路地裏のバーのカウンターから見える「偽政者」たちに荒廃させられた空疎で虚飾の社会。漂流する日本。大丈夫かこの国は? 

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【新刊】:世襲 政治・企業・歌舞伎 「世襲」をめぐる家と企業、業界の盛衰史から見えるもの 著者:中川右介

2023-06-04 07:21:00 | 【社説・解説・論説・コラム・連載】

【新刊】:世襲 政治・企業・歌舞伎 「世襲」をめぐる家と企業、業界の盛衰史から見えるもの 著者:中川右介

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【新刊】:世襲 政治・企業・歌舞伎 「世襲」をめぐる家と企業、業界の盛衰史から見えるもの 著者:中川右介

 日本の企業数は約367万社、そのうち99%が中小企業で、規模が小さい「家業」ほど世襲率は高くなる。本来、実力ある者が後継すればいいだけなのに、システムとして不合理で無理筋、途絶や崩壊の可能性が高い「世襲」はなぜ多いのか――。世襲が目立つ三業界(政・財・歌舞伎界)を徹底比較した注目の新刊『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)から、一部を抜粋してお届けします。

 ※価格1463 円(税込) 販売開始日:2022.11.30

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 ■はじめに

 この本は、政治・企業・歌舞伎のそれぞれの世界において、「世襲」システムがどう生まれ、どう機能し、どう破綻しているかを描く、歴史読み物だ。

 一般に、政治家や大企業経営者の世襲は批判されるが、歌舞伎など伝統藝能の場合は、批判の声は少ない。むしろ、称賛されることのほうが多い。

 政治家の世襲が批判されるのは、国会議員というポストは公職であり、世襲はその私物化だからである。もちろん公職選挙法にのっとって立候補して当選しているわけで「違法」ではない。だが、漠然とした不公平感というか、民主主義とは相容れないものを感じる。さらに、政治家の場合、能力のない者が親の地盤を継いで議員となり、当選を重ねて大臣や総理大臣などになった場合、国が滅びる可能性がある。いまの日本が経済的・外交的に衰退しているとしたら、その原因のひとつは、二十一世紀になってから世襲政治家が増えたことにある。

 企業の場合、無能な二代目・三代目が社長になり、経営破綻しても、その経営者一族が財産を失くすだけだから、自業自得となる。しかし企業の規模によっては、何万人もの従業員が路頭に迷うだけでなく、取引先企業の連鎖倒産をも招き、業種によっては日本社会全体にも影響を与える。

 それに比べれば、歌舞伎の場合、名優のドラ息子が役者になっても、世の中全体に何かの禍わざわいが起きるわけではない。せいぜい、歌舞伎公演の質が落ち観客動員に陰かげりが出て、松竹の業績が悪化するくらいだろう。したがって役者の世襲そのものは、世の中にとって良くも悪くもない。歌舞伎役者は社会的に目立つ存在だが、農家や商店・飲食店を子どもが継ぐかどうかというのと同じ話で、天下国家レベルで論じる話ではない。

 歌舞伎においては世襲もさることながら、門閥主義にこそ問題がある。幹部役者の子として生まれるとほぼ自動的に若い頃から大役が与えられ、その逆に、才能があり人気があっても、幹部役者の子でなければ、歌舞伎座の舞台で主役になれない。「家の藝」を親から子へ伝えるだけでなく、劇界のポジション(歌舞伎座で主役を演じる権利)までもが世襲される傾向にある点が問題なのだ。

 これは企業でも言える。社長になることだけが人生の目標ではないにしても、「社長の一族でなければ、絶対に社長にはなれない」会社では、社員のモチベーションは低下するだろう。そのために優秀な人材が入ってこなくなったとしたら、その企業にとってもマイナスだ。そして政界もまた、政治家の子でなければ国会議員になれず、なれたとしても大臣、総理大臣にはなれないとなったら、有能な人は参入してこない。いまの政界は、この状況にある。

