【社説・01.04】:昭和100年の日本 惨禍の教訓、今こそ生かせ
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説・01.04】:昭和100年の日本 惨禍の教訓、今こそ生かせ
ことしは「昭和100年」に当たる。1926年12月25日、昭和天皇の即位とともに実質62年間余りに及んだ激動の時代が始まった。
まさに山あり谷ありと言えよう。昭和初期の世界恐慌を背景に軍部が台頭し、中国への強引な派兵をきっかけに長い戦争に突入する。米国との無謀な戦いの末に約310万人の戦没者と広島・長崎をはじめ一面の焦土を残して敗戦し、平和憲法の下で復興を果たす。自民党長期政権の中で経済大国となる半面、行き詰まりとひずみも露呈した。
◆変わる時代認識
このところの昭和ブームは郷愁が先に立つようにも思える。平成から令和の閉塞(へいそく)感の裏返しかもしれない。バブル崩壊とともに経済が低迷し、格差拡大や地方の疲弊が加速する中で災害が多発して政治の混乱も続いた。右肩上がりの高揚感が漂い、デジタル化した今より不便だが人のぬくもりのあったアナログの時代を懐かしむ向きもあろう。
むろん間違っていない。世代ごとに時代認識は異なり、移り変わっていく。ただ昭和と聞いて苦難の記憶を思い返す人が減った現実も直視しなければならない。映像作品などで戦場の過酷さを美化しがちな風潮とも重なり合う。
南方の戦場で左腕を失った漫画家故水木しげるさんは時代の貴重な証言者だった。昭和の終わりに当たり、「コミック昭和史」を書いた。幼少期からの自らの人生を重ねて激動の歴史を描く大作の最後に、昭和の意味についてこう語っている。「もう戦争はしてはいけない」という大きな歴史の教訓だった、と。
その意味を今こそ思い起こしたい。悲惨な戦禍の記憶は不戦の誓いとなり、戦後の専守防衛や非核三原則を堅持する礎となったと考えていい。平和観の風化は、大動乱の到来が危惧される国際情勢の中で日本の明日を左右する。
◆呉市の栄枯盛衰
戦争と平和のはざまで揺れた都市の一つとして、アニメ映画「この世界の片隅に」で全国区にもなった呉市の100年を例に取りたい。
明治、大正と軍港、海軍工廠(こうしょう)の街として栄え、昭和初期は過渡期に当たる。軍縮条約で海軍工廠が人員整理され、他都市以上の苦境に陥っていた。他方、バス便や市街電車が相次いで開通し、山際に階段住宅が形成されるなど街の風景も変わりつつあった。
市は海軍に頼らない産業立市を目指したが、思うに任せない。やがて満州事変を境に軍縮不況を脱し、街は戦艦大和の建造に象徴される戦争景気を謳歌(おうか)。海軍施設と市街地を標的とした45年の度重なる米空襲で焼け野原と化す。
戦後は旧軍港市転換法に基づき、造船や製鉄など民間企業に海軍用地を払い下げるなどして「平和産業港湾都市」としての復興を実現させ、豊かな市民生活をもたらした。だが高度成長を支えた重厚長大型の産業は次第に低迷していく。この法律の恩恵を受けた大規模事業所は縮小・撤退し、海上自衛隊用地の一部となった事例が既にある。
歴史を振り返ると、海軍工廠の流れをくむ日本製鉄の製鉄所跡地に「複合防衛拠点」案が浮上したことの象徴的な意味も鮮明になる。民間民需の産業立市にこだわらず、かつての時代への回帰も辞さない発想の是非も問われる。
◆足元で語り継ぐ
光があれば影もある。戦後に限れば「ゼロから復興を果たした日本」を誇ることもできよう。同時に戦争の結末として国土が荒廃した事実も、謙虚に振り返るべきだろう。敗戦の日を迎えるまでの昭和前期20年を踏まえずして、戦後80年の歩みは語れない。
私たちが暮らす地域でも100年の間に何が起き、どんな課題を残したか。昭和を生きた人たちの声に耳を傾けたい。時代の実像を足元で見つめ直し、語り継ぎたい。
元稿:中國新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2025年01月04日 07:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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