秒と遅れずに意思伝達できる時代になって久しいのだから、書いた時点の内容でも許されるのではないだろうか。近ごろは年賀状も年内には出さなくなり、正月に数枚分、返事として書くだけだ。最近ではそれすらもない。
能動的に初詣をしなくなって久しい。面倒だとか、神仏に対しての考えが変わってきたというわけではない。そもそも、初詣をしたから健康で安全に暮らせると思っていたわけではないし、自分がこの1年、健やかに安寧に過ごせるよう、あるいは商売繁盛や学業成就の意思の確認のようなつもりでやっていたのだから、参詣したいと思ったタイミングが自分にとって正解なのだと納得するようになってきたのだ。
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元稿:毎日新聞社 東京朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【松尾貴史のちょっと違和感】 2025年01月05日 02:01:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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