 一方、世襲には利点もある。世代交代が安易だという点だ。世襲ではない企業だと、五十代で役員、六十代で社長になり、七十歳で辞めたとして、その次の社長は十歳前後若返るだけだ。しかし、親子間の世襲だと、七十歳で親が退任して子が継げば、四十代の社長が誕生する。あわせて他の役員なども交代させれば、一気に世代交代が進むという利点がある。もちろん、その四十代で就任した二代目が三十年も社長を続けることになるだろうから、長期政権という新たな問題点も生まれる。

 世襲のもうひとつの利点が幼少期からの英才教育・帝王学が可能となることだ。歌舞伎では子どもの頃から舞台に立たせ、舞踊などの稽古もさせる。企業でも子どもを経営者にさせたいのなら、幼少期から外国語を身につけさせるとか、大学で経営学を学ばせるなど、将来に備えた教育ができる。

 しかし政治家は世襲が多い割に、英才教育がほとんどできていない。「政治家以外にはなれそうもない人」が親の後を継いで政治家になる傾向がある。

 詳しくは本文に記すが、昭和の時代の総理大臣は、ほとんどが政治家として初代であり、大半が東大法学部を卒業していた。しかし、平成になって、二世・三世議員の総理大臣が生まれると、東大を出た人は激減する。東大を出ればいいというものではないが、学歴・学力の劣化は、出身校リスト(第一部)を見れば一目瞭然だ。幼少期から政治家になると決め、総理大臣を目指せる環境にありながら、そのための英才教育を受けていないのか、受けたのに能力がなかったのかは分からないが、政治家においては英才教育システムが存在していない。

 では──「世襲」をめぐる家と企業、そしてその業界の盛衰の物語を始めよう。

 第一部は、戦後政治を世襲という観点から読み解く。第二部は、企業創業家の世襲のパターンを、日本の基幹産業である自動車業界の五社・五家(トヨタ、日産、ホンダ、スズキ、マツダ)と、公共性を持つ鉄道会社四社(阪急、東急、西武、東武)の創業家の盛衰とともに描く。第三部は市川團十郎家を主軸に歌舞伎界の系図を読み解いていく。

 それぞれの部は独立しているので、どこから読んでいただいてもかまわない。

 本来、実力ある者が後継すればいいだけなのに、システムとして不合理で無理筋、途絶や崩壊の可能性が高い「世襲」はなぜ多いのか――。世襲が目立つ三業界(政・財・歌舞伎界)を徹底比較した注目の新刊『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)。本書の政治分野では、吉田茂から岸田文雄まで、戦後の総理大臣33人を家系図とともに紹介。なぜ世襲政治家だらけになったのか、その経緯と背景がわかります。

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 令和の天皇は現憲法下では3代目となる。それに連動するかのように、令和2人目の総理である岸田文雄は世襲の三世議員である。

岸田家はいまの広島県東広島市で農家を営んでいた。宮澤喜一家とは親戚である(「最後の東京帝国大学出身の総理、宮澤喜一」)。

 岸田家の近代の歴史は文雄の曽祖父・幾太郎(1867~1908)に始まる。幾太郎いくたろうは1891年(明治24)頃から海産物の販売業を始め、成功した。台湾でも呉服商や材木商を営み、呉でも金物商を始め、満州へ移住して大連に土地を買ったところで、40歳で急死した。他に不動産業も営んでいた。

 幾太郎の長男・正記(文雄の祖父、1895~1961)は京都帝国大学法学部を卒業したが、父の事業を継いで、大連や奉天で百貨店や不動産業を経営した。1928年(昭和3)の衆院選に立憲政友会公認で広島一区から立候補して当選し、42年まで連続6期当選した。敗戦後は公職追放となったが、解除後の53年の衆院選で返り咲いて1期だけ務めた。閣僚経験はない。正記は61年に65歳で亡くなった。娘・玲子は宮澤喜一の弟で参議院議員だった弘と結婚した。その長男・宮澤洋一(岸田文雄の従弟)も衆議院議員になっている。

 正記の長男・文武(文雄の父、1926~92)は敗戦の1945年に東京帝国大学に入学し、48年に東京大学法学部を卒業した。商工省(後、通産省、経産省)に入り、中小企業庁長官まで出世したところで78年に退官し、政界へ転じた。かつて父・正記が出ていた広島一区から1979年の衆院選に自民党公認で立候補し当選した。53歳での転身である。当選後は宏池会に属し、親戚でもある宮澤喜一を支えた。中曽根内閣で総務政務次官と文部政務次官を務めたが大臣にはならなかったので、一般的知名度は低い。90年の衆院選まで5期連続当選したが、在職中の92年8月4日に65歳で亡くなった。

 文武の長男が、文雄である。1957年7月29日に東京で生まれた。野田佳彦が同年5月生まれなので、いまのところ歴代総理のなかで最も若い。父はすでに通産官僚で東京に住んでいたので、文雄は東京で生まれ育った。「被爆地・広島を選挙区としている」とよく語っているが、広島で暮らしたことはない。

 岸田文雄は小学生時代は父がニューヨークに赴任していたので、現地の学校に通った。小学3年生で日本に帰り、高校は開成高等学校へ進み東大を目指していたが2浪しても入れず、78年に早稲田大学法学部に入学した。政治家を志していたわけではなく、雄弁会には入っていない。79年に父・文武が衆院選に初めて出たときに手伝い、それが政治と触れ合うきっかけとなった。82年に早大を卒業し、長期信用銀行に入った。

 文雄は1987年に政界入りを決め、長銀を辞めて父・文武の秘書となった。90年の衆院選で文武は5期目の当選をしたが、92年に在職のまま亡くなったので、文雄は93年の衆院選に地盤を継承して当選した。父とは異なり36歳という若さで代議士となった。

 岸田文雄は父と同じ宏池会に属し、平成の政界を生き抜いていった。初入閣は50歳になる2007年の安倍内閣での内閣府特命担当大臣で、続く福田内閣でも留任した。12年に宏池会会長となり、本気で総理大臣を目指すポジションに就いた。同年12月に自民党が政権を奪還して第二次安倍政権が始まると外務大臣となり、17年8月まで4年8カ月続けた。安倍は岸田の3歳上だが同世代で、三世議員という点でも同じだった。安倍は自分の派閥の後継者はつくらなかったが、一応、次世代の政治家として岸田を育てたとは言える。17年からは党の政調会長となり党務も経験し、20年8月に唐突に安倍晋三が辞任すると、総裁選に立候補したものの、菅義偉に完敗した。

 だがその1年後の2021年9月29日の総裁選に勝ち、10月4日に国会で第100代内閣総理大臣に指名された。

 衆議院の任期満了が近かったので、就任10日後の14日に解散し、同月31日の衆院選では公示前からは減ったが261議席で絶対安定多数を獲得し、11月10日に召集された国会で第101代内閣総理大臣に指名され、本格的な岸田政権が始まった。

 岸田政権は、2022年夏の参院選で自民党が勝ったところまでは順調だったが、安倍晋三元首相の国葬、旧統一教会との関係、物価高といった諸問題の対応に失敗し、支持率が急落するなか、10月になると、岸田は長男を総理秘書官にした。将来、後を継がせる意向と思われる。

 ◆国会に残っている家

 2022年7月の参院選の最中、安倍晋三は旧統一教会信者の息子に狙撃され亡くなった。安倍には子はなく、選挙区の後継者は決めていなかった。

 さて──2022年10月現在、33人の総理大臣とその子孫で現職の国会議員は次の19人である。

  • 麻生太郎(本人、吉田茂の孫、鈴木善幸の女婿)
  • 菅直人(本人)
  • 野田佳彦(本人)
  • 菅義偉(本人)
  • 岸田文雄(本人)
  • 岸信夫(岸信介の孫、安倍晋三の弟)
  • 寺田稔(池田勇人の孫の夫)
  • 阿達雅志(佐藤栄作の孫の夫)
  • 福田達夫(福田赳夫の孫、康夫の子)
  • 越智隆雄(福田赳夫の孫)
  • 鈴木俊一(鈴木善幸の子)
  • 中曽根弘文(中曽根康弘の子)
  • 中曽根康隆(中曽根康弘の孫、弘文の子)
  • 宮澤洋一(宮澤喜一の甥)
  • 羽田次郎(羽田孜の子)
  • 橋本岳(橋本龍太郎の子)
  • 小渕優子(小渕恵三の子)
  • 小泉進次郎(小泉純一郎の子)
  • 鳩山二郎(鳩山一郎のひ孫、由紀夫の甥)

 国会から消えたのは、吉田(孫の麻生太郎がいるが「家」は別なので)、片山、芦田、石橋、田中、三木、大平、竹下、宇野、海部、細川、村山、森、安倍の14家である。

 このなかには、今後復活する家もあるかもしれない。

 *   *   *

 岸信介きしのぶすけは一八九六年(明治二十九)に現在の山口県山口市に生まれた。総理大臣になったのは六十一歳になる年だ。生家は佐藤家で、二男に生まれ、岸家の養子になった。実弟が佐藤栄作で、兄弟で総理大臣になったのはこの二人しかいない。さらに岸の孫(娘の子)・安倍晋三も総理大臣になる。

 まず、信介・栄作の生家である佐藤家と岸家の歴史をあわせてみていこう。

 佐藤家の先祖は歌舞伎『義経千本櫻よしつねせんぼんざくら』などでおなじみの源義経の家臣・佐藤忠信だというが、これは口伝なので、信憑性には乏しいようだ。

 この一族の近代史の始まりは、信介・栄作の曽祖父にあたる佐藤信寛のぶひろ (一八一六~一九〇〇)からで、このひとは長州藩の藩士で藩校である明倫館で学び、江戸に出て長沼流兵学も学んだ。吉田松陰の師としても知られる。明治の元勲である木戸孝允たかよし・井上かおる・伊藤博文らとも親交があり、維新後は浜田県(現在の島根県石見地方)権知事、島根県令などを務めた。

 信寛には長男・信彦(信介・栄作の祖父)と二男・包武かねたけ、三男・太郎がいた。信彦は漢学者となり、山口県会議員を二期務めた。包武はつづみ家の養子となり軍人に、三男・太郎は井上家の養子となり、やはり軍人になった。家督は一人しか継げないので、長男以外の二男・三男は養子に出されるのが普通だった。

 佐藤信彦には長女・茂世、長男・松介、二女・さわと、ほかに二人の子がいた。

 佐藤家の家督は、当然、長男の松介が継いだ。だが長女・茂世は他家へ嫁がせるのではなく、岸家の秀助を婿養子に迎えて、佐藤・分家(ぶんけ)とした。この夫婦の間に生まれたのが、市郎、信介、栄作の三兄弟である。彼らは分家の子だった。

 本家を継いだ松介は医師になり、岡山医学専門学校(後、岡山医科大学、現・岡山大学の前身のひとつ)の教授にもなった。松介の妻・藤枝は、山口県出身の外交官で、満鉄総裁、外務大臣になる松岡洋右ようすけの妹で、この夫婦には娘はいたが息子はなく、松介没後、分家の三男である栄作を、娘・寛子の婿養子にして継がせた。栄作・寛子はいとこ婚である。

 二女・さわの夫、吉田祥朔しょうさくはぎ 藩士の家に生まれ、東京高等師範学校に入り、地理や歴史を学んだ。山口中学校や萩中学校の教員をするかたわら、郷土史研究を続け、『近世防長人名辞典』の編纂をした。祥朔・さわ夫婦の子である吉田寛は、吉田茂の長女・桜子と結婚したが、若くして亡くなった。

 つまり、信介・栄作と吉田寛は従兄弟であり、寛の妻の父が吉田茂という関係になる。吉田茂と信介・栄作は血のつながりはないが親戚なのだ。

 話は戻って、佐藤家の婿養子となった秀助について記そう。秀助は山口県田布施町たぶせちょうの岸要蔵の三男として生まれ、山口県の官吏だったが、佐藤家の茂世の婿養子となったのだ。そして県庁を辞めて故郷の田布施町に帰り造り酒屋を営んだ。

 佐藤・分家には三人の男子が生まれたが、二男・三男は家督を継げないので、他家へ出さなければならない。

 家督を次ぐ長男・市郎(一八八九~一九五八)は軍人となり、海軍中将で敗戦を迎えた。海軍兵学校では海軍始まって以来の秀才と称され、海軍大学校を首席で卒業した。戦後も政治とは関わりは持たず、弟・信介が首相になったのを見届けて亡くなった。息子がいるが政治には関係していない。

 二男・信介(一八九六~一九八七)は、中学三年の年に父・秀助の実兄で岸家を継いでいた信政の養子となった。信政に男子がいなかったためで、娘・良子との結婚を前提とした養子縁組だった。信介は山口中学校(現・山口県立山口高等学校)、旧制第一高等学校を経て、一九一七年(大正六)に東京帝国大学法学部に入学し、二〇年(大正九)に卒業した。二十三歳になる一九年に在学中だったが良子と結婚した。卒業すると官僚になる道を選び、農商務省に入り、二五年に同省が農林省と商工省に分割されると商工省(後、通商産業省を経て、経済産業省)に配属された。

 三男・栄作は一九〇一年(明治三十四)に生まれた。信介の五歳下になる。山口中学、旧制第五高等学校(熊本大学の前身のひとつ)を出て、信介と同じ東京帝国大学法学部に入学した。五高時代は池田勇人と同期になった。二四年(大正十三)に東大を卒業すると、兄の信介から農商務省に誘われたが、親戚の松岡洋右の紹介で日本郵船へ就職することにした。ところが会社側の事情で採用取り消しとなり、松岡が次に紹介してくれた鉄道省に入った。二六年に、佐藤本家の娘・寛子と結婚し同家の養子になった。分家に生まれたが、本家の家督を継いだわけだ。信介・栄作兄弟は二人とも従妹と結婚し、養子になり、それぞれの家を継いだのである。

 史上唯一の、兄弟の総理大臣を出した佐藤・岸家は、曽祖父・佐藤信寛は県令、祖父・信彦は県会議員と地方政治家ではあるが、国政に関わった人はない。代議士という点では、信介・栄作とも世襲政治家ではない。しかし叔父・松介(栄作の養父でもある)の妻が松岡洋右の妹で、栄作は就職の世話をしてもらうし、信介が満州で力を得るのも松岡の後ろ楯があったからだ。東京帝国大学への入学は実力だったとしても、この兄弟が出世できたのは、親族の後ろ楯があったからである。

 岸信介は商工省では一九三五年(昭和十)四月に工務局長に就任し、自動車製造事業法の立法に携わった。四十歳になる翌三六年十月、商工省を辞めて満州国国務院に転じ満州へ渡り、実業部総務司長に就任した。満州国国務院では産業部次長、総務庁次長と出世していく。満州では計画経済・統制経済という社会主義的政策を実行した。

 満鉄総裁・松岡洋右は岸の親戚である。岸は関東軍参謀長の東條英機、日産コンツェルン総帥・鮎川義介らとも親しくなり、岸、松岡、東條、鮎川、そして星野直樹の実力者五人は名前の末尾をとって「二キ三スケ」と呼ばれた。岸は四十代で満州という国家を自由自在に操縦したのである。

 一九四一年十月、岸は東條内閣で商工大臣に就任し、十二月の米英との開戦詔書に大臣として署名した。四二年四月には衆議院議員選挙に山口県第二区から立候補して当選した。この選挙で隣の第一区で当選したのが安倍かん(一八九四~一九四六)──安倍晋三の父方の祖父である。

 ◆安倍家と岸家

 安倍家(「二つの血統を引く安倍晋三」)は山口県のいまの長門ながと市で大庄屋をしていた大地主で、酒と醬油の醸造も営んでいた。地元では名家として知られる。近代になっての安倍家の当主・慎太郎は一八七九年(明治十二)の第一回山口県会議員選挙に立候補し当選したが、八二年に三十二歳で亡くなった。子がなかったため妹のタメが、やはり地方の名門である椋木むくのき家の彪助ひょうすけを婿養子に迎え、この夫婦の間に一八九四年(明治二十七)に生まれたのが寛だった。岸信介の二歳上になる。だが寛が幼い頃に両親とも亡くなってしまい、伯母に育てられた。

 寛は一九二一年(大正十)に東京帝国大学法学部を卒業すると、自転車製造会社を東京で経営した。だが二三年九月の関東大震災で工場が焼失し、会社は倒産した。長男・晋太郎が生まれたのは震災翌年の二四年三月だった。しかし八十日後に妻・静子と離婚してしまう。寛は晋太郎を連れて山口県に戻った。

 安倍寛は一九二八年の衆院選に山口一区から立候補したが落選した。日置へき村長、山口県会議員などを務め、三七年の衆院選で初当選、四二年の衆院選でも当選した。この四二年の衆院選はいわゆる「翼賛選挙」だったが、安部寛は軍閥主義に反対し、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補して当選した。すでに大臣となり国家の中枢にいた岸信介とは政治的には対極の立場にいる人だった。

 岸信介は東條内閣の商工大臣だったが、東條とは対立し、一九四四年の東條内閣倒閣運動に関与し、七月に総辞職に追い込んだ。開戦時に閣僚だったので岸は敗戦直後の四五年九月に、A級戦犯として逮捕され巣鴨プリズンに入れられたが、「反東條」だったことが認められたのか、不起訴となり、四八年十二月に出所した。

 一方、佐藤栄作は一九二四年に鉄道省に入ると四〇年に監督局総務課長になり、翌年、監督局長となった。戦争末期の四四年四月には大阪鉄道局長となったが、これは陸軍と対立したために左遷されたらしい。兄・信介のように政府中枢にいたわけではないので、戦後も公職追放にはならなかった。四七年には運輸次官という官僚としての頂点に立ち、四八年三月に退官した。十月に発足した第二次吉田内閣では、国会議員ではなかったが、内閣官房長官に抜擢された。その前の片山内閣でも、西尾末広から内閣官房次長にという打診があったが、これは断っていた。社会党の内閣に入るつもりはなかったのだ。

 一九四八年十二月、巣鴨プリズンを出所した岸信介は、その足で首相官邸を訪ね、「官房長官(佐藤栄作)に会いたい」と告げた。だが守衛は身なりの怪しい岸を不審人物と思い、なかなか取り次いでくれなかったという逸話がある。

年齢差五歳の兄弟は、当然、兄のほうが先に官界に入り、出世して大臣にまでなって敗戦を迎えたが、戦中の栄華が戦後は一転して「罪」とみなされた。官僚として不遇だった弟は、戦後は吉田茂に引き立てられ、官房長官になっていたのである。そして兄弟の出世競争の舞台は、政界へと移る。

 安倍寛は戦後は日本進歩党に入り、一九四六年四月の衆院選の準備をしているさなかの一月三十日に、心臓麻痺で急死した。五十一歳だった。長男・晋太郎(一九二四~九一)はまだ二十一歳だった。岡山の第六高等学校から四四年に東京帝国大学法学部に進学したが、海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊した。もし戦争が続いていたら特攻隊で散っていたはずだ。敗戦後、大学に復学したとたん、父が亡くなったのである。

 晋太郎は四九年に卒業すると毎日新聞社に入り、五一年に岸信介の長女・洋子と結婚し、その二男・晋三が内閣総理大臣になる。

 元稿:幻冬舎 purs 主要出版物 社会・教養 【新刊・世襲 政治・企業・歌舞伎】 2023年02月07日 07:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。


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